「ヘーヴァジュラタントラ」英訳のチャプター1を確認して、初めて理解。
↓
空智金剛という漢訳の元テキスト語句は、「空智=HE」+「金剛=VAJRA」ということで” HEVAJRA”であったのか。空智は般若波羅蜜多の別訳扱いだとばかり思っていた。しかし実際漢訳テキストは、のっけからそれが大前提だと言ってるも同じということだ。意味的に→ Hevajra = Prajna-paramita-vajra = Sunya-vajra である。当追跡調査班的に言えば、まさに、Zero-vajra。"空/ゼロ"を(やむなく諸君のマインドに合わせて)実在側に尊格化してみたものであるぞと、第一章がまず表明している。即ちヘーヴァジュラとは身語心金剛の尊格的側面であるわけだが、その身語心金剛は既に「秘密集会タントラ」段階で「本体はゼロ」と規定済みである。話は最初で明確になっている。そもそもこのテキスト、ヘーヴァジュラ自体が何か語るわけでもなんでもない。
2012年05月20日
「大悲空智金剛大教王儀軌経」の空智金剛とは、
posted by コマプ墨田 at 18:31| 仏教関係調査
2012年05月19日
英訳「ヘーヴァジュラタントラ」チャプター2「MANTRAS」の驚くべきノリ
チャプター2「MANTRAS」(28) The ritual for seeking a thing which is lost: の個所、漢訳だと「金剛喩沙多成就法」にあたるところ。
英訳
↓
しかしこれ、英訳どおりに読んでも、普通にセックスの隠喩表現にしか読めないであろう。英文シフト後ですら「sesame oil and lac」は男女性液「 his big toe」が男性性器を思うほかなし。最期個所、英訳自体がこういうノリになっている。
↓
さらにその後の、漢訳だと象虎蛇を奔走させる各マントラの個所は、英訳だとこれにサイと犬が加わっている。象虎サイ蛇犬の順。漢訳だと蛇のマントラになってるものがそのままサイのものになってる。TELIYA TELIYA ならサイの方があってる。
英訳
↓
すごいのが最期の犬だ。マントラ無し。現代風に書けばこうしかならない。
↓
(PS: fleeをfreeのニュアンスで「自由にする」みたいな印象で間違えてたので直す↑(恥) でもこの場合、ニュアンスとしては「手なずける=動物を走らせる」みたいな雰囲気ではある。漢訳では、「奔走」と訳されてること、ブッダが象を手なずけたエピソードが付加されてあること、を考えると原文に「逃げる」というニュアンスは無いものと思う。)
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補足1:
ガールの台詞「Such or such a one. 」は、原文で「or」にあたるのがどういう意味の語かによるだろうが、ノリとしては→「それってか、ずばりそれそのもの!」、みたいな感じ?
というかノリとしては率直に思うところ、
↓
「おい俺のこれ、今こんななってるけど、元のは誰がどこやっちまったんだ?」
「それじゃん? あれがそうなってんの。」
英訳
↓
In order to gain success in this one should enchant at night time the eye of a maiden with this formula, repeating it 108 times:
OM NAGRA NAGRA,
honouring her with the five kinds of offerings, flowers, incense, lamps and so on.
Then at night on the eighth or fourteenth day having put ready jars containing sesame oil and lac, one should enchant them with this formula
repeated 108 times.
Next smearing his big toe with the enchanted lac, and washing it with the sesame oil, he should show it to the girl, saying:
Speak! Who has removed this thing of mine ?'
Then she will reply:
'Such or such a one. ' This is Vajra-astrology.
しかしこれ、英訳どおりに読んでも、普通にセックスの隠喩表現にしか読めないであろう。英文シフト後ですら「sesame oil and lac」は男女性液「 his big toe」が男性性器を思うほかなし。最期個所、英訳自体がこういうノリになっている。
↓
百八回セックスしたら(smearing his big toe with the enchanted lac, washing it with the sesame oil)、自分のそいつを見せてこう聞け→「俺のコイツをたった今どっかやっちゃったのは誰だ?」。するとガールは答えるだろう→「それ 、か、それよ」。これぞ金剛占星術だ。(補足1)
さらにその後の、漢訳だと象虎蛇を奔走させる各マントラの個所は、英訳だとこれにサイと犬が加わっている。象虎サイ蛇犬の順。漢訳だと蛇のマントラになってるものがそのままサイのものになってる。TELIYA TELIYA ならサイの方があってる。
英訳
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(29) OM VEDUYA VEDUYA
- pronounce this and an elephant fiees.
(30) OM MARMMA MARMMA
- pronounce this and a tiger fiees.
(31) OM TELIYA TELIYA
- pronounce this and a rhinoceros flees.
(32) ILI MILI PHUH PHUH
- pronounce this and a serpent flees.
(33) Show your hand with a gesture which indicates protection of wealth and power of subduing, and a dog will flee.
すごいのが最期の犬だ。マントラ無し。現代風に書けばこうしかならない。
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「富の保護と制圧のパワーを示すジェスチャーであんたの手を見せなよ。犬が走るだろうさ。」
(PS: fleeをfreeのニュアンスで「自由にする」みたいな印象で間違えてたので直す↑(恥) でもこの場合、ニュアンスとしては「手なずける=動物を走らせる」みたいな雰囲気ではある。漢訳では、「奔走」と訳されてること、ブッダが象を手なずけたエピソードが付加されてあること、を考えると原文に「逃げる」というニュアンスは無いものと思う。)
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補足1:
ガールの台詞「Such or such a one. 」は、原文で「or」にあたるのがどういう意味の語かによるだろうが、ノリとしては→「それってか、ずばりそれそのもの!」、みたいな感じ?
というかノリとしては率直に思うところ、
↓
「おい俺のこれ、今こんななってるけど、元のは誰がどこやっちまったんだ?」
「それじゃん? あれがそうなってんの。」
posted by コマプ墨田 at 15:30| 仏教関係調査
やむなく生活費を削って購入→ 英訳テキスト「ヘーヴァジュラタントラ」
森雅秀先生の論考に紹介あったので粘着追跡の結果、灯台もと暗し、アマゾンで買えると言う現実に到達で、本は図書館が基本と心に誓ったにもかかわらず、さすがにこれは無理なので自腹購入である。全部読むのは能力的に無理。無駄と言えば無駄である。が、元テキスト英訳個所中心ならば、OCR取り込みの英訳アンドロイド作戦でなんとかやれると踏むところ、とりあえず第一章は作業完了で今のところ全くもって順調である。英文も無茶がないシンプルな文体の風情である。これならなんとかなるかも。ただ、この英文側整理状況だと、元テキストや古層大乗の変化球錯綜手法を吸入しては訳しきれなそうな予測充満だが、ただ逆にそのように荒削りになった場合、意味合い的にどうシフトするのか興味深かくもある。
↓
The Hevajra Tantra: A Critical Study [ペーパーバック]
ローソンから持ち帰って即行第二章をざっと解読したところ、やはり漢訳テキストとかなりディテールは違っていた。各々そこまで行くまでの経路が違ってるのだろう。
PS:
第二章の真言の領域、これは漢訳どころの話じゃない風情である(漢訳への調査)。徹底している。テキストごとにディテールが違ってるのは、要は表層域など違っても別にどうでもいいという扱いと見た。要するに総体で根幹論旨形成の役を果たしていればいいという事。まさに落語と一緒でそのようなレベルは拡散中に書き換わってしまったのだと推測。ところが漢訳もこの梵文英訳も根本着眼は一切変わりない模様。梵文テキストから翻訳したこちらの内容の方が文意暴力感がストレートだ。
↓
The Hevajra Tantra: A Critical Study [ペーパーバック]
ローソンから持ち帰って即行第二章をざっと解読したところ、やはり漢訳テキストとかなりディテールは違っていた。各々そこまで行くまでの経路が違ってるのだろう。
PS:
第二章の真言の領域、これは漢訳どころの話じゃない風情である(漢訳への調査)。徹底している。テキストごとにディテールが違ってるのは、要は表層域など違っても別にどうでもいいという扱いと見た。要するに総体で根幹論旨形成の役を果たしていればいいという事。まさに落語と一緒でそのようなレベルは拡散中に書き換わってしまったのだと推測。ところが漢訳もこの梵文英訳も根本着眼は一切変わりない模様。梵文テキストから翻訳したこちらの内容の方が文意暴力感がストレートだ。
posted by コマプ墨田 at 02:02| 仏教関係調査
2012年05月18日
さすがにこれは呆れる。→警察犯罪
こないだ警官とはいえ千円程度の万引きで云々とか書いたけど、これはさすがに(汗
警官が電車内の酔客からスリ 逃走で通行人がけが
要するに、何やっても自分たち組織でもみ消せるからオッケーと言う安心感があるってことだな。もっと山ほどあると予測。
パソコンで証拠偽装

これだけ警官が普通に犯罪やってるという状況と、高知白バイ事件のような組織ぐるみのデッチあげが警察の通常モードとなると、実のところ、明らかに不合理な冤罪事件の事実の裏を想像してしまうな。数々の大冤罪事件、捜査に間違いがあったとかそういう話じゃないんじゃないかとか。郵政不正事件、小沢裁判などの検察の実態考えても一般人の想像を絶する線までやっちゃってると思われる。
警官が電車内の酔客からスリ 逃走で通行人がけが
警視庁の警察官が、東京・八王子市の電車内でスリをしたとして逮捕されました。警察官は、エスカレーターを逆走して逃走を図り、通行人を押し倒し、けがをさせています。
要するに、何やっても自分たち組織でもみ消せるからオッケーと言う安心感があるってことだな。もっと山ほどあると予測。
パソコンで証拠偽装

これだけ警官が普通に犯罪やってるという状況と、高知白バイ事件のような組織ぐるみのデッチあげが警察の通常モードとなると、実のところ、明らかに不合理な冤罪事件の事実の裏を想像してしまうな。数々の大冤罪事件、捜査に間違いがあったとかそういう話じゃないんじゃないかとか。郵政不正事件、小沢裁判などの検察の実態考えても一般人の想像を絶する線までやっちゃってると思われる。
posted by コマプ墨田 at 15:41| 日記
2012年05月14日
後期密教「究竟次第」の最終過程について (←予測段階)
こちらの書籍も確認しとく必要ありの認識に至りましたが、とりあえずこちら様で引用されてる個所を再引用し、
↓
思うところ書きますと、
↓
ここで示されてる[究竟次第]が実際の性瑜伽か観想の延長かは結局は通過過程なので条件を満たせばどちらでも良いのではなかろうか? 実際現在のチベット仏教では観想で過程を十分完了させ得る前提であろう。「ヘーヴァジュラタントラ」で言えば、わざと教条的にテキストがとらえられないように巧妙な手立てを用いてるようである。
要するに[究竟次第]とは、[生起次第]にて、五蘊が捉える実在世界が実は”真理の拡張体 (マンダラ)"と同体である旨了知した後の、実際にそれに合一するプロセスである。これに関わり「ヘーヴァジュラタントラ」がもしこうした論旨を持つのであるならば(当追跡調査の解釈が正しければ)、
↓
「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳) の「清浄品」
「ヘーヴァジュラタントラ」真実品 (津田真一 梵文和訳) 第11偈 について
[究竟次第]の次のプロセス、あるいはその完全なる完了とは、「合一した"真理の実在側(実在的状態)"に未だ"在る"ところのダルマ総体を消失させるプロセス、これを経て、”真実の本来の実在性(真実の実在的なあり方)=空(ゼロ)" に最終完結すること、に他ならない。おそらくこれは大乗はもとより仏教総体の根幹「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」に完全に則って論旨妥当のはず。特異というなら涅槃寂静の解釈(把握経路)の問題のみである。「ヘーヴァジュラタントラ」で言えば→、「古層空論理」が論法に用いる「空(ゼロ位置)とダルマ総体の可逆同値性」に則って「空(ゼロ)」側(状態)を、実在側からたどり実在延長の(つまり現世実在内で到達可能の)「存在性を持つ真理(=ゼロ的に存在するもの)」と形式化する、との論旨ということかになろうか。これが「古層空論理」のあり方を前提とし(根幹を逸脱することなく)十分可能な展開(変容)であることは間違いない。
「ヘーヴァジュラ漢訳 清浄品」のこの個所、「この法を棄捨し眞實を成就し能うなくば、則ち蘊等の纒縛(てんばく)する所」が最大重要であると考える。
↓
「このように五蘊のあり方に順じて"真実の相"を示したところであるが、それは一定のプロセス、方便である。諸君にとっては、認識能力自体が戯論/Papañca 故に一切諸法の本体は三毒なのだから、事の把握としてやむをえない過程なのである。だが次の過程で、いよいよこれの"ダルマ域"を消失させるということである。それができれば残った"真実"の核側に到達できる。その状態は空であり清浄である。」という論理であろう。(以上は予測段階)
参考サイト
「秘密集会タントラ」での内容だが、全くもって上記その通りの筋だと思う。ただ興味深いのは、このプロセスをもっても(実質的に)やはり実在領域にては空(ゼロ)の極には到達できないも同じ旨をちゃんと示している点である(→双入次第)。
↓
秘密集会 聖者流 究竟次第
はたして展開する「ヘーヴァジュラタントラ」他の母タントラ系では、このあたりの収め方はどうなってるのかまことに気になるところであるが、ここまでの追跡調査から基本同じ着眼で万事周到であるに違いないと予測する。諸研究書にある第四灌頂の内容が鍵であろう。
↓
『生起次第とは、簡単にいえば、私たちの世界を構成する森羅万象が実は窮極の存在であるホトケ達の顕現に他ならないことを監督する修行である。もう少し具体的にいうならば、あらゆる物質世界は、ホトケたちが参集するマンダラであり、そこに輪廻する生きとし生けるものすべてがマンダラを形作る上で不可欠の聖な存在であることを、瞑想して心身に浸透させることだ。
こうすることで、日常性の固い殻を破砕し、日常性を絶対化し、執着しがちな私たちの意識構造を根底から揺るがし、ホトケの正しい教えを授かる準備が出来上がる。生起次第が生成のプロセスと呼ばれる理由は、この修行が修行者自身が主尊と一体化して、多数のホトケたちを次々に生起する次第、つまり生成するプロセスに他ならないからだ。
究竟次第とは、後期密教が窮極の修行法として開発した快楽と叡智の窮極の関係に基づく修行法すなわち「性的ヨーガ(性瑜伽)」に集中する修行法のことである。』
(性と呪殺の密教/正木晃/講談社から引用)
思うところ書きますと、
↓
ここで示されてる[究竟次第]が実際の性瑜伽か観想の延長かは結局は通過過程なので条件を満たせばどちらでも良いのではなかろうか? 実際現在のチベット仏教では観想で過程を十分完了させ得る前提であろう。「ヘーヴァジュラタントラ」で言えば、わざと教条的にテキストがとらえられないように巧妙な手立てを用いてるようである。
要するに[究竟次第]とは、[生起次第]にて、五蘊が捉える実在世界が実は”真理の拡張体 (マンダラ)"と同体である旨了知した後の、実際にそれに合一するプロセスである。これに関わり「ヘーヴァジュラタントラ」がもしこうした論旨を持つのであるならば(当追跡調査の解釈が正しければ)、
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「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳) の「清浄品」
「ヘーヴァジュラタントラ」真実品 (津田真一 梵文和訳) 第11偈 について
[究竟次第]の次のプロセス、あるいはその完全なる完了とは、「合一した"真理の実在側(実在的状態)"に未だ"在る"ところのダルマ総体を消失させるプロセス、これを経て、”真実の本来の実在性(真実の実在的なあり方)=空(ゼロ)" に最終完結すること、に他ならない。おそらくこれは大乗はもとより仏教総体の根幹「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」に完全に則って論旨妥当のはず。特異というなら涅槃寂静の解釈(把握経路)の問題のみである。「ヘーヴァジュラタントラ」で言えば→、「古層空論理」が論法に用いる「空(ゼロ位置)とダルマ総体の可逆同値性」に則って「空(ゼロ)」側(状態)を、実在側からたどり実在延長の(つまり現世実在内で到達可能の)「存在性を持つ真理(=ゼロ的に存在するもの)」と形式化する、との論旨ということかになろうか。これが「古層空論理」のあり方を前提とし(根幹を逸脱することなく)十分可能な展開(変容)であることは間違いない。
「ヘーヴァジュラ漢訳 清浄品」のこの個所、「この法を棄捨し眞實を成就し能うなくば、則ち蘊等の纒縛(てんばく)する所」が最大重要であると考える。
↓
是の如きは蘊等の清淨出生の次第なり。彼れこの法を棄捨し眞實を成就し能うなくば、則ち蘊等の纒縛(てんばく)する所となす。若し世間の礙闇・眞實を了知せば、即ち是の縛より解脱を得、是の故に非色・非聲・非香・非味・非觸・非法・亦非世間・心清淨の故に即ち一切清淨なり。
「このように五蘊のあり方に順じて"真実の相"を示したところであるが、それは一定のプロセス、方便である。諸君にとっては、認識能力自体が戯論/Papañca 故に一切諸法の本体は三毒なのだから、事の把握としてやむをえない過程なのである。だが次の過程で、いよいよこれの"ダルマ域"を消失させるということである。それができれば残った"真実"の核側に到達できる。その状態は空であり清浄である。」という論理であろう。(以上は予測段階)
参考サイト
「秘密集会タントラ」での内容だが、全くもって上記その通りの筋だと思う。ただ興味深いのは、このプロセスをもっても(実質的に)やはり実在領域にては空(ゼロ)の極には到達できないも同じ旨をちゃんと示している点である(→双入次第)。
↓
秘密集会 聖者流 究竟次第
はたして展開する「ヘーヴァジュラタントラ」他の母タントラ系では、このあたりの収め方はどうなってるのかまことに気になるところであるが、ここまでの追跡調査から基本同じ着眼で万事周到であるに違いないと予測する。諸研究書にある第四灌頂の内容が鍵であろう。
posted by コマプ墨田 at 15:11| 仏教関係調査
2012年05月13日
「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳) 「拏吉尼熾盛威儀眞言品」で、細かい疑問
例の降雨法の竜王像ですが「阿難陀竜王」と記されてあるわけです。原テキスト自体が難陀と阿難陀をわざと誤記してる可能性は? しかも降雨真言に行く前の所作で「空智金剛大明王」の絵を描く際に、明王は「阿難陀竜王」を踏むとまで。どうもこのあたりもかなり毒気が注入されてるような印象です。
posted by コマプ墨田 at 18:41| 仏教関係調査
2012年05月12日
「ヘーヴァジュラタントラ」真実品 (津田真一 梵文和訳) 第11偈 について
当追跡班はこの偈 に関わる前の考察にて→、「ヘーヴァジュラタントラ」はここで、"真実"の非実体性を示しつつ、その現世実体側での具現相としてあるところの真言と天尊の非実体性をも示めすものと前半部を解釈し、これを単に通常の空論理の図式踏襲とまず見つつ、論旨はさらにこの通常空論理図式を"戯論"と排した体をとり、真言天尊の実体性を認める言及を装いつつも、実は通常空論理どおりに「真実とダルマの可逆同値性」によるレトリックを用いてるのではないか?と、その印象までを書いた次第である。その後「戯論」なる語の重大な意味を遅ればせながら理解し、また別の品での考察も連動し、あらたな着眼をこの偈に対して持った次第である。
まずその問題の個所。
↓
梵文和訳のこのセンテンスの括弧内は、津田先生が補ったものであろう。あえて今その個所を除外してみる。
↓
となる。
最重要なのは「戯論を離れたそれ自体」の義である。ここで問題となるのが「戯論」の意味であるが、これは現代語の印象で軽く判断してはならない超重要な仏教用語であった。それを知らずにここまで書いていたのである。
さきほど「理趣経」との関連調査で、スマナサーラ長老の解説に到着したのであるが、読後眼から鱗である。
↓
パパンチャのからくり
ダンマパダ 第14 ブッダの章
戯論とは実在を捉える精神作用に必然するところの虚妄性であろう。要は通常、人の精神はダルマをこのフィルター抜きで捉えることは出来ないということである。上記リンク先でのスマナサーラ長老指摘に寄ればこうである。
↓
津田先生の補足個所をとりさった原文対応語句を軸として「真実品」該当個所にてこの意を強く踏まえつつ読むと、非常に単純にこういう趣旨として読めるのではないかとの思いに至る。(補足: 解脱に相応する語であるとの[nippapañca](パーリ語)のサンスクリット形態(と思われる)[niḥprapañca]を含む一単語たる[niḥprapañcasvabhāvataḥ]が「ヘーヴァジュラタントラ」サンスクリット文側に見受けられる。)
↓
これは津田先生の補足内容と基本さほど変わらない気もするのだが、違うとすれば、戯論を排し残る領域は本来の空論理から言えば何もないのであるが、それを「存在」と言いえる筋書きの強調であろう。上記後半部論旨はこうも言い換えれるかもしれない。
↓
この図式は、「秘密集会タントラ」が身語心金剛を(悟りを得たはずの如来ですら)得ることが出来ないものと規定しながら、悟りの根幹としてダルマ側に向けて純然とした機能を発揮するところの(のみの)「秘密」と定義するのと同じ論旨である。つまるところこれらはゼロの概念そのものなのである。
まずその問題の個所。
↓
(真実それ自体に関しては、それを何らかの有相なるものとして)能く観想するものもなく、また観想さるべき(特定の相)もない。(それと同置されるべき)真言もなく、(その顕現としての)天尊もない。(しかしながら、この様な)戯論を離れた(その真実)それ自体(の自ずからなる現われとして)真言と天尊とは(現実に)存在しているのである。
(「反密教学」津田真一著 密教から反密教へ 227P )
梵文和訳のこのセンテンスの括弧内は、津田先生が補ったものであろう。あえて今その個所を除外してみる。
↓
能く観想するものもなく、また観想さるべきもない。真言もなく天尊もない。戯論を離れたそれ自体 真言と天尊とは存在しているのである。
となる。
最重要なのは「戯論を離れたそれ自体」の義である。ここで問題となるのが「戯論」の意味であるが、これは現代語の印象で軽く判断してはならない超重要な仏教用語であった。それを知らずにここまで書いていたのである。
さきほど「理趣経」との関連調査で、スマナサーラ長老の解説に到着したのであるが、読後眼から鱗である。
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パパンチャのからくり
ダンマパダ 第14 ブッダの章
戯論とは実在を捉える精神作用に必然するところの虚妄性であろう。要は通常、人の精神はダルマをこのフィルター抜きで捉えることは出来ないということである。上記リンク先でのスマナサーラ長老指摘に寄ればこうである。
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>パパンチャとは、仏教の真理をすべてひと言で表現する単語です。仏教においては、とても大事なキーワードです。「世界はパパンチャであって、解脱・涅槃はニッパパンチャ(nippapañca)である」と説かれているから、どれほど大事な用語かが理解できると思います。
>このようにすべての生命は自分の眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法のデータをありのままに認識しないで捏造して認識するのです。生命は実際の世界を知らないのです。私たちはありのままの世界ではなく、「あって欲しい世界」を捏造するのです。わざと組み合わせて合成する知識なので、「現象」という単語が使えるのです。それで認識そのものが、捏造した結果になるのです。認識は知ることですが、正知ではなく、誤知(ごち)になっているのです。
津田先生の補足個所をとりさった原文対応語句を軸として「真実品」該当個所にてこの意を強く踏まえつつ読むと、非常に単純にこういう趣旨として読めるのではないかとの思いに至る。(補足: 解脱に相応する語であるとの[nippapañca](パーリ語)のサンスクリット形態(と思われる)[niḥprapañca]を含む一単語たる[niḥprapañcasvabhāvataḥ]が「ヘーヴァジュラタントラ」サンスクリット文側に見受けられる。)
↓
通常の空論理に基づき言えば、観想するものもなく、観想さるべきもない。真言もなく天尊もない。だが 空論理の「真実とダルマの可逆同値性」を踏まえ述べるなら、主観が成す観念作用領域を排除して(残り)得られようところの「空(ゼロ)」側それ自体において(として)、真言と天尊とは(ゼロ的に)存在しているのである。
これは津田先生の補足内容と基本さほど変わらない気もするのだが、違うとすれば、戯論を排し残る領域は本来の空論理から言えば何もないのであるが、それを「存在」と言いえる筋書きの強調であろう。上記後半部論旨はこうも言い換えれるかもしれない。
↓
主観が成す観念作用を取り去った視点が得られるならば、真実は(ゼロ的とはいえ形式的には)存在として認知できるはずで、真言と天尊もまたそのように”在る”。
この図式は、「秘密集会タントラ」が身語心金剛を(悟りを得たはずの如来ですら)得ることが出来ないものと規定しながら、悟りの根幹としてダルマ側に向けて純然とした機能を発揮するところの(のみの)「秘密」と定義するのと同じ論旨である。つまるところこれらはゼロの概念そのものなのである。
posted by コマプ墨田 at 21:56| 仏教関係調査
「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」と「理趣経」の直通経路
「秘密集会タントラ和訳」を最初に読んだ時に、ちらとこの印象を書いたのだが、やはり「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」は「理趣経」が直接の基層という話に普通なるのではなかろうか。相当にあからさまだと思う次第である。「十七清浄句」もそうであるが、最も事をはっきり示しているのは「第三 降伏の法門」である。
まず、現世具現域三毒がダルマ総体の本体でありつつ、現世主体の判断基準が存在しない般若波羅蜜多(ゼロ域)との同値対応状態(拮抗図式)にあることを述べている。この図式の延長で「秘密集会タントラ」は貧瞋痴(三毒)各々に金剛を付して身語心金剛と同値させる形式化(松長本 第十三分「十種の念誦法」 /第十八分「秘密灌頂」)に至ったと推測できよう。
↓
その前提にのせて、通常社会基準の大逆相が述べられる。
↓
三毒(現世具現相)と般若波羅蜜多(空=真実)との可逆同値的論理を前提とするところ、「三界の一切の有情を害すとも、悪趣に堕せず」とは、要は→、事の善悪を判断する基準は空(ゼロ位置)において存在しない(=できない=平等)のであり、それと現世諸事象(ダルマ)との可逆同値性を認める観点からして、現世側全諸事象(ダルマ)間も遍く同値(=平等)であるから、諸事象ごと縁起の帰結が特定の分化を成すなども(実は)在り得ない。こういった論旨のはずである。また「十七清浄句」等での「清浄」という語の論理メカニズム上の役割は「秘密集会タントラ」のそれと全く同じである。もちろんこれは「古層般若経空論理」からの歴代受け渡しに過ぎない(「七百頌般若経」の重要性)。「理趣経」の論法をさらに拡張すれば、そのまま地続きで「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」の論旨へと展開する。「古層般若経」由来の「理趣経」のこうしたドライな論理は、どうしても現代日本では特に一般倫理からのバイアスで読まれてしまう(ざるを得ない)ので、本質的な部分に過剰な解釈が重なり、単純な経路が見えにくくなっているように思われる。
補足1
なぜ一切有情を害して調伏になるかというと、一切有情の生存個別に善悪の基準など本来的に無いので(=平等=空との同値)、悪人を害することが調伏であるなら一切有情にそれは対応する。という論理とも推測できる。
補足2
戯論(Papañca)という語の意味の本質ついて、実に参考になるサイトを発見。
↓
パパンチャのからくり
ダンマパダ 第14 ブッダの章
スマナサーラ長老著書からの引用個所
↓
まず、現世具現域三毒がダルマ総体の本体でありつつ、現世主体の判断基準が存在しない般若波羅蜜多(ゼロ域)との同値対応状態(拮抗図式)にあることを述べている。この図式の延長で「秘密集会タントラ」は貧瞋痴(三毒)各々に金剛を付して身語心金剛と同値させる形式化(松長本 第十三分「十種の念誦法」 /第十八分「秘密灌頂」)に至ったと推測できよう。
↓
いわゆる欲無戯論性の故に、瞋無戯論性なり。瞋無戯論性の故に、癡無戯論性なり。癡無戯論性の故に、一切法無戯論性なり。一切法無戯論性の故に、まさに知るべし。般若波羅蜜多無戯論性なり。
(「密教経典」理趣経 129P 宮坂宥勝訳 講談社学術文庫)
その前提にのせて、通常社会基準の大逆相が述べられる。
↓
金剛手よ、もしこの理趣を聞いて受持し読誦することあらば、設(たと)い三界の一切の有情を害すとも、悪趣に堕せず、調伏をもっての故に、疾(と)く無上正等菩提を証すべし。(同訳書 130P)
三毒(現世具現相)と般若波羅蜜多(空=真実)との可逆同値的論理を前提とするところ、「三界の一切の有情を害すとも、悪趣に堕せず」とは、要は→、事の善悪を判断する基準は空(ゼロ位置)において存在しない(=できない=平等)のであり、それと現世諸事象(ダルマ)との可逆同値性を認める観点からして、現世側全諸事象(ダルマ)間も遍く同値(=平等)であるから、諸事象ごと縁起の帰結が特定の分化を成すなども(実は)在り得ない。こういった論旨のはずである。また「十七清浄句」等での「清浄」という語の論理メカニズム上の役割は「秘密集会タントラ」のそれと全く同じである。もちろんこれは「古層般若経空論理」からの歴代受け渡しに過ぎない(「七百頌般若経」の重要性)。「理趣経」の論法をさらに拡張すれば、そのまま地続きで「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」の論旨へと展開する。「古層般若経」由来の「理趣経」のこうしたドライな論理は、どうしても現代日本では特に一般倫理からのバイアスで読まれてしまう(ざるを得ない)ので、本質的な部分に過剰な解釈が重なり、単純な経路が見えにくくなっているように思われる。
補足1
なぜ一切有情を害して調伏になるかというと、一切有情の生存個別に善悪の基準など本来的に無いので(=平等=空との同値)、悪人を害することが調伏であるなら一切有情にそれは対応する。という論理とも推測できる。
補足2
戯論(Papañca)という語の意味の本質ついて、実に参考になるサイトを発見。
↓
パパンチャのからくり
ヴィタッカの次に、とんでもないことが始まります。「パパンチャ・papañca」ということ。ヴィタッカは「花」とか「人」とか「建物」などと瞬間的に考えることですが、その後に、欲や怒り、憎しみ、悲しみ、後悔、嫉妬などのさまざまな感情が湧き起こってきて、頭の中でごちゃごちゃ考え始めるのです。これをパーリ語で「パパンチャ」と言います。パパンチャは訳しにくい言葉ですが、「現象」とか「妄想」という言葉が一番適切で、理解しやすいでしょう。実際には無いものを有ると考えて、実体化、固定化することです。
ダンマパダ 第14 ブッダの章
スマナサーラ長老著書からの引用個所
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>パパンチャとは、仏教の真理をすべてひと言で表現する単語です。仏教においては、とても大事なキーワードです。「世界はパパンチャであって、解脱・涅槃はニッパパンチャ(nippapañca)である」と説かれているから、どれほど大事な用語かが理解できると思います。
>このようにすべての生命は自分の眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法のデータをありのままに認識しないで捏造して認識するのです。生命は実際の世界を知らないのです。私たちはありのままの世界ではなく、「あって欲しい世界」を捏造するのです。わざと組み合わせて合成する知識なので、「現象」という単語が使えるのです。それで認識そのものが、捏造した結果になるのです。認識は知ることですが、正知ではなく、誤知(ごち)になっているのです。
posted by コマプ墨田 at 03:48| 仏教関係調査
今日だったか昨日だったか日中TBSラジオを聴いてたら、やばい話を小耳に挟む。
なにやら政治家がこういう趣旨の発言をしてるらしい。
↓
まぁこれは日本の上層領域の本質(本体)基本中の基本である。それにならって2chでも応用されているわけである。いわゆるネットの荒らしの基本ノウハウでもある。警察検察裁判所などに至っては存在自体がこれである。というわけで、要するに日本の基本ということである。まぁ弱い庶民らが真面目に喰いついてくれば「よっしゃよっしゃ」と腹で笑ってるのである。これで何十年も安泰と思ったら、ここにきてこれが因果で日本は沈没寸前まで来てしまっている。他国の上層部はよくよく注意しましょう。何気に聴いてたので発言者が誰か正確ではないのだが、ハシモトなんとかとかは言っていた砂。
↓
相手と議論が錯綜してきて面倒な状況になったら、もともと話が収まらないような虚論ネタを出して横滑りさせてぐだぐだやるんですよ。それでやがて相手が「やってられん!」とケツをまくる。それで一件落着となる。
まぁこれは日本の上層領域の本質(本体)基本中の基本である。それにならって2chでも応用されているわけである。いわゆるネットの荒らしの基本ノウハウでもある。警察検察裁判所などに至っては存在自体がこれである。というわけで、要するに日本の基本ということである。まぁ弱い庶民らが真面目に喰いついてくれば「よっしゃよっしゃ」と腹で笑ってるのである。これで何十年も安泰と思ったら、ここにきてこれが因果で日本は沈没寸前まで来てしまっている。他国の上層部はよくよく注意しましょう。何気に聴いてたので発言者が誰か正確ではないのだが、ハシモトなんとかとかは言っていた砂。
posted by コマプ墨田 at 01:33| 日記
2012年05月10日
夏の電力不足判明だそうですが
特に大阪方面らしいが、政府も各所に節電要請らしいが、とにかくまず一番無駄なものを削減してそれでもダメなら基幹製造業に要請ってのは当然だ。とにかくまずテレビ局。なにひとつ意味のない深夜帯は確実にカットできる。日中も1時〜5時まではニュース以外不要だろう。国民の半数以上は会社か学校である。局も国民も双方節電である。もし「我社のこの時間帯のこの番組はこの非常事態であっても国家国民の為にどうしても必要です」という局側反論があれば、国の審査を受けて主張が妥当の場合は許可するとか制度をつくればよし。まぁ事実上それ不要。
posted by コマプ墨田 at 14:02| 日記
2012年05月09日
2012年05月06日
断片小説JABROID 長屋話「呪文」その3(日常編)
「ところで大家さん。寅にはあの世でざまぁみろと言ってやりやすがね。もうちょっとてめぇが生きてる間に効き目があるやつで、塩梅のいい呪文はねぇもんですかね?」
「そうさのぉ。あるにはあるな。」
「おっと、それ教えてくだせぇまし。」
「魔黏を開く術というのがあり、これは自分が念じればそれで成就する。」
「へ? 念じるだけでいいんで?」
「そうじゃ。もし魔黏を開こうと願う者あらば、臍あるいは腹でそのように念じる。」
「それだけでかないますか?」
「かなう。一心に念じた後にまた魔黏を見れば自ずから開いておる。」
「へっ。そんなもんなら誰でもできやすねぇ。そいつはいいや。」
「あまり安易に考えてもいけませんがな。」
「ところで大家さん。つかぬことをお伺かがいしやすがね。その魔黏てぇ奴はどんなもんで御座いやしょう?」
「これ八っつぁん。あんたは魔黏も知らずに喜んでおったのか。魔黏とは古酒のことじゃ。」
「えっ、こし? ああ要は魔黏てのはあれのことですかぃ。いやそいつはまことに塩梅いい話ですねぇ。確かにあっし、女房も若い時はそれ。臍で念じましてね。言わずもがな女房もあいよってなもんで、顔赤らめやがって、まぁお互い何言うでもなく、女房も腰巻・・・・」
「これこれ八っつぁん。あなたは何と勘違いしておる。古酒とはすなわちこれは酒じゃ。古く蓄えた酒を古酒といい、そのような酒には霊力がある。」
「へっ? 酒?? 酒が開きますか? どう開きますか?」
「蓋が開くのじゃ。」
「臍で念じると酒の蓋がぽんと?」
「そうじゃ。」
「それだけ?」
「それだけじゃ。」
「大家さん。もうちょっと色気のあるまじないはないもんでしょうかね?」
「あるにはあるな。信愛術といっての。これは男女の成就に関わる術じゃな。」
「おっと、大家さん。それっ、それ教えてくださいまし。」
「そうさのぉ。もし信愛術を成さんとあらば。」
「あらば?」
「信愛術を成さんとあらば、これこれ段取りを成しこれこれの呪文を唱えよ。(段取り呪文略)」
「へぃ! 呪文一回。」
「阿庾多じゃ。」
「またあの世の話ですかぃ。」
「男女のことはもともとが思うになり難いもんですからな。しかたありますまい。」
「大家さんね、そのもうちょっとこの世でなんとかなるやつで、他になんか御座いやせんですか。」
「あるにはある。」
「大家さん。廻りまわって結局最期に阿庾多ってのだけはやめてくんないましよ。」
「日月を抑える術。これこれの段取りでこれこれの呪文七百万回じゃ。(段取り呪文略)」
「百万で半年って言ってやしたから、かれこれ三年と半年はかかりやすねぇ。」
「日月を抑えるとなればそのぐらいは辛抱しなければなりません。」
「まぁ確かにこの世で収まりはしますけどねぇ。ところで大家さんその日月を抑えてどういう得がおこりますかね。」
「昼夜の区別がなくなるのじゃ。」
「大家さん。家にこもって三年と半年も呪文だけ唱えてるってぇとそんなもんどっちでもよかないすかね?」
「八っつぁん。あんたは信心が足りないのでそのように思う。三年六ヶ月も堂にこもってひたすら呪文を唱え続けるお方ともなると、これはおのずと思うところは異なる。」
「そんなもんですかね。あっしは普通にお天とさんとお付き合いしやすから関係ありやせん。」
「まぁ確かにあんたはそれで十分じゃ。」
「大家さんね。もうちょっと適当な数の呪文はねぇんですかね? せめて半日で済むやつ。」
「あるにはあるな。金剛喩沙多の術というのがある。」
「大家さん。喩沙多ってまさか阿庾多の並びじゃねぇでしょうね!」
「喩沙多とは即ち一種の方位術を言うのじゃ。要は東西南北星の動きなどその筋のことじゃがな。即ち巫女をして段取りこれこれの後呪文百八回、巫女は三世のことがら皆答える。」
「百八回てのは、その巫女よほどのいい女でこっちの煩悩惑わすんで、しかと覚悟してやれってな事前の脅しでやすかね?」
「そうではない。」
「へぇ。」
「おんなぐらなぐら、と呪文もまことに覚えやすい。」
「へぇ確かにそうでやすが、その三世ってのは?」
「三世とは、即ち現世と前世来世のことじゃな。」
「まぁあっしは特に前世も来世も気にしやせんけどね。」
「あんたは現世も気にしておらぬではないか。」
「こりゃどうも大家さんおほめにあずかりやして。」
「まぁ百八回ほどの呪文では寺のみくじと大差ないのは仕方あるまい。」
「呪文付きのでさすがにそれより簡単なのはそうそうねぇでしょう。」
「あるにはあるな。三種ある。」
「へっ、ありやすか。」
「ある。」
「!」
「べりゃ べりゃ と唱える。」
「へ?」
「あるいは、まーま まーま と唱える。」
「は?」
「あるいは、てりゃ てりゃ と唱える。」
「?、でそいつらを唱えるとどういうご利益が?」
「べりゃ べりゃ と唱えれば、即ち象が走る!」
「へっ」
「まーま まーま と唱えれば、即ち虎が走る!」
「へっ」
「てりゃ てりゃ と唱えれば、即ち蛇が走る!」
「へへーっ」
「現世に在りし時の仏も、この法を用いて象を走らせたと伝わる。」
「仏さまも象やりやしたか!」
「そうじゃ!」
「ん〜ん!じゃあっしはこれから行って、まーま まーま で寅の野郎大川に突き落としてきやすから。」
お後がよろしいようで。
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その1 (雨乞い編)
その2 (呪い編)
その3 (日常編)
「そうさのぉ。あるにはあるな。」
「おっと、それ教えてくだせぇまし。」
「魔黏を開く術というのがあり、これは自分が念じればそれで成就する。」
「へ? 念じるだけでいいんで?」
「そうじゃ。もし魔黏を開こうと願う者あらば、臍あるいは腹でそのように念じる。」
「それだけでかないますか?」
「かなう。一心に念じた後にまた魔黏を見れば自ずから開いておる。」
「へっ。そんなもんなら誰でもできやすねぇ。そいつはいいや。」
「あまり安易に考えてもいけませんがな。」
「ところで大家さん。つかぬことをお伺かがいしやすがね。その魔黏てぇ奴はどんなもんで御座いやしょう?」
「これ八っつぁん。あんたは魔黏も知らずに喜んでおったのか。魔黏とは古酒のことじゃ。」
「えっ、こし? ああ要は魔黏てのはあれのことですかぃ。いやそいつはまことに塩梅いい話ですねぇ。確かにあっし、女房も若い時はそれ。臍で念じましてね。言わずもがな女房もあいよってなもんで、顔赤らめやがって、まぁお互い何言うでもなく、女房も腰巻・・・・」
「これこれ八っつぁん。あなたは何と勘違いしておる。古酒とはすなわちこれは酒じゃ。古く蓄えた酒を古酒といい、そのような酒には霊力がある。」
「へっ? 酒?? 酒が開きますか? どう開きますか?」
「蓋が開くのじゃ。」
「臍で念じると酒の蓋がぽんと?」
「そうじゃ。」
「それだけ?」
「それだけじゃ。」
「大家さん。もうちょっと色気のあるまじないはないもんでしょうかね?」
「あるにはあるな。信愛術といっての。これは男女の成就に関わる術じゃな。」
「おっと、大家さん。それっ、それ教えてくださいまし。」
「そうさのぉ。もし信愛術を成さんとあらば。」
「あらば?」
「信愛術を成さんとあらば、これこれ段取りを成しこれこれの呪文を唱えよ。(段取り呪文略)」
「へぃ! 呪文一回。」
「阿庾多じゃ。」
「またあの世の話ですかぃ。」
「男女のことはもともとが思うになり難いもんですからな。しかたありますまい。」
「大家さんね、そのもうちょっとこの世でなんとかなるやつで、他になんか御座いやせんですか。」
「あるにはある。」
「大家さん。廻りまわって結局最期に阿庾多ってのだけはやめてくんないましよ。」
「日月を抑える術。これこれの段取りでこれこれの呪文七百万回じゃ。(段取り呪文略)」
「百万で半年って言ってやしたから、かれこれ三年と半年はかかりやすねぇ。」
「日月を抑えるとなればそのぐらいは辛抱しなければなりません。」
「まぁ確かにこの世で収まりはしますけどねぇ。ところで大家さんその日月を抑えてどういう得がおこりますかね。」
「昼夜の区別がなくなるのじゃ。」
「大家さん。家にこもって三年と半年も呪文だけ唱えてるってぇとそんなもんどっちでもよかないすかね?」
「八っつぁん。あんたは信心が足りないのでそのように思う。三年六ヶ月も堂にこもってひたすら呪文を唱え続けるお方ともなると、これはおのずと思うところは異なる。」
「そんなもんですかね。あっしは普通にお天とさんとお付き合いしやすから関係ありやせん。」
「まぁ確かにあんたはそれで十分じゃ。」
「大家さんね。もうちょっと適当な数の呪文はねぇんですかね? せめて半日で済むやつ。」
「あるにはあるな。金剛喩沙多の術というのがある。」
「大家さん。喩沙多ってまさか阿庾多の並びじゃねぇでしょうね!」
「喩沙多とは即ち一種の方位術を言うのじゃ。要は東西南北星の動きなどその筋のことじゃがな。即ち巫女をして段取りこれこれの後呪文百八回、巫女は三世のことがら皆答える。」
「百八回てのは、その巫女よほどのいい女でこっちの煩悩惑わすんで、しかと覚悟してやれってな事前の脅しでやすかね?」
「そうではない。」
「へぇ。」
「おんなぐらなぐら、と呪文もまことに覚えやすい。」
「へぇ確かにそうでやすが、その三世ってのは?」
「三世とは、即ち現世と前世来世のことじゃな。」
「まぁあっしは特に前世も来世も気にしやせんけどね。」
「あんたは現世も気にしておらぬではないか。」
「こりゃどうも大家さんおほめにあずかりやして。」
「まぁ百八回ほどの呪文では寺のみくじと大差ないのは仕方あるまい。」
「呪文付きのでさすがにそれより簡単なのはそうそうねぇでしょう。」
「あるにはあるな。三種ある。」
「へっ、ありやすか。」
「ある。」
「!」
「べりゃ べりゃ と唱える。」
「へ?」
「あるいは、まーま まーま と唱える。」
「は?」
「あるいは、てりゃ てりゃ と唱える。」
「?、でそいつらを唱えるとどういうご利益が?」
「べりゃ べりゃ と唱えれば、即ち象が走る!」
「へっ」
「まーま まーま と唱えれば、即ち虎が走る!」
「へっ」
「てりゃ てりゃ と唱えれば、即ち蛇が走る!」
「へへーっ」
「現世に在りし時の仏も、この法を用いて象を走らせたと伝わる。」
「仏さまも象やりやしたか!」
「そうじゃ!」
「ん〜ん!じゃあっしはこれから行って、まーま まーま で寅の野郎大川に突き落としてきやすから。」
お後がよろしいようで。
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その1 (雨乞い編)
その2 (呪い編)
その3 (日常編)
posted by コマプ墨田 at 15:01| 断片小説
2012年05月05日
断片小説JABROID 長屋話「呪文」その2 (呪い編)
「八っつぁん、寅とやらを呪い殺すまで行く前に、近いところで大将が戦で敵軍を散らす呪文をまず教えましょう。これこれの段取りで壇をこさえてこれこれの呪文を唱える。その後に祈願しながら壇を廻る。(段取り呪文略)」
「へぇ、それ一発で敵軍が蜘蛛の子を散らすように? すごいもんですねぇ。」
「百万回じゃ。」
「百万ですか。朝から始めて飯時には終わりますかね?」
「毎日朝から夕までやって半年ほどはいるじゃろうの。」
「半年ですかぃ! そんなもんを相手側の大将が半年もやってるとなるとその間に敵軍もやる気なくすんじゃねぇんですかね?」
「敵軍がそうなる前に自分の軍がそうなるかもしれんので気をつけねばならぬな。呪文の後も絶え間なく壇を廻り続けなければ効き目はない。さて次に八っつぁん、ていらこん術じゃ。」
「なんですかその、ていら大根とかいうのは?」
「わしも詳しくは知らんのじゃが、なにやら聖賢が身につく術と伝わる。これも呪文は百万回じゃ。」
「半年やって立派になれるんならやるやつもいましょうね。」
「ただこれを成就するにはもうひとつ難があるな。」
「難といいますと?」
「所作段取りは必ず日蝕の日にやらねばならぬ。」
「日蝕といいますと、それは毎日飯を食うということですかぃ?」
「昼日中にお天とさんが急に暗くなる不吉の日のことじゃ。」
「そんなもんは滅多に御座いませんでしょ。あっしはこの方見たことありやせんぜ?」
「わしも無いな。さて八っつぁん、いよいよその寅とやらを呪う術を教えましょう。」
「へっまってやした。」
「これこれ段取りを成して後にこれこれの呪文を唱える。(段取り呪文略)」
「また百万回ですか?」
「いや一阿庾多じゃ。」
「阿庾多ってなんですかぃ。どっか宿場の名前ですか。」
「数の名前じゃ」
「百万の倍ぐらですかね?」
「百万がもう百万倍あっても足りぬじゃろうな。」
「へっ。そうしやしたら半年がもう百万倍でも足りねぇんじゃ?」
「足りぬな。」
「じゃ死んでからもあの世でやるしかありやせんね?」
「まぁそういうことだ。」
「でも大家さん。その頃にはおいおい寅の野郎もおっ死んじゃってやがるだろうから、これは痛み分けってこってすかね?」
「ほぉ八っつぁん。あんたにしてはさえたことを言いましたなぁ。」
(その3へ続く)
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その1 (雨乞い編)
その2 (呪い編)
その3 (日常編)
「へぇ、それ一発で敵軍が蜘蛛の子を散らすように? すごいもんですねぇ。」
「百万回じゃ。」
「百万ですか。朝から始めて飯時には終わりますかね?」
「毎日朝から夕までやって半年ほどはいるじゃろうの。」
「半年ですかぃ! そんなもんを相手側の大将が半年もやってるとなるとその間に敵軍もやる気なくすんじゃねぇんですかね?」
「敵軍がそうなる前に自分の軍がそうなるかもしれんので気をつけねばならぬな。呪文の後も絶え間なく壇を廻り続けなければ効き目はない。さて次に八っつぁん、ていらこん術じゃ。」
「なんですかその、ていら大根とかいうのは?」
「わしも詳しくは知らんのじゃが、なにやら聖賢が身につく術と伝わる。これも呪文は百万回じゃ。」
「半年やって立派になれるんならやるやつもいましょうね。」
「ただこれを成就するにはもうひとつ難があるな。」
「難といいますと?」
「所作段取りは必ず日蝕の日にやらねばならぬ。」
「日蝕といいますと、それは毎日飯を食うということですかぃ?」
「昼日中にお天とさんが急に暗くなる不吉の日のことじゃ。」
「そんなもんは滅多に御座いませんでしょ。あっしはこの方見たことありやせんぜ?」
「わしも無いな。さて八っつぁん、いよいよその寅とやらを呪う術を教えましょう。」
「へっまってやした。」
「これこれ段取りを成して後にこれこれの呪文を唱える。(段取り呪文略)」
「また百万回ですか?」
「いや一阿庾多じゃ。」
「阿庾多ってなんですかぃ。どっか宿場の名前ですか。」
「数の名前じゃ」
「百万の倍ぐらですかね?」
「百万がもう百万倍あっても足りぬじゃろうな。」
「へっ。そうしやしたら半年がもう百万倍でも足りねぇんじゃ?」
「足りぬな。」
「じゃ死んでからもあの世でやるしかありやせんね?」
「まぁそういうことだ。」
「でも大家さん。その頃にはおいおい寅の野郎もおっ死んじゃってやがるだろうから、これは痛み分けってこってすかね?」
「ほぉ八っつぁん。あんたにしてはさえたことを言いましたなぁ。」
(その3へ続く)
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その1 (雨乞い編)
その2 (呪い編)
その3 (日常編)
posted by コマプ墨田 at 15:54| 断片小説
断片小説JABROID 長屋話「呪文」その1(雨乞い編)
「これ八っつぁん。あんた何を浮かない顔しておるのじゃ?」
「あ、これは大家さんどうも。実は向う横丁の寅の野郎に昨日ボコにされましてね。あんまり理不尽なんで今からどつき返しに行こうかどうかと。」
「やめときなさい。あんたの腕っ節じゃ所詮またやり返されるだけじゃ。」
「へぇ。実はあっしもそういう気がしてきたとこで。大家さん、何かいい知恵でも御座いませんか?」
「そうよのぉ、ない事もないな。八っつぁん、あんた呪術というのは知ってますか。」
「いえあっしはどうも腹とか切るのはごめんで。」
「それは手術じゃ。」
「呪術というのは、要は呪文で怨む相手を遠くから痛めつけるまじないのことじゃ。」
「へっ、そんなけっこうなもんがありやすか。」
(中略)
「寅の野郎、呪い殺すやつ、そのまじないお願いしやす。」
「まちなさい。ものには順序と言うものがある。最初はまず雨乞いの呪文を知らねばなるまい。」
「寅の野郎呪い殺すのに雨乞いは関係なくねぇですか。」
「あるのじゃ。軽いところから段々と物事を知っていかねば深いところを知る手立てはない。まぁ聴きなさい。庭の隅にでも池を作って龍神の像を納めなさい。それからこれこれ所作(略)をなしたならば、いよいよ声を大きくこの呪文を唱える。(呪文略)」
「へぇ、それで雨が降りますか?」
「降る時もある。」
「降らねぇ時も?」
「その場合はもう一つやり方があるのじゃ。」
「へ?」
「即座に呪文を逆に唱える。」
「へっ、それで今度は降りますかっ。」
「降る時もある。」
「降らねぇ時は?」
「竜神の頭を七つに割って蘭の花の枝のようにしなさい。」
「へっ!竜神様の頭かち割るんですかっ?
さすがにそれやったら今度は降りますんでしょうね?」
「さて八っつぁん、次は雨を止める呪文も言っときましょう。雨を止める時の呪文はこうじゃ。(呪文略)」
(その2へ続く)
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その1 (雨乞い編)
その2 (呪い編)
その3 (日常編)
「あ、これは大家さんどうも。実は向う横丁の寅の野郎に昨日ボコにされましてね。あんまり理不尽なんで今からどつき返しに行こうかどうかと。」
「やめときなさい。あんたの腕っ節じゃ所詮またやり返されるだけじゃ。」
「へぇ。実はあっしもそういう気がしてきたとこで。大家さん、何かいい知恵でも御座いませんか?」
「そうよのぉ、ない事もないな。八っつぁん、あんた呪術というのは知ってますか。」
「いえあっしはどうも腹とか切るのはごめんで。」
「それは手術じゃ。」
「呪術というのは、要は呪文で怨む相手を遠くから痛めつけるまじないのことじゃ。」
「へっ、そんなけっこうなもんがありやすか。」
(中略)
「寅の野郎、呪い殺すやつ、そのまじないお願いしやす。」
「まちなさい。ものには順序と言うものがある。最初はまず雨乞いの呪文を知らねばなるまい。」
「寅の野郎呪い殺すのに雨乞いは関係なくねぇですか。」
「あるのじゃ。軽いところから段々と物事を知っていかねば深いところを知る手立てはない。まぁ聴きなさい。庭の隅にでも池を作って龍神の像を納めなさい。それからこれこれ所作(略)をなしたならば、いよいよ声を大きくこの呪文を唱える。(呪文略)」
「へぇ、それで雨が降りますか?」
「降る時もある。」
「降らねぇ時も?」
「その場合はもう一つやり方があるのじゃ。」
「へ?」
「即座に呪文を逆に唱える。」
「へっ、それで今度は降りますかっ。」
「降る時もある。」
「降らねぇ時は?」
「竜神の頭を七つに割って蘭の花の枝のようにしなさい。」
「へっ!竜神様の頭かち割るんですかっ?
さすがにそれやったら今度は降りますんでしょうね?」
「さて八っつぁん、次は雨を止める呪文も言っときましょう。雨を止める時の呪文はこうじゃ。(呪文略)」
(その2へ続く)
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その1 (雨乞い編)
その2 (呪い編)
その3 (日常編)
posted by コマプ墨田 at 14:58| 断片小説
2012年05月04日
「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳) 「拏吉尼熾盛威儀眞言品」をよく読むと
「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳)の「拏吉尼熾盛威儀眞言品」という章は、降雨法や敵軍撃退法などの諸々真言と呪術法の解説になっているのだが、細かく読むとさすが「ヘーヴァジュラタントラ」と思うしかない構成になっていた。以下考察。(正直参りました。)
この章前半は、空智金剛心真言は何々といった形式でその真言を示すのみが続き、中ほどから現世対応の降雨法等解説に切り替わる。敵軍の撃退法、底羅紺法(具体内容解読及ばず)、瘧病法(他者を病気にする方法?)、魔黏を開き成就する法(具体内容解読及ばず)、信愛法、日月を制止する法、金剛喩沙多成就法などと続く。各々の項にて用いる真言とその際の事細かな儀軌が示されてある。
まず降雨法であるが、まず曼荼羅を描き、さらに香泥というもので竜王像を作って曼荼羅の所定の位置に池を作ってそこに安置する等、具体的な段取りが書かれてある。これら段取りを終えていよいよこの真言を唱えよとなり、その真言が示されてある。ところがこの後即座に、「これをしても雨が降らない場合の対処法」がわざわざ書いてあるのだ。すなわち、その場合は真言を逆に唱えろ、しからば大雨が降るだろう、と。さらにそれでも降らなかったらまで書いてある。その場合は「彼の竜王の頭をして、七分に破し蘭香梢のごとくにせよ」だそうである。それでも降らない場合は書かれておらず、最後に雨を止める時の所作と真言が書かれてある。不謹慎ながら落語かと思ってしまった次第である。(追記補足1: 最下段参照)
次に「他軍を降伏し速やかに破壊せしむる謂なり」という内容の成就法。五甘露や晝石や断鐡草なるものから丸薬を作り、さらにそれを十万回あるいは百万回真言で加持し終えて缾器(へいき)なるものの頂を描いて周匝し続ければ「他軍速やかに皆破壊するを得」とある。真言百万回はできなくは無いだろうが戦う間を惜しんで回転し続けなければならない。自力で戦った方が確実性が高くはないのかという疑念が浮かぶ。
次に目的内容不明の底羅紺法。指示された各種素材を日食の時に和合し、鉞斧形にして両足で踏み真言を百万回唱えれば「一切の聖賢を成就するを得、尚ほ違越せず」。これまた真言百万回は可能としてもそれに日食がかぶる必要有りとなれば、条件を満たす時は生涯でほとんどないに等しい。この項の末尾が気になるが的確な論旨把握できず。→「何に況やえん魔羅界を破壊するをや」(えんの活字発見できず)
次に瘧病法。怨む相手の名を毒薬で書き稲糠の火中に投じて真言、なのだが、ここで回数が一気に一阿庾多回に増大である。阿庾多とは→こういうことなので、要するに現実的には一生やっても間に合わないけどやるならやれという話。
次に、魔黏を開き成就する法。これは元テキストではセックスがらみの印象があり、漢訳ははぐらかして書いてる予測がある。この項に真言は無く、こうある→。「自らの臍輪に於いて是の観想を作し、或いは腹上に於いて観想成辧す、然る後乃ち魔黏を見れば自ら開く。」(追記補足2: 最下段参照)
次に信愛法。赤色の衣を着てなにやら汁を額に塗って真言一阿庾多回。
次に日月を制止する法。「阿闍利飯を用つて日月状と作し、金剛水中に置き」真言を唱える。今度は回数が生涯実現可能とも思える回数に戻って七百万回である。この数字、もし人の生涯分をイメージしての回数であるなら、要はその者は延々一生真言唱えるのだから晝夜(昼夜)の分別など無関係になるだろう、との意か?(←補足訂正: 計算してみたところ、一日六千回として百万回達成が約半年、七百万回だと三年半ほど。)
次に金剛喩沙多成就法。「一具相童女をして諸の香華供養を以って」真言百八回。最期は回数が激減(笑 たぶんここで言う供養は元テキストはセックスがらみであろう。百八回という数字も駄目押しである。加持された童女に三世の事を問うと「時に彼の童女、問いに隨ふて説を爲す」という。
加えて単に成就法とする三種の真言がある。回数が書かれてないので恐らく一回言えばよい。その成果
↓
「この眞言を誦すれば、時に象即ち犇走す」
「この眞言を誦すれば、時に虎即ち犇走す」
「この眞言を誦すれば、時に蛇即ち犇走す」
まぁ一方で一阿庾多回が要求されてるのだから、せいぜいほんの百八回とか一回でよしの真言では、得られるのはこのぐらいだということになろうか。要は一阿庾多という仏の領域の時間に比べれば、三世に関わり凡夫の意になることなどほんのこのぐらいのものだがね、という風の意であろうか?
象虎蛇の犇走法真言を漢訳と注釈にあるサンスクリット語で表記すると、
↓
尾廬野 尾廬野 (vetuya vetuya)
曼摩 曼摩 (marma marma)
底梨野 底梨野 (tilliya tilliya)
(サンスクリット文字にある点と線は略)
この三種真言には頭にオームの字もなし。
そして
↓
「佛、金剛藏菩薩に告げたまわく、我往昔もまた是の法を以て、護藏醉象を調伏し犇走せしむ」だそうである。
(追記補足3: 最下段参照)
最期が重要そうである。
↓
此の遨哩明妃・設嚩哩明妃・金剛拏吉尼は即ち無我の義なり、彼の地行・空行・鉤召・發遺悉く相應する故なり。
(途中)
今日は極度に精神が披露したので考察中断。
PS: 考察再開
象虎蛇の真言から最期の三明妃言及までが一括りとすれば、象虎蛇は三明妃の象徴として記されたものとの判断も生じ、要は「降雨法以下云々述べたごとく、三世の衆生意願などは大元これに帰し、またその大元は我(アートマン)無きものと知るべし」、あたりの通常仏教本流どおりの論旨か? ただ、降雨法儀軌より前の主要真言(解説によれば西蔵本では前半部真言は第十八品に相応する章に繰り返されているらしく、漢訳はこれを省略したと見られている)と降雨法以降との大枠での関係が重要であるところだが、より論旨詳細なサンスクリット本の内容が分からなければ深く検証することは困難と思える。
------------------------------------------------------------------------------------------------
追記補足1
蘭香梢で検索したところこのようなサイトを発見。→ こちら
竜王の頭云々の件は他の大乗仏典の言及から取り込んでいる模様。
↓
この引用個所だけでは文意総体は不明だが、少なくとも「ヘーヴァジュラ漢訳」側にある「竜王の頭をして七分に破し」とは「鬼神碎罪人之頭為七分」の転倒である。慧琳とは西域出身の八世紀頃の中国僧だそうです。「慧琳音義」は「一切経」への注釈書の模様。さらに追跡したところ、こちらに→ 「佛說穰麌梨童女經」到着してしまいました。「頭破作七分猶如蘭香梢。其有受持此真言法。・・」 かなり錯綜してきた空気です。前半部に「頭破作七分猶如蘭香梢」とあり。
七頭の尊様を持つとの穰麌梨童女とは?と追跡続行したところ、なんと国内の仏像に存在しました →こちら様調査。経典どおり顔が七面(とのこと)。蛇をまとう尊様からナーガ(竜王)の筋を明確にしております。& こちら様のショットを見ると、慶派の流れをくむ感じのなかなかよく出来た像である(こちら様で七頭の状態がよく分る)。法起寺が歓喜天をまつってるというのも興味深い。そして、ほどなく本家側の確実な画像群に到達 →佛說穰麌梨(Janguli) 童女經 Janguli Janguli Arya Janguli 穰麌梨童女(Janguli)。
これにより「ヘーヴァジュラ漢訳」側の「竜王の頭をして七分に破し」とは、七頭ナーガ系尊格に関連付けて記していることは確かです。「雨が降らないなら、とうとう役を果たさなかった竜王像に罰を与えて頭を破すればいい」と「それでも雨が降らないならば竜王像をより強い七頭の尊様に変えろ」というダブルミーニングなのか?、という漠然とした印象が脳内を廻っておりますが、「慧琳音義」側の正確な文意が把握できていないので明確な見解がつかめておりません。ただ「ヘーヴァジュラタントラ」はここでも非常に巧妙なことをやってることは確実と言えます。
さらにしぶとく追跡した結果ついにこちらに到着。↓
若悩乱者頭破七分
陀羅尼品 第二十六
追記補足2
魔黏を開き成就する法の「魔黏」とは何かが気になるところである。「漢訳→国訳」の訳者注釈に、サンスクリット表記で「madya」とあり、その意味は「酒」とある。だがこの項目の文脈から「酒」は納得行かないわけである。「酒を開く」というのは何だとなる。追跡調査の結果、こちら様ケルン大学サイトにてサンスクリット辞書を発見。これで「madya」を引くと確かに酒である。だが、グーグル検索を再三やると「madhya」という語が常に引っ掛かってくるので、これも引いてみると、この語は多義の意を持つようだが、その中に「女性の腰」「若い女性」などの意がある模様。それなら「ヘーヴァジュラタントラ」の論旨としては実にすっきりする。はたしてサンスクリット本がどうなってるか。翻訳過程の誤訳や意図的はぐらかしというより、元テキストが掛詞的レトリックを用いてる?
追記補足3
護藏醉象の藏はガルバだろうから「ガルバを守護する醉象」という意味で、ならば醉象とは?と検索してみたら、やはり由緒正しく古層大乗に起源がある語の可能性大。→醉象
なるほどこれでした。
↓
仏陀の生涯ー3
醉象の調査中に偶然いいサイトにぶち当たりました。本経の漢文(全)確保。
↓
中国電子佛典協会サイト
この章前半は、空智金剛心真言は何々といった形式でその真言を示すのみが続き、中ほどから現世対応の降雨法等解説に切り替わる。敵軍の撃退法、底羅紺法(具体内容解読及ばず)、瘧病法(他者を病気にする方法?)、魔黏を開き成就する法(具体内容解読及ばず)、信愛法、日月を制止する法、金剛喩沙多成就法などと続く。各々の項にて用いる真言とその際の事細かな儀軌が示されてある。
まず降雨法であるが、まず曼荼羅を描き、さらに香泥というもので竜王像を作って曼荼羅の所定の位置に池を作ってそこに安置する等、具体的な段取りが書かれてある。これら段取りを終えていよいよこの真言を唱えよとなり、その真言が示されてある。ところがこの後即座に、「これをしても雨が降らない場合の対処法」がわざわざ書いてあるのだ。すなわち、その場合は真言を逆に唱えろ、しからば大雨が降るだろう、と。さらにそれでも降らなかったらまで書いてある。その場合は「彼の竜王の頭をして、七分に破し蘭香梢のごとくにせよ」だそうである。それでも降らない場合は書かれておらず、最後に雨を止める時の所作と真言が書かれてある。不謹慎ながら落語かと思ってしまった次第である。(追記補足1: 最下段参照)
次に「他軍を降伏し速やかに破壊せしむる謂なり」という内容の成就法。五甘露や晝石や断鐡草なるものから丸薬を作り、さらにそれを十万回あるいは百万回真言で加持し終えて缾器(へいき)なるものの頂を描いて周匝し続ければ「他軍速やかに皆破壊するを得」とある。真言百万回はできなくは無いだろうが戦う間を惜しんで回転し続けなければならない。自力で戦った方が確実性が高くはないのかという疑念が浮かぶ。
次に目的内容不明の底羅紺法。指示された各種素材を日食の時に和合し、鉞斧形にして両足で踏み真言を百万回唱えれば「一切の聖賢を成就するを得、尚ほ違越せず」。これまた真言百万回は可能としてもそれに日食がかぶる必要有りとなれば、条件を満たす時は生涯でほとんどないに等しい。この項の末尾が気になるが的確な論旨把握できず。→「何に況やえん魔羅界を破壊するをや」(えんの活字発見できず)
次に瘧病法。怨む相手の名を毒薬で書き稲糠の火中に投じて真言、なのだが、ここで回数が一気に一阿庾多回に増大である。阿庾多とは→こういうことなので、要するに現実的には一生やっても間に合わないけどやるならやれという話。
次に、魔黏を開き成就する法。これは元テキストではセックスがらみの印象があり、漢訳ははぐらかして書いてる予測がある。この項に真言は無く、こうある→。「自らの臍輪に於いて是の観想を作し、或いは腹上に於いて観想成辧す、然る後乃ち魔黏を見れば自ら開く。」(追記補足2: 最下段参照)
次に信愛法。赤色の衣を着てなにやら汁を額に塗って真言一阿庾多回。
次に日月を制止する法。「阿闍利飯を用つて日月状と作し、金剛水中に置き」真言を唱える。今度は回数が生涯実現可能とも思える回数に戻って七百万回である。この数字、もし人の生涯分をイメージしての回数であるなら、要はその者は延々一生真言唱えるのだから晝夜(昼夜)の分別など無関係になるだろう、との意か?(←補足訂正: 計算してみたところ、一日六千回として百万回達成が約半年、七百万回だと三年半ほど。)
次に金剛喩沙多成就法。「一具相童女をして諸の香華供養を以って」真言百八回。最期は回数が激減(笑 たぶんここで言う供養は元テキストはセックスがらみであろう。百八回という数字も駄目押しである。加持された童女に三世の事を問うと「時に彼の童女、問いに隨ふて説を爲す」という。
加えて単に成就法とする三種の真言がある。回数が書かれてないので恐らく一回言えばよい。その成果
↓
「この眞言を誦すれば、時に象即ち犇走す」
「この眞言を誦すれば、時に虎即ち犇走す」
「この眞言を誦すれば、時に蛇即ち犇走す」
まぁ一方で一阿庾多回が要求されてるのだから、せいぜいほんの百八回とか一回でよしの真言では、得られるのはこのぐらいだということになろうか。要は一阿庾多という仏の領域の時間に比べれば、三世に関わり凡夫の意になることなどほんのこのぐらいのものだがね、という風の意であろうか?
象虎蛇の犇走法真言を漢訳と注釈にあるサンスクリット語で表記すると、
↓
尾廬野 尾廬野 (vetuya vetuya)
曼摩 曼摩 (marma marma)
底梨野 底梨野 (tilliya tilliya)
(サンスクリット文字にある点と線は略)
この三種真言には頭にオームの字もなし。
そして
↓
「佛、金剛藏菩薩に告げたまわく、我往昔もまた是の法を以て、護藏醉象を調伏し犇走せしむ」だそうである。
(追記補足3: 最下段参照)
最期が重要そうである。
↓
此の遨哩明妃・設嚩哩明妃・金剛拏吉尼は即ち無我の義なり、彼の地行・空行・鉤召・發遺悉く相應する故なり。
(途中)
今日は極度に精神が披露したので考察中断。
PS: 考察再開
象虎蛇の真言から最期の三明妃言及までが一括りとすれば、象虎蛇は三明妃の象徴として記されたものとの判断も生じ、要は「降雨法以下云々述べたごとく、三世の衆生意願などは大元これに帰し、またその大元は我(アートマン)無きものと知るべし」、あたりの通常仏教本流どおりの論旨か? ただ、降雨法儀軌より前の主要真言(解説によれば西蔵本では前半部真言は第十八品に相応する章に繰り返されているらしく、漢訳はこれを省略したと見られている)と降雨法以降との大枠での関係が重要であるところだが、より論旨詳細なサンスクリット本の内容が分からなければ深く検証することは困難と思える。
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追記補足1
蘭香梢で検索したところこのようなサイトを発見。→ こちら
竜王の頭云々の件は他の大乗仏典の言及から取り込んでいる模様。
↓
蘭香梢
又作蘭香蕱,舊譯作阿梨樹枝。蘭香花開時,梢頭之花子分為七分,以此比喻鬼神碎罪人之頭為七分。慧琳音義卷三十五(大五四‧五四一下):「蘭香蕱,此即如來譬喻說也。凡蘭香花出時,梢頭花子分為七分,罪人善神破其頭,破作七分,如彼蘭香頭。古譯云阿梨樹枝者,訛也,本無阿梨樹。」
この引用個所だけでは文意総体は不明だが、少なくとも「ヘーヴァジュラ漢訳」側にある「竜王の頭をして七分に破し」とは「鬼神碎罪人之頭為七分」の転倒である。慧琳とは西域出身の八世紀頃の中国僧だそうです。「慧琳音義」は「一切経」への注釈書の模様。さらに追跡したところ、こちらに→ 「佛說穰麌梨童女經」到着してしまいました。「頭破作七分猶如蘭香梢。其有受持此真言法。・・」 かなり錯綜してきた空気です。前半部に「頭破作七分猶如蘭香梢」とあり。
七頭の尊様を持つとの穰麌梨童女とは?と追跡続行したところ、なんと国内の仏像に存在しました →こちら様調査。経典どおり顔が七面(とのこと)。蛇をまとう尊様からナーガ(竜王)の筋を明確にしております。& こちら様のショットを見ると、慶派の流れをくむ感じのなかなかよく出来た像である(こちら様で七頭の状態がよく分る)。法起寺が歓喜天をまつってるというのも興味深い。そして、ほどなく本家側の確実な画像群に到達 →佛說穰麌梨(Janguli) 童女經 Janguli Janguli Arya Janguli 穰麌梨童女(Janguli)。
これにより「ヘーヴァジュラ漢訳」側の「竜王の頭をして七分に破し」とは、七頭ナーガ系尊格に関連付けて記していることは確かです。「雨が降らないなら、とうとう役を果たさなかった竜王像に罰を与えて頭を破すればいい」と「それでも雨が降らないならば竜王像をより強い七頭の尊様に変えろ」というダブルミーニングなのか?、という漠然とした印象が脳内を廻っておりますが、「慧琳音義」側の正確な文意が把握できていないので明確な見解がつかめておりません。ただ「ヘーヴァジュラタントラ」はここでも非常に巧妙なことをやってることは確実と言えます。
さらにしぶとく追跡した結果ついにこちらに到着。↓
若悩乱者頭破七分
>羅刹女が釈尊に言います。
若し我が呪(しゅ)に順ぜずして説法者を悩乱せば、頭破(わ)れて七分に作(な)ること阿梨樹の枝の如くならん。父母を殺(しい)する罪の如く、また油を壓(お)す殃(つみ)、斗秤(としょう)をもって人を欺誑(ごおう)し、調達が破僧罪の如く、此の法師を犯さん者は当に是の如き殃(つみ)を獲へべし、
陀羅尼品 第二十六
追記補足2
魔黏を開き成就する法の「魔黏」とは何かが気になるところである。「漢訳→国訳」の訳者注釈に、サンスクリット表記で「madya」とあり、その意味は「酒」とある。だがこの項目の文脈から「酒」は納得行かないわけである。「酒を開く」というのは何だとなる。追跡調査の結果、こちら様ケルン大学サイトにてサンスクリット辞書を発見。これで「madya」を引くと確かに酒である。だが、グーグル検索を再三やると「madhya」という語が常に引っ掛かってくるので、これも引いてみると、この語は多義の意を持つようだが、その中に「女性の腰」「若い女性」などの意がある模様。それなら「ヘーヴァジュラタントラ」の論旨としては実にすっきりする。はたしてサンスクリット本がどうなってるか。翻訳過程の誤訳や意図的はぐらかしというより、元テキストが掛詞的レトリックを用いてる?
追記補足3
護藏醉象の藏はガルバだろうから「ガルバを守護する醉象」という意味で、ならば醉象とは?と検索してみたら、やはり由緒正しく古層大乗に起源がある語の可能性大。→醉象
なるほどこれでした。
↓
仏陀の生涯ー3
「酔象調伏」とは仏陀を快く思わない従弟のテーヴァダッタが発情して狂暴となった象(酔象)を放し仏陀を襲わせ殺そうとしましたが酔象は仏陀の前までくると仏陀に怖れおののき頭を垂れておとなしくなったというお話です。
醉象の調査中に偶然いいサイトにぶち当たりました。本経の漢文(全)確保。
↓
中国電子佛典協会サイト
posted by コマプ墨田 at 21:58| 仏教関係調査
「サウンド オブ ノイズ」に影響される
二番煎じでこういうのはどうでしょう?
だらだらだらだら毎年やってる紅白歌合戦で、見る方よりやる方が飽き飽きしてるエネーチケーである。そんな空気の中、老人性エロ妄想組が勢力を拡大しつつあった。刺激的な企画でマンネリ打開と、今年は全裸風きぐるみを女性ダンサーらに着せて変態すれすれのダンス見せ、年越しでビリノンかましてるお茶の間のドギモを抜きつつ、「いやぁでも今のホントの裸じゃなかったんですよ、みなさんドキッとしましたか?」とかアナがオチをつける企画が確定。ところがこれを「J音楽テロ集団」が察知。当日エネーチケーホールに侵入したテロ集団はリハ終了後、女性ダンサーらを拉致し、自らが女装しコスチュームをまとって何事も無かったかのように本番ステージへ。そして予定通りのダンスを披露しはじめる。んが、最期の盛り上げに入ると、ついに全裸風コスチュームも脱ぎ去り完全スッパ。全員カメラ前で仁王立ちでキめる。その真ん中に北島三郎が呆然と立っている。「DJオズマのみなさんでしたぁー!」とのアナの声を最期に画面真っ白。
と。
だらだらだらだら毎年やってる紅白歌合戦で、見る方よりやる方が飽き飽きしてるエネーチケーである。そんな空気の中、老人性エロ妄想組が勢力を拡大しつつあった。刺激的な企画でマンネリ打開と、今年は全裸風きぐるみを女性ダンサーらに着せて変態すれすれのダンス見せ、年越しでビリノンかましてるお茶の間のドギモを抜きつつ、「いやぁでも今のホントの裸じゃなかったんですよ、みなさんドキッとしましたか?」とかアナがオチをつける企画が確定。ところがこれを「J音楽テロ集団」が察知。当日エネーチケーホールに侵入したテロ集団はリハ終了後、女性ダンサーらを拉致し、自らが女装しコスチュームをまとって何事も無かったかのように本番ステージへ。そして予定通りのダンスを披露しはじめる。んが、最期の盛り上げに入ると、ついに全裸風コスチュームも脱ぎ去り完全スッパ。全員カメラ前で仁王立ちでキめる。その真ん中に北島三郎が呆然と立っている。「DJオズマのみなさんでしたぁー!」とのアナの声を最期に画面真っ白。
と。
posted by コマプ墨田 at 17:28| 日記
スウェーデン映画「サウンド オブ ノイズ」(だそうです
TBSラジオで小耳にはさんだのでチェック。なるほど、これはやられた。ノイズというにはちょっとロック系ですが(笑
音楽テロリスト対音痴刑事『サウンド・オブ・ノイズ』
しかし、これがメジャーでバンとこれる国と、日本の違いが身にしみま砂ぁ。
音楽テロリスト対音痴刑事『サウンド・オブ・ノイズ』
しかし、これがメジャーでバンとこれる国と、日本の違いが身にしみま砂ぁ。
posted by コマプ墨田 at 16:17| 日記
2012年05月03日
「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳) の「清浄品」
「秘密集会タントラ」が、「古層般若経」由来の「空論理レトリック」を用いる際の、主軸キーワードが「清浄」という語である。これは、古層大乗の空論理が依拠する「世界モデル(マトリクス)」の性質により必然認知される「ゼロ域」の相を示す語(ゼロ域を相として示す語)である。
「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳)にも「清淨品」という章があり、まず最初に古層大乗「空論理」からの大前提が確認的に記述されている。
五蘊などが形成する実在世界の自性は悟りの自性と一致するところの「清浄」であるよと、その本質は「ゼロ状態」で通常我々が実体認識しているところの五蘊側領域(ダルマ)は対応してますよ、といった図式。ところが、この直後に、五蘊等の具体個別内容に対して金剛明妃以下の諸明妃群が充てられ、これを五蘊等諸要素の「清浄(性)」表出(?)としてさらに上乗せで規定言及されるのである。こうしたあたりの字面を一見すると、論旨は古層大乗「空論理」を過剰解釈しつつ、諸明妃とそれが担うとされる現世実相の構造を断定するところの強引な(後期密教的)展開を開始したかに映るかもしれない。しかし、さらにこの直後、この品の最終の数行が楔と言うべきである。
要するにこういう論旨ではないのかと?
↓
「ここまで示したものは蘊等に清浄(性)が生まれる(内在する)仕組みである。この法(ダルマ)域を捨て去って、真実(=清浄=ゼロ域)を成就できなければ五蘊に執着したままとなるが、世間の礙闇と(それを退けた位置にある)真実とを了解すれば五蘊を脱せる。そうであれば(そうである場合は)非色以下の心清浄であるから、つまり一切は清浄なのである。
さらに言い替えれば、
↓
「という風に分りやすく諸妙妃に五蘊を象徴させて述べてみたところであるが、つまりこういう眼に見えて具現であろうもののダルマを捨て去ったところのものこそが真実であり清浄という状態なのである。要はダルマを完全に捨て去ってこそ真実成就があり、それができなければ五蘊を越えられないという図式が歴然とあるのである。」
いわゆるトートロジーというか、単にそのままのことを言ってる。これも古層「般若経」由来の論法と言うべきか?
ただ以上はあくまでも漢訳を読んでの判断で、サンスクリットテキストがどうなってるかを知りたいところです。解説資料などの情報からすると漢訳はかなり変形されてる模様です。
「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳)にも「清淨品」という章があり、まず最初に古層大乗「空論理」からの大前提が確認的に記述されている。
是の清淨を説くに由つて、一切は疑惑なし、一一の賢聖位を、後當に分別して説くべし。五蘊・五大種、六根及び六處、無知煩悩の闇も、自性は悉く清淨なり、謂ゆる自身領納及び餘他の所作、妙樂・相應すと説く、境界等は清淨なり。故に佛善巧(を以って)一切清淨と説き給ふ。
五蘊などが形成する実在世界の自性は悟りの自性と一致するところの「清浄」であるよと、その本質は「ゼロ状態」で通常我々が実体認識しているところの五蘊側領域(ダルマ)は対応してますよ、といった図式。ところが、この直後に、五蘊等の具体個別内容に対して金剛明妃以下の諸明妃群が充てられ、これを五蘊等諸要素の「清浄(性)」表出(?)としてさらに上乗せで規定言及されるのである。こうしたあたりの字面を一見すると、論旨は古層大乗「空論理」を過剰解釈しつつ、諸明妃とそれが担うとされる現世実相の構造を断定するところの強引な(後期密教的)展開を開始したかに映るかもしれない。しかし、さらにこの直後、この品の最終の数行が楔と言うべきである。
是の如きは蘊等の清淨出生の次第なり。彼れこの法を棄捨し眞實を成就し能うなくば、則ち蘊等の纒縛(てんばく)する所となす。若し世間の礙闇・眞實を了知せば、即ち是の縛より解脱を得、是の故に非色・非聲・非香・非味・非觸・非法・亦非世間・心清淨の故に即ち一切清淨なり。
要するにこういう論旨ではないのかと?
↓
「ここまで示したものは蘊等に清浄(性)が生まれる(内在する)仕組みである。この法(ダルマ)域を捨て去って、真実(=清浄=ゼロ域)を成就できなければ五蘊に執着したままとなるが、世間の礙闇と(それを退けた位置にある)真実とを了解すれば五蘊を脱せる。そうであれば(そうである場合は)非色以下の心清浄であるから、つまり一切は清浄なのである。
さらに言い替えれば、
↓
「という風に分りやすく諸妙妃に五蘊を象徴させて述べてみたところであるが、つまりこういう眼に見えて具現であろうもののダルマを捨て去ったところのものこそが真実であり清浄という状態なのである。要はダルマを完全に捨て去ってこそ真実成就があり、それができなければ五蘊を越えられないという図式が歴然とあるのである。」
いわゆるトートロジーというか、単にそのままのことを言ってる。これも古層「般若経」由来の論法と言うべきか?
ただ以上はあくまでも漢訳を読んでの判断で、サンスクリットテキストがどうなってるかを知りたいところです。解説資料などの情報からすると漢訳はかなり変形されてる模様です。
posted by コマプ墨田 at 17:31| 仏教関係調査
2012年05月01日
節電節電と言ってますが
とにかくまずTVの無意味な放送時間をカットするのが先決。放送時間半分で十分である。見る方もやる方も節電でダブルゲインである。
posted by コマプ墨田 at 17:10| 日記
2012年04月30日
警察犯罪の極悪度基準への疑問
今TBSニュースで、警官が900円ちょいのかゆみ止めを万引きしたとかやってたが、警官がこういうことでどうすんだというのはあるにはあろうが、こういうネタでマスコミが一個人をボコにするのは簡単だ。まぁ軽犯罪とはいえ警官という社会的責務がのっかるのはあるだろう。んが、はたして全国ニュースで晒す必要まであるのかどうか。まぁここは多少疑問は残るかもしれない。判断に個人差が出るだろ。だが、一方で警察は組織ぐるみでパソコン修正の証拠写真作成して無実の一般人を獄中に、など大っぴらにやってるのに、これはなんら無問題で国もマスコミ(一部を除く)も大方パスしてるわけで、なんなんでしょうね? 要は千円ほどの万引きとこの大犯罪を天秤にかけたら万引きの方が重かった。アホでっか(・・; ???
↓


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いわゆる「高知白バイ事件」。白バイが停車中のスクールバスに猛スピードで突っ込んできたと、運転手どころか同乗の生徒先生一同まで証言してるのに、警察はこういう偽造写真を裁判に出して「この事故直後の写真にお前が写ってる」等等、ありとあらゆる偽装偽証を駆使して、ついに運転手を1年数ヶ月の懲役にしてしまうに成功と言う事件。運転手は刑期満了して現在再審請求中。まぁこれでいいなら日本政府終了。
↓


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いわゆる「高知白バイ事件」。白バイが停車中のスクールバスに猛スピードで突っ込んできたと、運転手どころか同乗の生徒先生一同まで証言してるのに、警察はこういう偽造写真を裁判に出して「この事故直後の写真にお前が写ってる」等等、ありとあらゆる偽装偽証を駆使して、ついに運転手を1年数ヶ月の懲役にしてしまうに成功と言う事件。運転手は刑期満了して現在再審請求中。まぁこれでいいなら日本政府終了。
posted by コマプ墨田 at 16:32| 日記
2012年04月28日
「反密教学」Y 密教から反密教へ 津田真一著 を再確認中
津田先生の論考の場合、<女性単数のdharma> <中性単数のdharma> <男性複数のdharma> というようなサンスクリット語自体の概念に密着した難解な専門用語などが重要キーワードになっており、詳細根幹域の把握はサンスクリット語のサの字も分らない素人には本来無理と知るべきところなのでしょうが、何とか想像力で補いまして、全体論旨を捉えたとしまして、当追跡調査との関係を再確認しているところです。
この著書は、当追跡調査の端緒にて、大乗仏教理解の基本著書として入手し長く所持してきたものです。当時はどちらかというと「華厳経」をピークと読む通常の大乗思想へ視線に重きがあったのですが、当追跡調査班がここ数年で新たに得た(予期せぬ)展開である「初期大乗空論理」と「後期密教」のダイレクト状況把握により、視線を拡大しての確認作業に至った次第です。
津田先生の描くところ、初期大乗から後期密教最終過程の大枠図式は、
@ [初期大乗 空論理]→ [華厳経]→ [大日経] 、この展開を「行の観念」を有する潮流とまず捉える。
A 続く[金剛頂経]にて@潮流から断ずるところ、行を有さない象徴操作での真理との合一という論理が発生。
B さらにこれを極と示しつつ、続く「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」と「行の観念」(独自新規形態)へ再生回帰していく。
というものであり、例え「金剛頂経」論理が「行の観念」の潮流で特異域として現われても、一定の大乗思想の展開と言う大枠を踏まえるべく必然から、ここに「critical」という独自の説明キーワードを用い、「行の観念」(軸)からの推移状況を踏まえた一環説明図式を生み出しているわけです。
こうした津田先生が提示されます大乗大枠を再確認しつつ、当追跡調査側の「具体的な世界モデル(マトリクス/幾何学構造図)対応の思想追及史」たる大乗空論理を読む視座を重ねてみますと、津田先生の推移図式の本体は、大乗諸思想家らが古層「空論理」とさらにそのもう一層深部と言うべき「世界モデル図像(マトリクス)」から何をどう読んだかという実態調査により、まったく合理的な展開脈絡が示しうると判断する次第です。
当追跡調査班としては、既に、古層後期密教マンダラ構造解析図群と、これらに並行しての「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」への若干のテキスト考察、をUPしておりますが、これらが総合的に説明するところを、津田先生の図式に寄せるならば、まさに「後期密教」が実に合理的に「初期般若経の空論理」を基層主軸に用い(利用し)つつ、「マトリクス」の新規解釈拡大を成し、巧みなメタファー&レトリックを用いつつ大炸裂していく状況、とこういう図式が生まれ、その合理連続推移の経過に(なぜか)異質な「金剛頂経」が位置すると、こうなるわけです。
では、この「金剛頂経」の異質性と、にもかかわらず大乗を貫く大潮流の要所にこれが(criticalに)位置する合理とは? との着眼が当然来るわけですが、これもまたまさに彼ら大乗思想家らが絶対依拠する「世界モデル(マトリクス)」への視座(分析)切り口の違いの問題なわけです。実は「マトリクス」へ向けての「金剛頂経」の着眼は単純です。単純だけどもそこまでの大乗の一貫した「マトリクス対応史」に対するぶったぎり炸裂論理として突如出現と言う事態なわけです。そしてそれは「マトリクス」への解釈として論理上避けがたい必然だったわけです。
PS:
継続して「金剛頂経」のマトリクスへの着眼について書くつもりでしたが、漢訳の「ヘーヴァジュラタントラ」確認作業方向に流れてしまい、加えて昨今個人的に「後期密教」側への着眼が拡張した結果「金剛頂経」の史的連動状況をもうちょっと広域に考察する必要ありとの意も発生し、こちらは後に津田先生翻訳の「金剛頂経 和訳」など読み返しましてから仕切りなおす所存です。とりあえず、超概略である以前書いた関連分(語尾と若干の修正済)をリンクしときます。
↓
金剛頂経の成道
この著書は、当追跡調査の端緒にて、大乗仏教理解の基本著書として入手し長く所持してきたものです。当時はどちらかというと「華厳経」をピークと読む通常の大乗思想へ視線に重きがあったのですが、当追跡調査班がここ数年で新たに得た(予期せぬ)展開である「初期大乗空論理」と「後期密教」のダイレクト状況把握により、視線を拡大しての確認作業に至った次第です。
津田先生の描くところ、初期大乗から後期密教最終過程の大枠図式は、
@ [初期大乗 空論理]→ [華厳経]→ [大日経] 、この展開を「行の観念」を有する潮流とまず捉える。
A 続く[金剛頂経]にて@潮流から断ずるところ、行を有さない象徴操作での真理との合一という論理が発生。
B さらにこれを極と示しつつ、続く「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」と「行の観念」(独自新規形態)へ再生回帰していく。
というものであり、例え「金剛頂経」論理が「行の観念」の潮流で特異域として現われても、一定の大乗思想の展開と言う大枠を踏まえるべく必然から、ここに「critical」という独自の説明キーワードを用い、「行の観念」(軸)からの推移状況を踏まえた一環説明図式を生み出しているわけです。
こうした津田先生が提示されます大乗大枠を再確認しつつ、当追跡調査側の「具体的な世界モデル(マトリクス/幾何学構造図)対応の思想追及史」たる大乗空論理を読む視座を重ねてみますと、津田先生の推移図式の本体は、大乗諸思想家らが古層「空論理」とさらにそのもう一層深部と言うべき「世界モデル図像(マトリクス)」から何をどう読んだかという実態調査により、まったく合理的な展開脈絡が示しうると判断する次第です。
当追跡調査班としては、既に、古層後期密教マンダラ構造解析図群と、これらに並行しての「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」への若干のテキスト考察、をUPしておりますが、これらが総合的に説明するところを、津田先生の図式に寄せるならば、まさに「後期密教」が実に合理的に「初期般若経の空論理」を基層主軸に用い(利用し)つつ、「マトリクス」の新規解釈拡大を成し、巧みなメタファー&レトリックを用いつつ大炸裂していく状況、とこういう図式が生まれ、その合理連続推移の経過に(なぜか)異質な「金剛頂経」が位置すると、こうなるわけです。
では、この「金剛頂経」の異質性と、にもかかわらず大乗を貫く大潮流の要所にこれが(criticalに)位置する合理とは? との着眼が当然来るわけですが、これもまたまさに彼ら大乗思想家らが絶対依拠する「世界モデル(マトリクス)」への視座(分析)切り口の違いの問題なわけです。実は「マトリクス」へ向けての「金剛頂経」の着眼は単純です。単純だけどもそこまでの大乗の一貫した「マトリクス対応史」に対するぶったぎり炸裂論理として突如出現と言う事態なわけです。そしてそれは「マトリクス」への解釈として論理上避けがたい必然だったわけです。
PS:
継続して「金剛頂経」のマトリクスへの着眼について書くつもりでしたが、漢訳の「ヘーヴァジュラタントラ」確認作業方向に流れてしまい、加えて昨今個人的に「後期密教」側への着眼が拡張した結果「金剛頂経」の史的連動状況をもうちょっと広域に考察する必要ありとの意も発生し、こちらは後に津田先生翻訳の「金剛頂経 和訳」など読み返しましてから仕切りなおす所存です。とりあえず、超概略である以前書いた関連分(語尾と若干の修正済)をリンクしときます。
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金剛頂経の成道
posted by コマプ墨田 at 23:58| 仏教関係調査
2012年04月25日
ボロブドゥール中心ストゥーパ内の像の意味
昔読んでどこに行ったか不明のボロブドゥール関連資料に、ボロブドゥール調査で中心の大ストゥーパを開けた人がいて、そこには当然すごい宝物があるはずだと思ったら仏像のできそこないが一体あったのみで、がっかり、とかいうのがあったと記憶してる。また別資料では大ストーパ内には何も入っていなかったというのも読んだような記憶がある。この場合何もないでも不完全仏像一体でも論理上はどちらでもかまわないが、宝物があると考えた人は大乗仏教を何も知らないのに調査に着手してたのであろう。
ボロブドゥールの上部のブッダ像が一周廻らされた圏内は、そこからブッダが涅槃に向かう過程を表現している。中心大ストゥーパに向けての同心構造籠状ストゥーパ内に仏像が安置されているのは、ついに人間たるブッダが、ストゥーパ群に象徴される空的総体中核域に入り、涅槃への完全到達に向かうイメージの視覚化、すなわち人間から涅槃へのオーバーラップ過程を表現しているのである。中心ストゥーパはその到達地点であるから、内部のブッタ像は、在るとすればより人間的姿を滅して表わされるはずだし、あるいは最終的に空(ゼロ)に一致という着眼であれば、そこにはなにもないことが妥当である。
大ストゥーパ内の未完成風の仏像はいたずらにそこにおかれたものと判断され、遺跡の低層位置に出されたという記事もあった記憶がある。真偽はどれなのだろう。もし、在った像を勝手に排除してしまったのならば、今からでも遅くないので戻してもらいたいものである。
ボロブドゥールの上部のブッダ像が一周廻らされた圏内は、そこからブッダが涅槃に向かう過程を表現している。中心大ストゥーパに向けての同心構造籠状ストゥーパ内に仏像が安置されているのは、ついに人間たるブッダが、ストゥーパ群に象徴される空的総体中核域に入り、涅槃への完全到達に向かうイメージの視覚化、すなわち人間から涅槃へのオーバーラップ過程を表現しているのである。中心ストゥーパはその到達地点であるから、内部のブッタ像は、在るとすればより人間的姿を滅して表わされるはずだし、あるいは最終的に空(ゼロ)に一致という着眼であれば、そこにはなにもないことが妥当である。
大ストゥーパ内の未完成風の仏像はいたずらにそこにおかれたものと判断され、遺跡の低層位置に出されたという記事もあった記憶がある。真偽はどれなのだろう。もし、在った像を勝手に排除してしまったのならば、今からでも遅くないので戻してもらいたいものである。
posted by コマプ墨田 at 18:21| 仏教関係調査
「ギンギラギンにさりげなく」を2回も聴かされる。
TBSラジオでアナが強引な歌詞解釈を行う企画で「ギンギラギンにさりげなく」をとりあげ、まず一回かけてアナ解釈後にもう一回というので、え?マジ?もう一回でっか(泣 と思ったのだが、二回目聴いて意外と好印象だったので、何が理由だ?としばし考えた結果、アナ見解と全く違う答を得たわけです。
↓
この楽曲の何がいいかというと、超軽快なるブラス+コーラス組の合いの手である。特にブラスアンサンブルの超テクのフットワーク。これは涙ものじゃないでしょうか。ブラスアンサンブルでこれ以上どう刻むのでしょう。が、これだけの演奏能力を所持しながらこの技能者集団、とつとつと歌うメインボーカルの隙間背後に必要以上目立たぬようにはまり込まなければならないわけです。聴くとその要所出入りの絶妙さ小気味よさと言ったらないわけですね。かっこいいです。二番のサビに近づくと「くるぞ!ブラスきますぞ。きたきたきたぁ〜!」みたいな心境になりますね。まさにこれこそギンギラギンにさりげなくじゃnine de sky? プロ技能真髄と言わずなんと言うべきでしょう。
以上、何気に聴いたことはあるとはいえ、自主的には深く考えることもなかった曲を、それなりに考察するという予期せぬ経験でした。
↓
この楽曲の何がいいかというと、超軽快なるブラス+コーラス組の合いの手である。特にブラスアンサンブルの超テクのフットワーク。これは涙ものじゃないでしょうか。ブラスアンサンブルでこれ以上どう刻むのでしょう。が、これだけの演奏能力を所持しながらこの技能者集団、とつとつと歌うメインボーカルの隙間背後に必要以上目立たぬようにはまり込まなければならないわけです。聴くとその要所出入りの絶妙さ小気味よさと言ったらないわけですね。かっこいいです。二番のサビに近づくと「くるぞ!ブラスきますぞ。きたきたきたぁ〜!」みたいな心境になりますね。まさにこれこそギンギラギンにさりげなくじゃnine de sky? プロ技能真髄と言わずなんと言うべきでしょう。
以上、何気に聴いたことはあるとはいえ、自主的には深く考えることもなかった曲を、それなりに考察するという予期せぬ経験でした。
posted by コマプ墨田 at 14:41| 日記
2012年04月22日
国訳一切経の「大悲空智金剛大教儀軌経 (ヘーヴァジュラタントラ漢訳)」に眼を通す
近隣図書館より調達に成功し一気に読んだとこですが、予想通り詳細把握には自己力量からして難儀な状況ですね。国訳と言っても実にシンプルな漢文読み下し文ですし、その性質上、現代では使われてない語句や言い回しの真意が今一つかみきれないなど、やはり概要把握ぐらいの状況です。加えて、「インド後期密教」松長有慶[編著] 内の森雅秀先生執筆分「ヘーヴァジュラ・タントラ/ 性と聖の饗宴」にこうありますように、
↓
通読して、さほど強く奇異な個所にぶち当たらないというか、淡々と儀軌を説明していくだけのような風情のまま読み終えたという感じです。おそらくあからさまな個所はかなりソフトにデフォルメされてるのではないでしょうか。
ただ、やはり総体の印象として、先日書きました「般若経」と「秘密集会タントラ」からの考察において予測される「ヘーヴァジュラ ・タントラ」の基幹域については、自己の着眼を変える必要はない直感を得ました。依拠する基盤図式は「秘密集会タントラ」継承の「般若経/原初空論理」以外の何ものでもありません。「秘密集会タントラ」の着眼を根にさらに構成度を高め形式化している印象です。できればサンスクリット原文からのより論旨把握が容易な現代語訳が読みたいところです。無念(笑
漢訳を確認して、その末尾の文言が一番気になってるところです。
↓
最初のあたり、おおよそこういう意味でしょうかね?
↓
だから、物事はっきり踏まえてより大枠の深心に回向しろ、と?。要はここまである分は根幹「空智」だからな、と確認ですかね? ただこれ、注釈によると蔵訳には欠落してるそうなので、もしかしたら漢訳者の法護が挿入したものか? サンスクリット原文にあるのかどうかですね。
こころもとないので、何気に津田真一先生の部分訳も今読み返してみたんですが、驚きましたね。実にサンスクリット原文のここに全てが記されてあったわけです。この部分訳は何度か読んでるのに今気づいた次第です。
↓↓↓
漢訳末尾文言の意義とパラレルである。「秘密集会タントラ」同様、「ヘーヴァジュラ・タントラ」も古層大乗「般若経」の大枠に収まるものと断定して問題ないと考えます。根幹図式は全く同じものなのだから、バリエィションと踏まえてもいいぐらいでしょう。
PS:
上記引用の津田先生訳出個所にある「戯論」という語が気になるなぁとぼけっと考えてましたが、まぁこれ、普通の日本語で言えば「おなじみの空論理などたわごとだ」みたいなことになるわけですが、ちょっと待てよと、そうなると話はもっとおもしろいんじゃないか?というか、なるほどなぁという気がしてきました。この個所の字面だけでいくと「ヘーヴァジュラ・タントラ」は、実に、空論理の根幹を「たわごと」と一語で見做して実在断定で言及を進めてるかの風情なわけです。確かに延々述べられる儀軌内容には、「秘密集会タントラ」に比較すると、容赦ないリアルさと断定パワーがある。では「ヘーヴァジュラ・タントラ」は古層「般若経」空論理を断じて、具現世界を語る意(←補足:現世実体を認め延長上に真理を接続する)なのかというと確実にそうではないわけです。「戯論」と言いながらその語が住する文言本体は違う。漢訳総体を見ても、要所にザクッと古層空論理の楔が入ってるのです。そこがポイントじゃないでしょうか。要はテキスト総体を最終解体(無効化)するなら、上手い具合に的確な所だけピシッピシッと押さえればそれでいいんじゃないの? というイケてる新規着眼が(・・: ?
あ、そうなると、やはり上述の漢訳末尾の文言はやはり法護の見解じゃないかと。それ作者自身が書いちゃったらヤボだ。元テキストの過激さとスピード感からしてそれはなかろう。
PS:2 ↑ところが
戯論の意味を調査したところ、もっと深い層の解釈可能性に気づきました。これから別枠で書く所存です。完了→ こちら
補足
こちら以前に書いた分ですが、このところの「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」関連追跡調査にかんがみ読み返しました。指摘内容の意義は大きいと再確認した次第です。
↓
「七百頌般若経」の重要性
↓
内容的には梵蔵漢はいずれもほぼ同一の内容を持っているが、漢訳はしばしば難解な訳語を用いたり、意図的に内容を省略したりすることがある。このような特徴は『秘密集会タントラ』の漢訳テキストにも認められるが、それよりもさらに「過激」な内容をもつ『ヘーヴァジュラ・タントラ』では、その傾向はより顕著となっている。
通読して、さほど強く奇異な個所にぶち当たらないというか、淡々と儀軌を説明していくだけのような風情のまま読み終えたという感じです。おそらくあからさまな個所はかなりソフトにデフォルメされてるのではないでしょうか。
ただ、やはり総体の印象として、先日書きました「般若経」と「秘密集会タントラ」からの考察において予測される「ヘーヴァジュラ ・タントラ」の基幹域については、自己の着眼を変える必要はない直感を得ました。依拠する基盤図式は「秘密集会タントラ」継承の「般若経/原初空論理」以外の何ものでもありません。「秘密集会タントラ」の着眼を根にさらに構成度を高め形式化している印象です。できればサンスクリット原文からのより論旨把握が容易な現代語訳が読みたいところです。無念(笑
漢訳を確認して、その末尾の文言が一番気になってるところです。
↓
若し空智を知らずば、超勝諸儀軌に、染欲心を希求す、世間の輪轉に順じ、彼彼部出生して、諸色相随現す、是の故に瑜伽者は、供養し悉く明了し、親近の一切の若く、彼は吉祥を成就し、大深心に回向し、自他倶に利樂す。
最初のあたり、おおよそこういう意味でしょうかね?
↓
もし空智を知らないなら、(ここまで説明してきた)超高位の諸儀軌にて染欲心(固執心?)が求められてしまい、そうなると世間の輪転どおりあれこれ具現し、諸々事象がどんと発生するのである。
だから、物事はっきり踏まえてより大枠の深心に回向しろ、と?。要はここまである分は根幹「空智」だからな、と確認ですかね? ただこれ、注釈によると蔵訳には欠落してるそうなので、もしかしたら漢訳者の法護が挿入したものか? サンスクリット原文にあるのかどうかですね。
こころもとないので、何気に津田真一先生の部分訳も今読み返してみたんですが、驚きましたね。実にサンスクリット原文のここに全てが記されてあったわけです。この部分訳は何度か読んでるのに今気づいた次第です。
↓↓↓
(真実それ自体に関しては、それを何らかの有相なるものとして)能く観想するものもなく、また観想さるべき(特定の相)もない。(それと同置されるべき)真言もなく、(その顕現としての)天尊もない。(しかしながら、この様な)戯論を離れた(その真実)それ自体(の自ずからなる現われとして)真言と天尊とは(現実に)存在しているのである。
(「反密教学」津田真一著 密教から反密教へ 227P )
漢訳末尾文言の意義とパラレルである。「秘密集会タントラ」同様、「ヘーヴァジュラ・タントラ」も古層大乗「般若経」の大枠に収まるものと断定して問題ないと考えます。根幹図式は全く同じものなのだから、バリエィションと踏まえてもいいぐらいでしょう。
PS:
上記引用の津田先生訳出個所にある「戯論」という語が気になるなぁとぼけっと考えてましたが、まぁこれ、普通の日本語で言えば「おなじみの空論理などたわごとだ」みたいなことになるわけですが、ちょっと待てよと、そうなると話はもっとおもしろいんじゃないか?というか、なるほどなぁという気がしてきました。この個所の字面だけでいくと「ヘーヴァジュラ・タントラ」は、実に、空論理の根幹を「たわごと」と一語で見做して実在断定で言及を進めてるかの風情なわけです。確かに延々述べられる儀軌内容には、「秘密集会タントラ」に比較すると、容赦ないリアルさと断定パワーがある。では「ヘーヴァジュラ・タントラ」は古層「般若経」空論理を断じて、具現世界を語る意(←補足:現世実体を認め延長上に真理を接続する)なのかというと確実にそうではないわけです。「戯論」と言いながらその語が住する文言本体は違う。漢訳総体を見ても、要所にザクッと古層空論理の楔が入ってるのです。そこがポイントじゃないでしょうか。要はテキスト総体を最終解体(無効化)するなら、上手い具合に的確な所だけピシッピシッと押さえればそれでいいんじゃないの? というイケてる新規着眼が(・・: ?
あ、そうなると、やはり上述の漢訳末尾の文言はやはり法護の見解じゃないかと。それ作者自身が書いちゃったらヤボだ。元テキストの過激さとスピード感からしてそれはなかろう。
PS:2 ↑ところが
戯論の意味を調査したところ、もっと深い層の解釈可能性に気づきました。これから別枠で書く所存です。完了→ こちら
補足
こちら以前に書いた分ですが、このところの「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」関連追跡調査にかんがみ読み返しました。指摘内容の意義は大きいと再確認した次第です。
↓
「七百頌般若経」の重要性
posted by コマプ墨田 at 03:47| 仏教関係調査
2012年04月17日
春秋社「インド後期密教」内の「ヘーヴァジュラ・タントラ」の項目を再読
「インド後期密教」[下]般若・母タントラ系の密教 松長有慶[編著] 春秋社
↑
発掘しまして要所再確認中なのですが、昨日、森雅秀先生執筆分の「ヘーヴァジュラ・タントラ/ 性と聖の饗宴」を全文再読しました。「ヘーヴァジュラ・タントラ」概要解説として非常に丁寧な記述をされていて、本文テキストにあたれない我々一般人にとってありがたい内容です。自分購入時に一度読んでるにもかかわらず、重大な情報をパスしておりました。
↓↓↓
と、実に漢訳があると。即座に「国訳一切経」にあるかどうか確認しましたら、ありますね。迂闊でした。
↓
大東出版 国訳一切経 印度撰述部
即行で「国訳一切経」完全所蔵の近隣図書館のネット予約を完了です。まぁ実物が来て確認してみないとなんともいえませんが、サンスクリット原文にあたれない我々一般人が、「ヘーヴァジュラ・タントラ」の具体文脈に接近しうる唯一の可能性があった事実、発覚しました。
森雅秀先生の解説も一般人の興味に答えた丁寧な内容ですが、あらためて読んで、いくつか着眼を得た次第です。
------------------------------------------------------------------------------------
以下は、以前に松長有慶先生著「秘密集会タントラ和訳」を読み検証した際に書くつもりになって書いてなかったことなのですが、「ヘーヴァジュラ・タントラ」も当然受け継いでいるはずの要点です。あらためて以前の検証の継続として短くまとめておきます。
↓
(1)
「秘密集会タントラ」本文最終分である第十七分にて、世尊一切如来の主である大持金剛(金剛手)」は、一切如来とともに、実に「一切如来身語心金剛妃の女陰」に居て(その内部に居て)、四明妃からの愛欲供養の求めに応じて、具現的な性交の供養を成し終え、「ときにかの一切虚空界は、一切如来の身語心金剛の三昧耶の精液をもって満たされ、あたかも金剛水によって満たされた瓶のように静止していた」状態を生み出す。結果、そこにある一切衆生は「一切如来の身語心金剛によって灌頂された者となった」。そしてこの記述の直後のやり取りにある教主(金剛手)の最終言及こそが「秘密集会タントラ」論旨の根幹である。
実に論旨は明瞭である。「一切如来の主である金剛手」は一旦現世の実在性に応じて、四明妃との性交供養を介する「仏法の平等性」の(視覚的)リアライズを成したかに示しながら、その全てを否定しているが、その論理の本体は「般若経」における大乗古層「空論理」そのものである。この図式は、「華厳経入法界品」において、善哉童子が善知識習得の最期に普賢により悟りの中核地点である仏パンテオンの荘厳を目前に示されながら、その位置を辞して現世の場に立ち帰ることとも同じ趣旨である。それらの荘厳は本来イデア的に観念上に現われるだけのもので(少なくとも現世衆生の内には)、実在しないものとするのが大乗であり「空論理」の根幹である。一見奇異に映る「秘密集会タントラ」の論旨も、一切こうした大乗の主軸から逸脱していないばかりか、むしろ「空論理」根幹域に食い込む洞察の果てに、さらなる論理拡大を成したものと言うべきなのである。
当追跡調査班としては、「秘密集会タントラ」のこうした「空論理の拡張」の可能性発見の上に、母タントラ的側面をさらに拡張していく潮流が生まれ、その主軸として「ヘーヴァジュラ・タントラ」論旨を検証してみることが早急に重要とみる次第である。
この観点が、恐らく基本誤っていないであろう根拠の主体は、後期密教全てを貫く「金剛女陰」というメタファーにある。すなわちそれは、大乗古層においては「ガルバ」というメタファーで示されるところの「空論理」の(隠された)基盤であり、大乗が絶対的に依拠する[世界モデル]たるマトリクス構造自体を指し示すものだからである。
(2)
上述引用個所に続く第十七分の再末尾域で、次のように述べる内容も大乗古層着眼からの進展として一貫している。
一旦表出させた[一切仏法の平等性]の像(=観念上にのみ現われるものの視覚化)を、論理(=語)において即座に否定した教主金剛手は、そのプロセス総体にて表わされた(のみ表わされ得た)上位論理の(論理上の)中核であるところの「一切如来の身語心金剛の秘密」を「世間界」にて厳修せよと一切如来に対し命じる。すなわち、この「厳修」と訳された語は、一切如来とは「身語心金剛」に到達し成就安住するものではなく、衆生のある「世間界」に向かい「身語心金剛(の秘密)」の現世的拡張を展開し続ける存在だと断言するものである。そして一方、「世間界」を生きる代表者たる(ダルマの現実性総体を担う)金剛法菩薩に対しては、その一切如来の活動の現世側の観測として現われる(はずの)「一切如来の真実」を掌握せよと命じる。テキストはここで「悟りの本質とダルマ」の”意味/関係(構図)”を明確化しているのであるが、まさにこの着眼も「華厳経入法界品」に明確な古層大乗論旨の継承だと言うべきである。
(3)
「八千頌般若経」における「空論理」最根幹域に肉薄するところの記述は第八章に炸裂する。既にここで、以後の大乗を貫く主軸論理は言い尽くされているのである。
この「清浄」と題された章においては、『物質的存在は空である』などの「真理的な言及」を"追究しない"ことが「知恵の完成(般若波羅蜜)」への追求であるという(通論旨上は)矛盾的な言及が究極に表わされる。論理上そのように展開せざるを得ないのが「空論理」の本質なのであり、「般若経」は躊躇無くその域に突き刺さっていく。「秘密集会タントラ」の発想の主軸はこの「般若経」空論理の中枢に取り付き、独自拡張を図ったというべきである。
ようするに、「空論理」の根幹域にては、教主がある段階まで「真を示す(かの)命題」として言及したはずの内容を、にもかかわらず、それに執着するなと命ずるのである。「秘密集会タントラ」にて教主金剛手が延々述べるところの悪趣命題も、まさにこの同じ構図に対応してあることを理解する必要がある。それが確実なことを示す語として「秘密集会タントラ」は、再三に「清浄」という語を記しているのである。「清浄」とは、悟りの実相は無本性であること(それに対応する物質的な世界総体もまた実相無本性であるということ)、すなわち「空」であることを言っているわけである。この場合「空」の意味は積極的に「ゼロ」側の意をとるべきである。「これら悪趣命題も、古層大乗が述べる常軌命題も、[空/ゼロ位置]の清浄性に対しては同じ対等な執着要因でしかない」というのが「秘密集会タントラ」作者の着眼原点であろう。古層「般若経」のメソッドどおりに高位論理が低位命題を無効化してテキストは完結するのである。「秘密集会タントラ」における悟りの本質を示す中核「身語心金剛」は、この「ゼロ域」側にあるもの、あるいはそれ自体というべきものだから「秘密」なのである。ゆえに論理上「得ることが出来ないもの」と規定される。この場合の「金剛」とは当然「金剛頂」であり、すなわち「ゼロ位置」のことである。確かに「秘密集会タントラ」の発想には、単に知性というだけではなく、"クールな悪意"とユーモアが含まれている。まさにアヴァンギャルドである。
補足で大乗全体について記すと、悟りの本質は全実在に対応する「ゼロ位置=清浄」としてあるというのが「空論理」であり、それは彼らが所持していた”現実的な幾何学の完結性をコンパクトに収めるところの「ゼロ概念を必然化する世界モデル」”の徹底解読から帰結したのである。その「世界モデル」とは、現実的に以下の図版に示す無限連鎖図形であり、大乗において「蓮華」「ガルバ」「金剛女陰」などのメタファーで呼ばれるものである。同時にそれは、彼らが仏の姿をリアライズするためのゲージであり、すなわち仏を図像化するマトリクスなのである。ゆえに仏を生む「仏母」とされるのである。

構造の解説
(この「世界モデル」に則っとる場合)、悟りとは(「ゼロ位置」を実在界側から観側して)想定的に述べるものとなる。本来は実在界側にあって悟りの実相は言及不能である。その総体を見通す位置は唯一「ゼロ位置」であるはずだが、論理的にはそこには何も無い。こうした図式に肉薄していく手法として「般若経」は対話形式による積層的な動的レトリックを用いるのである。そして、それによって浮かび上がる理を「現実的な人類史にこそあてはめようではないか、人類にとってそれは可能のはずだ」とする途方もない発想が大乗思想の根幹であろう。
上述見解の根拠解析図版群
↑
発掘しまして要所再確認中なのですが、昨日、森雅秀先生執筆分の「ヘーヴァジュラ・タントラ/ 性と聖の饗宴」を全文再読しました。「ヘーヴァジュラ・タントラ」概要解説として非常に丁寧な記述をされていて、本文テキストにあたれない我々一般人にとってありがたい内容です。自分購入時に一度読んでるにもかかわらず、重大な情報をパスしておりました。
↓↓↓
『ヘーヴァジュラ・タントラ』には後期密教のタントラ経典としてはめずらしく、漢訳が残されている。宋代の法護による漢訳で、年代は10世紀後半である。漢訳の経題は「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」で、サンスクリット、チベットのいずれのテキスト標題とも一致しない。割注の形で「大幻化普通儀軌三十一分中略出ニ無我法」という経題も加えられているが、これもチベット訳の奥付にあった名称とは微妙にことなる。
と、実に漢訳があると。即座に「国訳一切経」にあるかどうか確認しましたら、ありますね。迂闊でした。
↓
大東出版 国訳一切経 印度撰述部
密教部 第2巻
仏説毘奈耶経/阿闍梨大曼荼羅灌頂儀軌/念誦結護法普通諸部/金剛頂瑜伽護摩儀軌/金剛頂経瑜伽修習毘盧遮那三摩地法/大毘盧遮那成仏神変加持経略示七支念誦随行法/都部陀羅尼目/グフ耶経/金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経/蘇婆呼童子請問経/諸仏境界摂真実経/建立曼荼羅護摩儀軌/大悲空智金剛大教王儀軌経
即行で「国訳一切経」完全所蔵の近隣図書館のネット予約を完了です。まぁ実物が来て確認してみないとなんともいえませんが、サンスクリット原文にあたれない我々一般人が、「ヘーヴァジュラ・タントラ」の具体文脈に接近しうる唯一の可能性があった事実、発覚しました。
森雅秀先生の解説も一般人の興味に答えた丁寧な内容ですが、あらためて読んで、いくつか着眼を得た次第です。
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以下は、以前に松長有慶先生著「秘密集会タントラ和訳」を読み検証した際に書くつもりになって書いてなかったことなのですが、「ヘーヴァジュラ・タントラ」も当然受け継いでいるはずの要点です。あらためて以前の検証の継続として短くまとめておきます。
↓
(1)
「秘密集会タントラ」本文最終分である第十七分にて、世尊一切如来の主である大持金剛(金剛手)」は、一切如来とともに、実に「一切如来身語心金剛妃の女陰」に居て(その内部に居て)、四明妃からの愛欲供養の求めに応じて、具現的な性交の供養を成し終え、「ときにかの一切虚空界は、一切如来の身語心金剛の三昧耶の精液をもって満たされ、あたかも金剛水によって満たされた瓶のように静止していた」状態を生み出す。結果、そこにある一切衆生は「一切如来の身語心金剛によって灌頂された者となった」。そしてこの記述の直後のやり取りにある教主(金剛手)の最終言及こそが「秘密集会タントラ」論旨の根幹である。
[身語心金剛の秘密についての問答]
ついで[一切如来の主である]金剛手如来は、かの一切如来に向かって、つぎのように仰せられた。
「世尊一切如来よ。一切仏法の平等性を見たことがあるか」と。
そこでかの一切如来は、一切如来の主である金剛手に、つぎのように申し上げた。「世尊よ。[一切如来の]智の平等性と、金剛の智の行とを見ました。善逝よ。見ました」と。
そこで世尊一切如来は、一切如来の妃の女陰より出定して、世尊一切如来の主である大金剛手如来に向かって、つぎのように申し上げた。
「世尊よ。なにをおいても貪欲の文字の句によって、仏菩提を得ることができるということは、不思議なことです。善逝よ。不思議なことです」と。
ついで一切如来の主である金剛手如来は、かの一切如来に向かって、つぎのように仰せられた。
「世尊一切如来よ。そのようにいってはならない。なぜかといえば、一切の存在するものは虚空金剛の三昧耶と等しいから、色蘊ではなく、受蘊ではなく、相蘊ではなく、行蘊ではなく、識蘊ではなく、界ではなく、処ではなく、貪ではなく、瞋ではなく、痴ではなく、法ではなく、非法でもない」と。
そこでかれら一切如来は沈黙してしまった。
実に論旨は明瞭である。「一切如来の主である金剛手」は一旦現世の実在性に応じて、四明妃との性交供養を介する「仏法の平等性」の(視覚的)リアライズを成したかに示しながら、その全てを否定しているが、その論理の本体は「般若経」における大乗古層「空論理」そのものである。この図式は、「華厳経入法界品」において、善哉童子が善知識習得の最期に普賢により悟りの中核地点である仏パンテオンの荘厳を目前に示されながら、その位置を辞して現世の場に立ち帰ることとも同じ趣旨である。それらの荘厳は本来イデア的に観念上に現われるだけのもので(少なくとも現世衆生の内には)、実在しないものとするのが大乗であり「空論理」の根幹である。一見奇異に映る「秘密集会タントラ」の論旨も、一切こうした大乗の主軸から逸脱していないばかりか、むしろ「空論理」根幹域に食い込む洞察の果てに、さらなる論理拡大を成したものと言うべきなのである。
当追跡調査班としては、「秘密集会タントラ」のこうした「空論理の拡張」の可能性発見の上に、母タントラ的側面をさらに拡張していく潮流が生まれ、その主軸として「ヘーヴァジュラ・タントラ」論旨を検証してみることが早急に重要とみる次第である。
この観点が、恐らく基本誤っていないであろう根拠の主体は、後期密教全てを貫く「金剛女陰」というメタファーにある。すなわちそれは、大乗古層においては「ガルバ」というメタファーで示されるところの「空論理」の(隠された)基盤であり、大乗が絶対的に依拠する[世界モデル]たるマトリクス構造自体を指し示すものだからである。
(2)
上述引用個所に続く第十七分の再末尾域で、次のように述べる内容も大乗古層着眼からの進展として一貫している。
ついで世尊[一切如来の主である]金剛手は、かの一切如来と菩薩たちに、つぎのように語りかけられた。
「世尊一切如来よ。一切の世間界おいて、この一切の身語心金剛の秘密を厳修すべし。なぜかといえば、十方[世間界]に住するかれら菩薩と摩訶薩たちは、この法門の福を具えているからである」と。
ついで一切如来の主である金剛手は、金剛法[菩薩]に向かって、つぎのように語りかけられた。
「善男子よ。この一切如来の三昧耶の真実を受持すべし。[なぜならば]汝は一切如来によって、法の自在者、金剛の象として灌頂された者であるからである」と。
一旦表出させた[一切仏法の平等性]の像(=観念上にのみ現われるものの視覚化)を、論理(=語)において即座に否定した教主金剛手は、そのプロセス総体にて表わされた(のみ表わされ得た)上位論理の(論理上の)中核であるところの「一切如来の身語心金剛の秘密」を「世間界」にて厳修せよと一切如来に対し命じる。すなわち、この「厳修」と訳された語は、一切如来とは「身語心金剛」に到達し成就安住するものではなく、衆生のある「世間界」に向かい「身語心金剛(の秘密)」の現世的拡張を展開し続ける存在だと断言するものである。そして一方、「世間界」を生きる代表者たる(ダルマの現実性総体を担う)金剛法菩薩に対しては、その一切如来の活動の現世側の観測として現われる(はずの)「一切如来の真実」を掌握せよと命じる。テキストはここで「悟りの本質とダルマ」の”意味/関係(構図)”を明確化しているのであるが、まさにこの着眼も「華厳経入法界品」に明確な古層大乗論旨の継承だと言うべきである。
(3)
「八千頌般若経」における「空論理」最根幹域に肉薄するところの記述は第八章に炸裂する。既にここで、以後の大乗を貫く主軸論理は言い尽くされているのである。
「スブーティよ、それは、それらのものは本性として何物でもないからだ。本性というもの、それは無本性であり、無本性なるもの、それが本性である。全てのものには無特性という、ただ一つの特性があるからである。そういうわけで、スブーティよ、すべてのものは、供養されるべき、完全にさとった如来によってさとられていないのである。それはなぜかというと、スブーティよ、ものに二つの本性があるわけではなく、スブーティよ、すべてのものにはただ一つの本性があるだけである。そして、スブーティよ、すべてのものの本性、それは無本性であり、無本性なるもの、それが本性なのだ。スブーティよ、このようにして、これらすべての執着のあり方は除去されるのである。」
(「大乗仏典2 八千頌般若経T」第八章 清浄 梶山雄一訳 235P )
もし『物質的存在は空である』というように追求しないならば、彼は知恵の完成への道を追求するのである。感覚、表象、意欲についてもそうであり、さらに、もし『思惟は空である』というように追求しないならば、彼は知恵の完成への道を追求するのである。もし『物質的存在は不完全である』とか『完全である』とかいうように追求しないならば、彼は知恵の完成への道を追求するのである。つまり、思惟の不完全とか完全とかいうものは、それは思惟ではないのだ。もし、そのようにさえ追求しないならば、彼は知恵の完成への道を追及することになる。
(「大乗仏典2 八千頌般若経T」第八章 清浄 梶山雄一訳 237P )
この「清浄」と題された章においては、『物質的存在は空である』などの「真理的な言及」を"追究しない"ことが「知恵の完成(般若波羅蜜)」への追求であるという(通論旨上は)矛盾的な言及が究極に表わされる。論理上そのように展開せざるを得ないのが「空論理」の本質なのであり、「般若経」は躊躇無くその域に突き刺さっていく。「秘密集会タントラ」の発想の主軸はこの「般若経」空論理の中枢に取り付き、独自拡張を図ったというべきである。
ようするに、「空論理」の根幹域にては、教主がある段階まで「真を示す(かの)命題」として言及したはずの内容を、にもかかわらず、それに執着するなと命ずるのである。「秘密集会タントラ」にて教主金剛手が延々述べるところの悪趣命題も、まさにこの同じ構図に対応してあることを理解する必要がある。それが確実なことを示す語として「秘密集会タントラ」は、再三に「清浄」という語を記しているのである。「清浄」とは、悟りの実相は無本性であること(それに対応する物質的な世界総体もまた実相無本性であるということ)、すなわち「空」であることを言っているわけである。この場合「空」の意味は積極的に「ゼロ」側の意をとるべきである。「これら悪趣命題も、古層大乗が述べる常軌命題も、[空/ゼロ位置]の清浄性に対しては同じ対等な執着要因でしかない」というのが「秘密集会タントラ」作者の着眼原点であろう。古層「般若経」のメソッドどおりに高位論理が低位命題を無効化してテキストは完結するのである。「秘密集会タントラ」における悟りの本質を示す中核「身語心金剛」は、この「ゼロ域」側にあるもの、あるいはそれ自体というべきものだから「秘密」なのである。ゆえに論理上「得ることが出来ないもの」と規定される。この場合の「金剛」とは当然「金剛頂」であり、すなわち「ゼロ位置」のことである。確かに「秘密集会タントラ」の発想には、単に知性というだけではなく、"クールな悪意"とユーモアが含まれている。まさにアヴァンギャルドである。
補足で大乗全体について記すと、悟りの本質は全実在に対応する「ゼロ位置=清浄」としてあるというのが「空論理」であり、それは彼らが所持していた”現実的な幾何学の完結性をコンパクトに収めるところの「ゼロ概念を必然化する世界モデル」”の徹底解読から帰結したのである。その「世界モデル」とは、現実的に以下の図版に示す無限連鎖図形であり、大乗において「蓮華」「ガルバ」「金剛女陰」などのメタファーで呼ばれるものである。同時にそれは、彼らが仏の姿をリアライズするためのゲージであり、すなわち仏を図像化するマトリクスなのである。ゆえに仏を生む「仏母」とされるのである。

構造の解説
(この「世界モデル」に則っとる場合)、悟りとは(「ゼロ位置」を実在界側から観側して)想定的に述べるものとなる。本来は実在界側にあって悟りの実相は言及不能である。その総体を見通す位置は唯一「ゼロ位置」であるはずだが、論理的にはそこには何も無い。こうした図式に肉薄していく手法として「般若経」は対話形式による積層的な動的レトリックを用いるのである。そして、それによって浮かび上がる理を「現実的な人類史にこそあてはめようではないか、人類にとってそれは可能のはずだ」とする途方もない発想が大乗思想の根幹であろう。
上述見解の根拠解析図版群
posted by コマプ墨田 at 14:53| 仏教関係調査
2012年04月15日
袴田事件→重大証拠がデタラメ(警察検察でっち上げ)と確定
戦後極悪史に残る大罪判明である。
袴田死刑囚「DNA不一致」行方は
袴田死刑囚「DNA不一致」行方は
袴田巌(いわお)死刑囚(76)の第2次再審請求で、弁護側推薦の鑑定人のDNA型鑑定の結果が13日、判明した。確定判決で犯行時の着衣についた袴田死刑囚本人のものとされている血痕などは、袴田死刑囚本人のDNA型とは一致しないという内容。弁護団は早期の再審開始を主張し、検察側は慎重な検証を求めた。
posted by コマプ墨田 at 15:11| 日記
2012年04月11日
TBSラジオのコメンテーター→大失言
さっきばかだなぁと聴いてた。「北朝鮮のミサイル発射などセレモニーなんであって、米軍やら防衛庁やら政権側が自分らの存在意義のアッピールでブリブリやってるけど、ほとんどの日本人などまともに危機感持ってないし、まぁそれで問題なし、どうせ海に落ちるわけだし」←みたいなこと言ってたが、まぁさすがTBSというか、報道機関の自覚ゼロ。これで万が一、ミサイルが陸地に当たっちゃったりしたらTBSはどう責任取るんだって話だ。一般人がチマタで言うことと、報道の立場との区別のつかない局があるな。まぁ日本のメディアの現実。
posted by コマプ墨田 at 16:55| 日記
2012年04月09日
深夜便のうた「夜明けのブルース」
「深夜便のうた」がかかるのを心待ちにするなどという事態が起こるとは金輪際思わなかったが、この曲にはどうにもなりませんな。美空ひばり「みだれ髪」の後にかかったのに遜色無し。五木ひろしの歌唱は完璧という他ないですな。微弱絶妙の突っかけとタメの複合具合、涙もんで御座います。&、こないだはそこまで聴けてなかったけどもエレキがまたすごいですぞ? 五木歌唱に完璧にとり付いた連携奏法というか、まぁ文句の付けよう無しです。で駄目押しでしびれるのが女性コーラスの合いの手。ここは松山♪ 松山♪。まぁアレンジャー完璧です。参りました。大ヒット間違いなし。
posted by コマプ墨田 at 04:10| 日記
断片小説JABROID 「死者遺骸断片奉納法儀軌」
深夜の前に身を清めた後、堂の下層の狭い入口をくぐるべし。内の複雑な区画の組み立てのさらなる奥へ入り行き、数種の中核となる方形区画のうち、「無数の死者遺骸断片が通過する灼熱の河」と呼ばれる方形区画に至るべし。四辺のうち「岸辺」と呼ばれる一辺に立つべし。そこから覆い隠された方形区画中央に向け礼拝し、次に結界を越えて結界を背に立つべし。その時に方形区画中央に視線を向けると、死者の細かく切断された遺骸断片が次々にあふれ、外部に向けて流れ出る光景を見るであろう。その全てを丁寧に集め一つ一つに礼拝し、儀軌に従い適切な構成を成して厨子に納め隙間なく死者の遺骸で満たすべし。その後に薄膜をかけ封印すべし。必要となる幾つもの厨子を用いて夜明けまで同じ所作を繰り返すべし。それらの厨子を積み重ね明け方に冷所に収めるべし。こうして適切な所作が成された場合に、その集められた全ての遺骸断片は、現世を実と成す為の五欲喜びの一種に見合うものとなるであろう。
死者の遺骸断片を厨子に納める為に、通常で五の連続を用いるべきである。
或いは六と七の組み合わせの連続を用いるべきである。
或いは自由な数字の組み合わせの連続を用いるべきである。
いずれにあっても全ての厨子の構成は一定となるべきである。
堂下層部の窓の無い昼夜問わずに暗いその場所は、結界の内外に関わらず、全てがマハーカーラの統治する場所である。突き刺し切り裂く為の「ヴァジュラの鋏」、肉を断ずるための「刃の湾曲した短刀」が渡されるので、それらを用いる時はマハーカーラを思念し礼拝し、適切な儀軌を守り行うべし。遺骸である死者と全ての生ける者とは完全に平等であるので、結界の近傍に立ち所作を行う時に強くそのことを思念すべし。
死者の遺骸断片を厨子に納める為に、通常で五の連続を用いるべきである。
或いは六と七の組み合わせの連続を用いるべきである。
或いは自由な数字の組み合わせの連続を用いるべきである。
いずれにあっても全ての厨子の構成は一定となるべきである。
堂下層部の窓の無い昼夜問わずに暗いその場所は、結界の内外に関わらず、全てがマハーカーラの統治する場所である。突き刺し切り裂く為の「ヴァジュラの鋏」、肉を断ずるための「刃の湾曲した短刀」が渡されるので、それらを用いる時はマハーカーラを思念し礼拝し、適切な儀軌を守り行うべし。遺骸である死者と全ての生ける者とは完全に平等であるので、結界の近傍に立ち所作を行う時に強くそのことを思念すべし。
posted by コマプ墨田 at 01:04| 断片小説
2012年04月05日
ラジオ深夜便のうた レーモンド松屋作詞作曲 五木ひろし歌唱 「夜明けのブルース」
曲といい歌唱といい、ズバ抜けてかっこよすぎる。まいった。
レーモンド松屋←誰?即行調査
↓↓↓
レーモンド松屋オフィシャルページ
レーモンド松屋を訪ねて三千里
レーモンド松屋 - Wikipedia
PS: レーモンド松屋
某チューブの違法UPで2曲聴きました(すいません)。確固と耳に残ってる曲だった。レーモンド松屋、まさに昭和歌謡の拡張パワーが平成24年の日本の現実まで突き抜けてると言う他なし。しかしどう聴いても強靭なる韓国ノリが炸裂してるとしか思えない。
レーモンド松屋←誰?即行調査
↓↓↓
レーモンド松屋オフィシャルページ
レーモンド松屋を訪ねて三千里
レーモンド松屋 - Wikipedia
PS: レーモンド松屋
某チューブの違法UPで2曲聴きました(すいません)。確固と耳に残ってる曲だった。レーモンド松屋、まさに昭和歌謡の拡張パワーが平成24年の日本の現実まで突き抜けてると言う他なし。しかしどう聴いても強靭なる韓国ノリが炸裂してるとしか思えない。
posted by コマプ墨田 at 04:03| 日記
2012年03月21日
進化した小沢一郎スタンス その2
新規小沢スタンスに感心して、こないだ消しちゃった当ブログの関係記述をキャッシュ手繰って読み返す。今年こそは提案型中心でと毎年言ってるのに結局8割方粘着書き込みの中、これは実にいいこと書いてるじゃないですか。小沢さんも分ってくれてる現状思うと、これを消すことは無かったよなぁ。再録↓
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2010年10月08日
検察審査会への粘着姿勢というのはいかがなものかと
強制起訴された小沢一郎議員であるが、即座に検察審査会に批判の矛先を向けてメディアで批判する姿勢というのはかなりまずいと思う。今回、法にのっとって真摯な態度で粛々と結論を出した国民代表に向けて、「あんた達のものの考え方はちょっとおかしいんじゃないのか?」という姿勢をとるのは、とりもなおさず「法に従い行動した国民の意思決定といったところで、そんなものにまともに取り合う必要があるのか?」という主張をするも同じである。
そもそも「検察審査会」というその名の意味が理解できてないというのは相当に問題である。国民代表が検察を審査してるのである。「検察が本来なら起訴すべきなのに根拠なく見送ってないか」を国民が直接監視審査する組織が検察審査会である。国民が検察の論理を審査してるのであり、立件して罪を主張してるわけではない。
検察審査会に召集された国民代表が「この件検察判断に問題あり」との結論を出したからといって、その論拠の不合理をつくならまだしも、「プロの検察が起訴しないとしたのに素人の国民が勝手にそれをひっくり返してるんだよな」みたいな話をはじめたら、後出しじゃんけんである。あげく「じゃぁやっぱりこういう制度は問題あるんじゃなかろうか」という子供の理屈に展開するだけである。
万が一、強制起訴された側の主張が世論を動かす反撃行動を企て、まかり通ってしまうようなことでもあれば、多くの国民はこの制度に関わることを恐れ始める。これは連鎖して裁判員制度にも影響を与える。裁判員裁判で被告が判決を不服とした場合に、裁判員が素人だからとか、制度が不備だからという理由をつけて、裁判員側へ事後に攻撃的態度で臨む被告が出かねない。法の機能によりこれを断固阻止できなければ制度はなりたたないのである。
小沢元代表の発言要旨
陸山会事件:小沢氏「離党、辞職せず」 検察審に不快感
(ps: ↑リンク先削除記事)
この話は別問題である。まぁ前田がらみの捏造でも確定して無罪だとなるなら、それをもって国民は納得するのであるから、矛先を検察審査会に向ける必要などない。その結末であれば、国民としては検察組織自体に対する「検察審査会」を設ける必要ありの話である。まぁかなり現実的方向と言える。
(ps: ↑読み返すと実にここ日本語になってませんですね。たぶんこんな感じで言いたかったのではないかと→ 「前田捏造」ですら不起訴無罪確定したら国民渋々でも納得する[しかない]ような大枠がまずあるのに、矛先を検察審査会に向ける必要なし。検察自前結論で「前田無罪」なんかなったりしたら、それこそ「検察審査会」必要ありの話である。云々。すまんがここは全部被ってくれという感じでまぁさすがに前田は有罪だったが。)
↓
離党・辞職を否定した小沢氏の”無実”はほぼ確実。
それでもやはり、自ら離党すべきだった
↑
まったくだ。
おっと、これはいかんね(汗
某女子の見解は大間違い。検察審査会の構成者を公的機関(裁判所)に帰属すると考えてはあきまへん。人員は国民代表であって、そこで出された見解は国民の意見そのもの。民意がそのように判断したのだからしょうがない。アホの11人とか誹謗中傷を言う神経が理解できませんなぁ。これいくらなんでも許されん発言でしょう。国民代表として法に則り真摯な決議を下したのにこんな言われ方されてはたまりませんですぜ。昨夜も書いたことだが、こういう論理性のない誹謗中傷がメディア権力を介してまかり通ると、裁判員制度においても、判決に関わり裁判員への報復圧力が可能となる。まぁもし文句あるなら、法の不備を細かく指摘して、その問題から積んで頂くしかない。そのぐらいわかると思うのだがなぁ。某女子サイトも広告業が主になってからは最近どうもおかしな内容が多いよな。
↓
11人の操り人形たち
↑
今回、検察審査会の意義はここでしょ? 裁判で立証できないということは、じゃぁ東京地検は何のために血税をつぎ込んであれだけやったんだ?ということ。国民はあれだけ公権力とメディアによって「小沢=汚職」という情報にさらされ続けたのに、いきなり「無しになったから、じゃぁそういうことで」と言われてるわけである。当然「おいおい、よっぽど明確な取り下げ要因でもないかぎりそれは理解できないぞ」となってるということだ。実際その強い要因などない。秘書と小沢一郎との連携など実は無かったなど信じる材料が無い。検察はその絶対の裏づけを持ってたからあれだけやったんじゃnine de sky? である。「本当は決定的なところを隠して小沢と裏取引したんじゃないの? 違うなら起訴してきちんとやればいいじゃん、どんだけ血税つぎこんだんだ? 最後まできちんとやれよ」という国民の意向ということ。その観点から本当に不起訴にする理由が見出せるのかとチェックしたら特に無かったとなれば、起訴妥当となるのは当然である。
んが、裁判やってみたら、証言は信用できないので不採用、証拠はどれもかみ合わない、これは到底立証できません、→無罪。なんでだ、あれだけ自信満々でやってた東京地検はなんなんだとなり、実はですね、東京地検でも前田大活躍で、偽装証拠とでたらめ脅し調書が根幹の大デタラメ大会だったみたいなんだよね、というか、東京地検の場合、別に前田が主任というわけでもなく、まぁ前田主導でそうなちゃったということでないのであって云々・・・という話であれば、まぁそれはもう当然検察組織再構築へと向かうだけである。まぁ検事総長は三代前にたどって辞職である。
↑
以上過去言及分再録でしたが、追加補足個所以外は実に的確な言及ではなかったでしょうか。結局こうなると小沢さんの為にもなった聡明な指摘と言っても過言ではない気がしますな。拙者もたまにはちゃんとしたこと書いてたんだよ。
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2010年10月08日
検察審査会への粘着姿勢というのはいかがなものかと
強制起訴された小沢一郎議員であるが、即座に検察審査会に批判の矛先を向けてメディアで批判する姿勢というのはかなりまずいと思う。今回、法にのっとって真摯な態度で粛々と結論を出した国民代表に向けて、「あんた達のものの考え方はちょっとおかしいんじゃないのか?」という姿勢をとるのは、とりもなおさず「法に従い行動した国民の意思決定といったところで、そんなものにまともに取り合う必要があるのか?」という主張をするも同じである。
そもそも「検察審査会」というその名の意味が理解できてないというのは相当に問題である。国民代表が検察を審査してるのである。「検察が本来なら起訴すべきなのに根拠なく見送ってないか」を国民が直接監視審査する組織が検察審査会である。国民が検察の論理を審査してるのであり、立件して罪を主張してるわけではない。
検察審査会に召集された国民代表が「この件検察判断に問題あり」との結論を出したからといって、その論拠の不合理をつくならまだしも、「プロの検察が起訴しないとしたのに素人の国民が勝手にそれをひっくり返してるんだよな」みたいな話をはじめたら、後出しじゃんけんである。あげく「じゃぁやっぱりこういう制度は問題あるんじゃなかろうか」という子供の理屈に展開するだけである。
万が一、強制起訴された側の主張が世論を動かす反撃行動を企て、まかり通ってしまうようなことでもあれば、多くの国民はこの制度に関わることを恐れ始める。これは連鎖して裁判員制度にも影響を与える。裁判員裁判で被告が判決を不服とした場合に、裁判員が素人だからとか、制度が不備だからという理由をつけて、裁判員側へ事後に攻撃的態度で臨む被告が出かねない。法の機能によりこれを断固阻止できなければ制度はなりたたないのである。
小沢元代表の発言要旨
国の正式な捜査機関である検察の強制捜査で起訴するような不正な事実はないと明らかになっており、残念だ。驚いている。検察審査会は秘密のベールの中に閉ざされ、どういう議論がなされ、結論がなされたのか、私にも一般の国民にもまったく分からない。
陸山会事件:小沢氏「離党、辞職せず」 検察審に不快感
(ps: ↑リンク先削除記事)
この話は別問題である。まぁ前田がらみの捏造でも確定して無罪だとなるなら、それをもって国民は納得するのであるから、矛先を検察審査会に向ける必要などない。その結末であれば、国民としては検察組織自体に対する「検察審査会」を設ける必要ありの話である。まぁかなり現実的方向と言える。
(ps: ↑読み返すと実にここ日本語になってませんですね。たぶんこんな感じで言いたかったのではないかと→ 「前田捏造」ですら不起訴無罪確定したら国民渋々でも納得する[しかない]ような大枠がまずあるのに、矛先を検察審査会に向ける必要なし。検察自前結論で「前田無罪」なんかなったりしたら、それこそ「検察審査会」必要ありの話である。云々。すまんがここは全部被ってくれという感じでまぁさすがに前田は有罪だったが。)
↓
離党・辞職を否定した小沢氏の”無実”はほぼ確実。
それでもやはり、自ら離党すべきだった
今回の裁判の結果、小沢氏が有罪判決を受ける可能性は限りなく低い。となれば、その時、民主党は小沢氏への「離党」を取り消さなければならない。そればかりではなく、小沢氏を「無実の被害者」として救済し、相応の地位で迎え入れなければならなくなるだろう。
それは、厚生労働省の村木厚子局長のケースを考えてみればわかりやすい。
小沢氏は、自らの言を矛盾させないためにも離党すべきだ。それこそ、ブレない政治家として最後に果たすべき、政治的使命だと考える。
↑
まったくだ。
おっと、これはいかんね(汗
某女子の見解は大間違い。検察審査会の構成者を公的機関(裁判所)に帰属すると考えてはあきまへん。人員は国民代表であって、そこで出された見解は国民の意見そのもの。民意がそのように判断したのだからしょうがない。アホの11人とか誹謗中傷を言う神経が理解できませんなぁ。これいくらなんでも許されん発言でしょう。国民代表として法に則り真摯な決議を下したのにこんな言われ方されてはたまりませんですぜ。昨夜も書いたことだが、こういう論理性のない誹謗中傷がメディア権力を介してまかり通ると、裁判員制度においても、判決に関わり裁判員への報復圧力が可能となる。まぁもし文句あるなら、法の不備を細かく指摘して、その問題から積んで頂くしかない。そのぐらいわかると思うのだがなぁ。某女子サイトも広告業が主になってからは最近どうもおかしな内容が多いよな。
↓
11人の操り人形たち
「事件性を立証できるだけの証拠もないのに無意味な裁判が始まる」ってことになる。小沢一郎を犯罪者にしたくて仕方なかった東京地検特捜部が、1年以上に渡って徹底的に捜査してきて、それでも何の証拠も見つからず、結局、起訴を断念した案件
↑
今回、検察審査会の意義はここでしょ? 裁判で立証できないということは、じゃぁ東京地検は何のために血税をつぎ込んであれだけやったんだ?ということ。国民はあれだけ公権力とメディアによって「小沢=汚職」という情報にさらされ続けたのに、いきなり「無しになったから、じゃぁそういうことで」と言われてるわけである。当然「おいおい、よっぽど明確な取り下げ要因でもないかぎりそれは理解できないぞ」となってるということだ。実際その強い要因などない。秘書と小沢一郎との連携など実は無かったなど信じる材料が無い。検察はその絶対の裏づけを持ってたからあれだけやったんじゃnine de sky? である。「本当は決定的なところを隠して小沢と裏取引したんじゃないの? 違うなら起訴してきちんとやればいいじゃん、どんだけ血税つぎこんだんだ? 最後まできちんとやれよ」という国民の意向ということ。その観点から本当に不起訴にする理由が見出せるのかとチェックしたら特に無かったとなれば、起訴妥当となるのは当然である。
んが、裁判やってみたら、証言は信用できないので不採用、証拠はどれもかみ合わない、これは到底立証できません、→無罪。なんでだ、あれだけ自信満々でやってた東京地検はなんなんだとなり、実はですね、東京地検でも前田大活躍で、偽装証拠とでたらめ脅し調書が根幹の大デタラメ大会だったみたいなんだよね、というか、東京地検の場合、別に前田が主任というわけでもなく、まぁ前田主導でそうなちゃったということでないのであって云々・・・という話であれば、まぁそれはもう当然検察組織再構築へと向かうだけである。まぁ検事総長は三代前にたどって辞職である。
↑
以上過去言及分再録でしたが、追加補足個所以外は実に的確な言及ではなかったでしょうか。結局こうなると小沢さんの為にもなった聡明な指摘と言っても過言ではない気がしますな。拙者もたまにはちゃんとしたこと書いてたんだよ。
posted by コマプ墨田 at 00:16| 日記
2012年03月20日
進化した小沢一郎スタンス
「検察は検察審査会を操ってまで自分を起訴し政治生命を絶とうとしている。その手口は実に巧妙で、たとえ自分が検察審査会でも騙されてしまったことだろう。」みたいな設定に大転換してますが、すごい発想。当初は検察審査会に向けて的外れな集中砲火やってたわけですが、ザクっと筋切り替えましたね。小沢さん、←この弁は完全脱帽です。笑ったし。
今思うとこれ↓、当時の当調査班のアドバイスはものすごく適切だったのではないでしょうか。まぁ自分の勝手な推測ですが、川内さんはインプロ能力のある有能な議員だから、今回の小沢さんスタンスのブレインなってるのかもしれませんね。まぁどんなことがあっても議員が国民の代表である検察審査会を攻撃したらまずいですよね。小沢さんもそこは十分反省してることでしょう(笑
↓↓↓
2010年10月17日
民主党、検察審査会法改正に向けての動向
川内議員は常日頃理知的にものごとに対処されており、行動力と冷静さを兼ね備えた類まれな議員だと前々から思っており、JASRACの問題で相当にお世話頂いたという具体事実もあるわけですが、いかんせんこの件では自分微妙な状況ですw
まぁ自分的には既にこの件でとやかく言っちゃってるんで、ぶっちゃけ書きますが。ふた開けて気に食わない結果だから「なんだド素人が集まって勝手なこと言いやがって、そういう魂胆ならこっちだって黙ってないぞ」と一般国民相手に直接攻撃仕掛ける輩とは違って、「これは法制度に問題があるんじゃないか? そこから積んでいきましょうよ」という川内さん一派のアプローチ、そこは民主国家として適正であり、それはありだと思う次第です。
が、しかし、問題としては、川内さん一派スタンス着眼とても、この小沢一個問題から離れて、検察審査会総体事案へと客観展開できてるかどうか、その水準の材料を的確に組んでいるかどうか、そこいらに国民の眼が突き刺さることは間違いないわけです。やるとならば、是非その覚悟からお願いしたいところあります。立法権限を持つ議員らの観点でのみ浮かび上がる偏向的提起であっては困るわけです。
さきほど別枠でピックアップした読売記事の情報にもあるように(→参照/PS:削除記事)、検察審査会ワーク全件の内で「起訴相当」が二連ちゃんで出るなんてことはまず起こっていない。言わば今回の検察審査会としては、究極の判断で「起訴相当」を出してると思うべきところで、それを大した検証作業も無しで愚行扱いし、客観性のないデタラメな理屈を押し着せ、不当な攻撃姿勢をとった民主党一部関係者らの発言があり、それに完全に連動したメディア&ネット情報の即効流出が確認されるのであります。そのリアル状況を既に我々しっかり確認してしまった以上、民主党主導の検察審査会対応ミッションに関しては、まず強い警戒のスタンスを取るのはやむなしであります。
こうしたあたりをお含み頂まして、今後法の適正なる手立てを用いて成すべきより国家国民のためとなる検察審査会法改正案があるというならば、それは改正遂行を目指して頂ければいいのでないかと思う次第です。
自分個人としては、普通に考えて、警察検察の取調べ可視化と検察審査会問題をごちゃ混ぜにするのは不適切と見ます。双方別個で組を作らないと純粋に進めてきた本筋も与太る要因になりかねない。そこ重要ではないでしょうか。
&↓こちらの件、小沢スタンス、流れとしては現状ばっちりですね。
今思うとこれ↓、当時の当調査班のアドバイスはものすごく適切だったのではないでしょうか。まぁ自分の勝手な推測ですが、川内さんはインプロ能力のある有能な議員だから、今回の小沢さんスタンスのブレインなってるのかもしれませんね。まぁどんなことがあっても議員が国民の代表である検察審査会を攻撃したらまずいですよね。小沢さんもそこは十分反省してることでしょう(笑
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2010年10月17日
民主党、検察審査会法改正に向けての動向
川内議員は常日頃理知的にものごとに対処されており、行動力と冷静さを兼ね備えた類まれな議員だと前々から思っており、JASRACの問題で相当にお世話頂いたという具体事実もあるわけですが、いかんせんこの件では自分微妙な状況ですw
まぁ自分的には既にこの件でとやかく言っちゃってるんで、ぶっちゃけ書きますが。ふた開けて気に食わない結果だから「なんだド素人が集まって勝手なこと言いやがって、そういう魂胆ならこっちだって黙ってないぞ」と一般国民相手に直接攻撃仕掛ける輩とは違って、「これは法制度に問題があるんじゃないか? そこから積んでいきましょうよ」という川内さん一派のアプローチ、そこは民主国家として適正であり、それはありだと思う次第です。
が、しかし、問題としては、川内さん一派スタンス着眼とても、この小沢一個問題から離れて、検察審査会総体事案へと客観展開できてるかどうか、その水準の材料を的確に組んでいるかどうか、そこいらに国民の眼が突き刺さることは間違いないわけです。やるとならば、是非その覚悟からお願いしたいところあります。立法権限を持つ議員らの観点でのみ浮かび上がる偏向的提起であっては困るわけです。
さきほど別枠でピックアップした読売記事の情報にもあるように(→参照/PS:削除記事)、検察審査会ワーク全件の内で「起訴相当」が二連ちゃんで出るなんてことはまず起こっていない。言わば今回の検察審査会としては、究極の判断で「起訴相当」を出してると思うべきところで、それを大した検証作業も無しで愚行扱いし、客観性のないデタラメな理屈を押し着せ、不当な攻撃姿勢をとった民主党一部関係者らの発言があり、それに完全に連動したメディア&ネット情報の即効流出が確認されるのであります。そのリアル状況を既に我々しっかり確認してしまった以上、民主党主導の検察審査会対応ミッションに関しては、まず強い警戒のスタンスを取るのはやむなしであります。
こうしたあたりをお含み頂まして、今後法の適正なる手立てを用いて成すべきより国家国民のためとなる検察審査会法改正案があるというならば、それは改正遂行を目指して頂ければいいのでないかと思う次第です。
自分個人としては、普通に考えて、警察検察の取調べ可視化と検察審査会問題をごちゃ混ぜにするのは不適切と見ます。双方別個で組を作らないと純粋に進めてきた本筋も与太る要因になりかねない。そこ重要ではないでしょうか。
検察審査会の可視化も取り組む方針 民主議連会長
民主党国会議員有志でつくる「取調べの全面可視化を実現する議員連盟」は15日午前、国会内で会合を開き、同議連会長の川内博史衆院議員が、検察審査会の可視化についても議連として取り組む方針を明らかにした。
川内氏は、小沢一郎元代表の強制起訴を決めた検察審査会ついて、現行制度の導入にかかわった司法制度改革審議会のメンバーが、今回の第五検察審査会の議決が「制度の趣旨を逸脱している」と指摘している点を踏まえ、「検察審査会も可視化できるように取り組みを進めたい」と述べた。
川内氏は会合終了後、記者団に対し「検察審査会はまったく情報が出ず、よくわからないことが多い。情報公開のあり方の議論は重要な論点だ」と強調した。
&↓こちらの件、小沢スタンス、流れとしては現状ばっちりですね。
2010年10月04日
業務連絡 小沢問題で最初に確認
東京地検がこれこれこうだとさんざん国民に言ったので、それなら起訴するのは当然だとみんな思っていたら、いえ起訴しませんけど、とかいうので、えぇ〜なんでや、東京地検の言ってるとおりなら起訴するのが当たり前だろ、なんでいまさら引っ込めてんだ、意味分からんぞ?
↑
ってぇことですから。お間違えなきよう願います。まぁ裁判でもし小沢無罪で確定した場合でも検察審査会に責任があるわけじゃないですから。そこんとこヨロ祝。
posted by コマプ墨田 at 16:10| 日記
2012年03月15日
菅直人の大いなる功績
今頃いまさらの報道である。
【死んだっていい 俺も行く】原発危機的状況に前首相 東電が発言詳細記録
阿川佐和子ネタみたいなもんだと思ってこないだこれ↓も削除した文面だが、報道を読んで思い出してキャシュ探して読み返した。やはり残しておくことにします。自分も菅さんがらみで粘着も書いたけども、やはりこの時に菅直人が総理だったことは奇跡と国民はかみ締めるべきだと。
--------------------------------------------------------------------------------------------------
2011年08月29日
菅さんが辞めなければならなかった理由の根幹は、震災、ことに原発処理において国民が見て合理性が見えない対応をしてるとなったからだ。しかしこれは誰がやってもこんなもんであった。なぜなら、実質内閣が可能な最善の行動を採ったとしても、各省庁官僚側の段取りを統治して事を動かすなんてのは夢のまた夢で、たとえ官僚体制一体の旧自民がやっても大同小異。日本の特性で、官僚体制の中核領域では本質的事象に対してこそ徹底的デタラメが機能してるのであり、それが組織の最も上位(中核)に拡張しており、官僚組織下民間連携で内閉的支配体制を万全とするための重要な装置として存在するものなのである。これは閉鎖した内部での事象において成立するものであるから(まぁむりやり弱い方に負担を押しつけて帳尻合わせるだけのことだが)、今回の震災と原発事故のようにその型枠自体を粉砕する事象においては、まさに見ての通りの本来の無能丸腰状態で事に晒されてしまうわけだ。
で、結局、菅内閣も根幹では善戦したものの、原発対応において肝心要のとこは全て、原子力関連省庁と文部科学省(汚染測定広報)の「在り得ない行動力の無さ」「近隣市民の安全より体裁を最優先した在り得ない危機度隠蔽」「在り得ない責任転嫁」等、官僚体制の実情をそのまま受けて、その思惑どおりに動いていたのである。途中どっかで菅さんが追求された時「自分は専門家である原子力安全委員会の指針でやっている」ようなことを言ってたが、これだと当然まともにはなりようが無い。元凶がそこなんだから。しかしこれは菅さんだけの問題ではないのであり、まぁ戦後日本、特に70年代以降の潮流の蓄積である。
よって、どんな内閣がやってたとしてもこうなるだけのことなのだ。震災以前に本質領域での国家対応などゼロだったのだから、結局こうした事態において何の準備もない原子力行政官僚側のボロボロ対応を、内閣側がなんとか律して仕切っていく、なんてのは出来る手立ても無い。まぁ根幹は旧自民体制の産物をどっかり菅さんが背負ってへし折れたという話。そして、結局この事態から菅さんなりの具体転換を表出したものが、反原発路線だったが、これはなんとか既存体制原型を保持したいところの官僚体制からすればあってはならない路線だから、当然あの手この手でマスコミ巻き込んで「菅はダメ人間」との潮流巻き起こしにかかるのは当然の成り行き。
自分的には、菅さんはリリーフピッチャーとしては大善戦だったと思う次第である。前も書いたが、原発事故直後、あの時菅さんでなかったら本当に東電は現場放棄して原発はより本格的なメルトダウンを引き起こしていた可能性が大きい。後期の自民体制なら間違いなく撤退を許可しただろう。菅内閣その後初動の米側との連携も基本間違ってなかった。なにしろ何の対応能力も準備もない日本側官僚機構主導だったら、もっととんでもないことになっていただろう。間違いなく彼らのテーマは初動から「如何に責任転嫁して自己領域を守るか」が主軸になった。その結果、ここまでの経過以上に本質的情報は隠蔽されて国民被害はさらに甚大になった。こうした初動一連において菅さんに的確な評価を与えるべきである。どうもお疲れでした。
(PS: あまりに長いので本質部分のみ抜粋にしました。)
【死んだっていい 俺も行く】原発危機的状況に前首相 東電が発言詳細記録
水素爆発が相次ぎ福島第1原発事故が危機的状況に陥っていた昨年3月15日未明、菅直人首相(当時)が東京電力本店に乗り込んだ際の「60(歳)になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ。俺も行く」などとの発言を、東電が詳細に記録していたことが15日、分かった。
菅氏の東電訪問は政府の事故調査・検証委員会の中間報告などでも触れられているが、記録からは、東電が第1原発から全面撤退すると考えた菅氏が、かなり強い口調でできる限りの取り組みと覚悟を迫っていたことがうかがえる。
▽菅氏の主な発言
東京電力が記録していた昨年3月15日未明の菅直人首相(当時)の主な発言は以下の通り。
・被害が甚大だ。このままでは日本国滅亡だ
・撤退などあり得ない。命懸けでやれ
・情報が遅い、不正確、誤っている
・撤退したら東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ
・60になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ。俺も行く
・社長、会長も覚悟を決めてやれ
・なんでこんなに大勢いるんだ。大事なことは5、6人で決めるものだ。ふざけてるんじゃない
・原子炉のことを本当に分かっているのは誰だ。何でこんなことになるんだ。本当に分かっているのか
阿川佐和子ネタみたいなもんだと思ってこないだこれ↓も削除した文面だが、報道を読んで思い出してキャシュ探して読み返した。やはり残しておくことにします。自分も菅さんがらみで粘着も書いたけども、やはりこの時に菅直人が総理だったことは奇跡と国民はかみ締めるべきだと。
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2011年08月29日
菅さんが辞めなければならなかった理由の根幹は、震災、ことに原発処理において国民が見て合理性が見えない対応をしてるとなったからだ。しかしこれは誰がやってもこんなもんであった。なぜなら、実質内閣が可能な最善の行動を採ったとしても、各省庁官僚側の段取りを統治して事を動かすなんてのは夢のまた夢で、たとえ官僚体制一体の旧自民がやっても大同小異。日本の特性で、官僚体制の中核領域では本質的事象に対してこそ徹底的デタラメが機能してるのであり、それが組織の最も上位(中核)に拡張しており、官僚組織下民間連携で内閉的支配体制を万全とするための重要な装置として存在するものなのである。これは閉鎖した内部での事象において成立するものであるから(まぁむりやり弱い方に負担を押しつけて帳尻合わせるだけのことだが)、今回の震災と原発事故のようにその型枠自体を粉砕する事象においては、まさに見ての通りの本来の無能丸腰状態で事に晒されてしまうわけだ。
で、結局、菅内閣も根幹では善戦したものの、原発対応において肝心要のとこは全て、原子力関連省庁と文部科学省(汚染測定広報)の「在り得ない行動力の無さ」「近隣市民の安全より体裁を最優先した在り得ない危機度隠蔽」「在り得ない責任転嫁」等、官僚体制の実情をそのまま受けて、その思惑どおりに動いていたのである。途中どっかで菅さんが追求された時「自分は専門家である原子力安全委員会の指針でやっている」ようなことを言ってたが、これだと当然まともにはなりようが無い。元凶がそこなんだから。しかしこれは菅さんだけの問題ではないのであり、まぁ戦後日本、特に70年代以降の潮流の蓄積である。
よって、どんな内閣がやってたとしてもこうなるだけのことなのだ。震災以前に本質領域での国家対応などゼロだったのだから、結局こうした事態において何の準備もない原子力行政官僚側のボロボロ対応を、内閣側がなんとか律して仕切っていく、なんてのは出来る手立ても無い。まぁ根幹は旧自民体制の産物をどっかり菅さんが背負ってへし折れたという話。そして、結局この事態から菅さんなりの具体転換を表出したものが、反原発路線だったが、これはなんとか既存体制原型を保持したいところの官僚体制からすればあってはならない路線だから、当然あの手この手でマスコミ巻き込んで「菅はダメ人間」との潮流巻き起こしにかかるのは当然の成り行き。
自分的には、菅さんはリリーフピッチャーとしては大善戦だったと思う次第である。前も書いたが、原発事故直後、あの時菅さんでなかったら本当に東電は現場放棄して原発はより本格的なメルトダウンを引き起こしていた可能性が大きい。後期の自民体制なら間違いなく撤退を許可しただろう。菅内閣その後初動の米側との連携も基本間違ってなかった。なにしろ何の対応能力も準備もない日本側官僚機構主導だったら、もっととんでもないことになっていただろう。間違いなく彼らのテーマは初動から「如何に責任転嫁して自己領域を守るか」が主軸になった。その結果、ここまでの経過以上に本質的情報は隠蔽されて国民被害はさらに甚大になった。こうした初動一連において菅さんに的確な評価を与えるべきである。どうもお疲れでした。
(PS: あまりに長いので本質部分のみ抜粋にしました。)
posted by コマプ墨田 at 22:28| 日記
2012年03月14日
仏像と古代鏡の構造調査
かなりやるべきことはあるのですが、現実生活での修行で行けとの縁起状態になってしまっているので、この追跡調査は封印状態になりそうな人生展開です(笑 で結局、意を決して削減を誓ったはずのたわごと書き込みが、、、。 でも、現実ニッポンがそっち要求してるんだよね。この国は仏教の根本などどうでもいいわけです(苦笑 表層だけ要ると。諸行無常と言っていながら行の意味も法の意味もほとんど通じないわけですから。いわんや空、いわんや般若、なわけですね。まぁこのまま日本はそこどまりだと思う。十分な気がします。
まぁ最も重大なところは自分は提示しました。ひとつちゃんとした仕事はやったと言えるので「それで満足しろ」と言い聞かせているわけです。
まぁ最も重大なところは自分は提示しました。ひとつちゃんとした仕事はやったと言えるので「それで満足しろ」と言い聞かせているわけです。
posted by コマプ墨田 at 03:22| ツィッターモード
ディズニーがやるBSの新規局で「高知白バイ事件」だそうです(汗
これはおもしろい。開局初っ端のしかも米国資本! そこが喰いついてくれたってことは、この件もう完全に世界メディア側から注視されてるって事で砂。
運転手さん御本人のブログ記事
↓
http://blogs.yahoo.co.jp/zassou1954/66225815.html
首挿げ替え写真、これって世界大回転中なのかも(笑
↓↓↓↓↓

↑
こんなもんでも日本じゃラチあかない訳で、こうなったらディズニー特番でアメリカの研究機関に解析してもらったらオッケーじゃ nine de sky?。
運転手さん御本人のブログ記事
↓
http://blogs.yahoo.co.jp/zassou1954/66225815.html
お世話になります。
ディズニーが運営する新しいBS放送「D−Life](3月17日開局)で、テレメンタリーの「高知白バイ衝突死 1〜3」が放送されることになりました。
D−Life
http//www.dlife.jp/
BSデジタル放送が見られる家庭であれば、特別な申込みなど必要なく、
無料で見られます。
全くディズニーのイメージとはかけ離れている作品ですが・・・一人でも多くの人に改めて事件を知ってもらう機会になればと思っています。
(放送日時)
3月19日(月)午前 11:30「証拠が嘘をつく〜高知白バイ衝突死:1」
3月20日(火)早朝 4:00「それでも証拠は動かない〜高知白バイ衝突死:2」
3月20日(火)朝 8:30「受刑 壁の向こうへ〜高知白バイ衝突死:3」
宜しくお願いします。
首挿げ替え写真、これって世界大回転中なのかも(笑
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↑
こんなもんでも日本じゃラチあかない訳で、こうなったらディズニー特番でアメリカの研究機関に解析してもらったらオッケーじゃ nine de sky?。
posted by コマプ墨田 at 03:00| 日記
2012年03月13日
東電OL殺人事件、検察の最終鑑定の言い回しですが、
矛盾しないDNA型
可能性が否定できないDNA型
可能性もあるDNA型
可能性を示す型
DNA型の一部
とかなんとか、まぁようするに世論誘導目的の事前リークもろなんだけど、メディアもそこまで馬鹿じゃないからそれなりにボロ出るように書いてる感じありで砂。
まぁ今回の検察の言い口、何かに似てるなぁと思ったら、よくあるこれだ。
↓↓↓
「消防署の方から来ましたが、」
↑レベルの世界ですね。それ以下かも。
可能性が否定できないDNA型
可能性もあるDNA型
可能性を示す型
DNA型の一部
とかなんとか、まぁようするに世論誘導目的の事前リークもろなんだけど、メディアもそこまで馬鹿じゃないからそれなりにボロ出るように書いてる感じありで砂。
まぁ今回の検察の言い口、何かに似てるなぁと思ったら、よくあるこれだ。
↓↓↓
「消防署の方から来ましたが、」
↑レベルの世界ですね。それ以下かも。
posted by コマプ墨田 at 22:22| 日記
東電OL殺人事件、検察側独自鑑定の現状にとりあえず思うわけですが、
弁護団側の話からは、やはり特定可能なデータは得られておらず、ごく一部の一致を拡大解釈すれば「同受刑者の可能性を示す」というぐらいのもののようだ。検察としてはこれを立て、得意の狂気弁舌を駆使して「被疑者有罪」を立証してしまおうというつもりらしい。
ここまでくると自分らで何やってるか分ってるのかどうかすら疑問になってくる。被害者体内に精液が残り、実は現場にこれとDNA完全一致の陰毛が残りしていたのに、当時「まぁそれは大した要因じゃないから鑑定不要だね」とか、「まぁ微量で鑑定しても判別できないだろうしね」とか、もう被疑者にとってめちゃめちゃなことやってきたわけだよね。それでこの期に及んで、ここまで隠し続けた証拠品のもう最期の残りまでひっくりかえして「ほらほらこれだ、完全断定は出来ないかもしれないけど被疑者一致の可能性あるのだ、有罪だ、有罪!」はぁ〜? 人として終わってるよ。まぁ御用学者が通常モードで、やはり人の心を捨て鬼畜組に加担するのかどうか。国民注視である。
DNAが混在、鑑定人判断へ…東電OL事件
東電OL殺害事件、受刑者のDNAも検出か
ここまでくると自分らで何やってるか分ってるのかどうかすら疑問になってくる。被害者体内に精液が残り、実は現場にこれとDNA完全一致の陰毛が残りしていたのに、当時「まぁそれは大した要因じゃないから鑑定不要だね」とか、「まぁ微量で鑑定しても判別できないだろうしね」とか、もう被疑者にとってめちゃめちゃなことやってきたわけだよね。それでこの期に及んで、ここまで隠し続けた証拠品のもう最期の残りまでひっくりかえして「ほらほらこれだ、完全断定は出来ないかもしれないけど被疑者一致の可能性あるのだ、有罪だ、有罪!」はぁ〜? 人として終わってるよ。まぁ御用学者が通常モードで、やはり人の心を捨て鬼畜組に加担するのかどうか。国民注視である。
DNAが混在、鑑定人判断へ…東電OL事件
東京電力女性社員殺害事件で無期懲役が確定したネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(45)の再審請求審で、東京高検が独自に実施したDNA鑑定で女性の手から同受刑者の可能性を示す型が検出されたことを受け、同受刑者の弁護団は13日記者会見し、「開示されたデータだけでは再審開始に不利な証拠かどうか評価できず、鑑定人の判断を待つしかない」と述べた。
高検が鑑定したのは、女性の両手の付着物など27点。データの開示を受けた弁護団によると、同受刑者と女性のほか、特定できない人物の型が混合した可能性のあるDNA型が検出されたという。
東電OL殺害事件、受刑者のDNAも検出か
東京電力女性社員殺害事件で無期懲役が確定したネパール国籍、ゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(45)の再審請求審で、弁護側は13日、東京高検が独自にDNA鑑定を行った物証27点の一部から、受刑者の可能性もあるDNA型が検出されたことを明らかにした。物証は女性の体や着衣の付着物など。同高検から開示を受けたという。
弁護側は「受刑者のものだと特定するものではなく、正式な鑑定結果を待ちたい」としている。
posted by コマプ墨田 at 21:54| 日記
正しいのはどっちだ! 東電OL殺人事件、検察独自鑑定結果。
奇奇怪怪(汗 真逆記事並走中!
↓↓↓
受刑者のDNA型検出か 東電社員殺害の追加鑑定
受刑者のDNA型検出されず=検察独自の追加鑑定で−東電OL殺害
よく読んだら、後者記事には「同日、東京高裁と弁護団に鑑定結果が開示された」と確実性を示す一文があるが、前者記事にはないです。共同通信はこないだも無関係な人を犯人として写真載せたりやってるしなぁ。まぁ数時間後にははっきりするだろう。
PS: これまさか検察得意のペテン話法じゃないだろうな?
東電社員殺害、矛盾しないDNA型を検出
「矛盾しないDNA」ってくどい言い回しはなんなんだって話。まさか、
↓
まさかだけど、こんなようなことじゃないだろうね? とにかく「矛盾しないDNA」ってどういうことか、はっきり国民に説明しろって!
PS2: 続報
こちらでも出ましたが、?
↓↓↓
「矛盾しない結果」
東電OL殺害、受刑者DNA型と矛盾せず 高検が独自鑑定開示
PS3: コント
検察官「お前は男か?」
被疑者「はいそうですが。」
検察官「犯人と矛盾しない事実の自白だな。ここに指印しろ。」
PS4: 朝日記事
マイナリ受刑者DNAか 東電社員殺害の追加鑑定で検出
「可能性が否定できない」というのは、
↓↓↓
「はっきりしないけれど完全にNOとは言えないかも」ぐらいの意味だろ? 普通の日本語では。この国の検察は御用学者を巻き込んで今何をやろうとしてるのだ?
PS4:
こちら記事では具体的に「DNA型の一部」なってるが、要するに確定的な完全一致ではなく系統大枠が合うものあったとかいう意味か?
↓↓↓
東京電力女性社員殺害事件の再審請求審で無期懲役となったネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(45)の弁護団が13日、記者会見し、東京高検が独自に実施した物証27点のDNA鑑定結果を明らかにした。
物証は女性の手や着衣の微物などで、12日にデータの開示を受けた。数点から受刑者のDNA型の一部が検出されたと発表したが、「現段階で評価できることは一切ない。正式な鑑定書に記される鑑定人の評価を待ちたい」としている。
PS5: こちらでDNA鑑定の具体を確認すると
DNA型鑑定
こう書いてあるな。
↓↓↓
そうなると、既に「矛盾しないDNA型」「DNA型の一部」などと言ってる段階で、実は相当怪しいデータだが、得意のデタラメ脚色ペテン話法駆使やって再審潰しを狙ってるってな印象大である。御用学者の出す鑑定書の言い回しにかなり左右されるだろう。高知白バイ事件同様、ここはまず長年手名づけた御用人材を利用してるはずだし。ここは人として学者として人生かかってるな。
↓↓↓
受刑者のDNA型検出か 東電社員殺害の追加鑑定
東京電力女性社員殺害事件で無期懲役となったネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(45)の再審請求審で、東京高検が物証27点を独自にDNA鑑定した結果、被害女性の手に付着していた微物から受刑者と一致するとみられるDNA型が検出されたことが12日、検察関係者への取材で分かった。
受刑者のDNA型検出されず=検察独自の追加鑑定で−東電OL殺害
東京電力女性社員殺害事件の再審請求審で、東京高検が独自に行っていた27点の物証のDNA型鑑定の結果、ゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(45)や、別人の「第三者」のものと特定できるDNA型は、いずれも検出されなかったことが12日、関係者への取材で分かった。同日、東京高裁と弁護団に鑑定結果が開示された。
よく読んだら、後者記事には「同日、東京高裁と弁護団に鑑定結果が開示された」と確実性を示す一文があるが、前者記事にはないです。共同通信はこないだも無関係な人を犯人として写真載せたりやってるしなぁ。まぁ数時間後にははっきりするだろう。
PS: これまさか検察得意のペテン話法じゃないだろうな?
東電社員殺害、矛盾しないDNA型を検出
その後、検察側が27点の物証について独自に鑑定を行った結果、被害者の右手の指や手のひらなどの付着物6点から、マイナリ受刑者のものと矛盾しないDNA型が検出されたという。検察側は鑑定人による正式な評価を待った上で、マイナリ受刑者の有罪を裏付ける証拠と言えるかどうか慎重に検討する方針。
「矛盾しないDNA」ってくどい言い回しはなんなんだって話。まさか、
↓
検察
「先生どうです? 何か出ませんでしたか、わずかでもそれらしいものは?」
御用学者
「そうですねぇ。なにせ量があまりに少ないですからね。一応近い領域のものはあるのですけども。」
検察
「そうですか、かなり近いわけですね? 矛盾はないと?」
御用学者
「はぁ、大きく言えば矛盾は無いでしょうね。同じ系統ですから。」
まさかだけど、こんなようなことじゃないだろうね? とにかく「矛盾しないDNA」ってどういうことか、はっきり国民に説明しろって!
PS2: 続報
こちらでも出ましたが、?
↓↓↓
「矛盾しない結果」
東電OL殺害、受刑者DNA型と矛盾せず 高検が独自鑑定開示
東京電力女性社員殺害事件の再審請求審で、東京高検は12日、独自に進めていた物証27点の追加鑑定の中間結果を弁護側に開示した。関係者によると、被害者の手の付着物から、ネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(45)=無期懲役が確定=のDNA型と矛盾しない結果が検出されたという。
PS3: コント
検察官「お前は男か?」
被疑者「はいそうですが。」
検察官「犯人と矛盾しない事実の自白だな。ここに指印しろ。」
PS4: 朝日記事
マイナリ受刑者DNAか 東電社員殺害の追加鑑定で検出
東京電力の女性社員殺害事件の再審請求審で、被害女性(当時39)の遺体などの付着物27点について、東京高検が独自に実施している追加鑑定の中間結果が12日までに示された。高検は、無期懲役刑が確定したゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(45)=ネパール国籍=の可能性が否定できないDNA型が、女性の手の付着物から検出されたとして、正式な鑑定書が出るのを待って東京高裁に証拠提出する方針だ。
「可能性が否定できない」というのは、
↓↓↓
「はっきりしないけれど完全にNOとは言えないかも」ぐらいの意味だろ? 普通の日本語では。この国の検察は御用学者を巻き込んで今何をやろうとしてるのだ?
PS4:
こちら記事では具体的に「DNA型の一部」なってるが、要するに確定的な完全一致ではなく系統大枠が合うものあったとかいう意味か?
↓↓↓
「鑑定人の評価待つ」、東電事件 DNA型一部検出で弁護団
東京電力女性社員殺害事件の再審請求審で無期懲役となったネパール人ゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(45)の弁護団が13日、記者会見し、東京高検が独自に実施した物証27点のDNA鑑定結果を明らかにした。
物証は女性の手や着衣の微物などで、12日にデータの開示を受けた。数点から受刑者のDNA型の一部が検出されたと発表したが、「現段階で評価できることは一切ない。正式な鑑定書に記される鑑定人の評価を待ちたい」としている。
PS5: こちらでDNA鑑定の具体を確認すると
DNA型鑑定
こう書いてあるな。
↓↓↓
DNA型鑑定による個人識別の歴史・現状・課題への言及を極力省き、簡潔に表したいという目的からか、鑑定の結果「DNAが一致」したといった表現がしばしばみられる。しかし、それらはいずれもDNAのすべてが一致するかを調べたのではなく、DNAのごく一部の分析からパターンの一致・不一致を判定し、確率論的に推定したものである。どういう分析が行われ、何がどう一致したのかを確認しないと評価を誤りかねない。この点指紋と異なり、判断者に高度な専門的知識が必要とされる性質のものであり、裁判に利用する際その判断は専門家の解釈に依拠することになる。
そうなると、既に「矛盾しないDNA型」「DNA型の一部」などと言ってる段階で、実は相当怪しいデータだが、得意のデタラメ脚色ペテン話法駆使やって再審潰しを狙ってるってな印象大である。御用学者の出す鑑定書の言い回しにかなり左右されるだろう。高知白バイ事件同様、ここはまず長年手名づけた御用人材を利用してるはずだし。ここは人として学者として人生かかってるな。
posted by コマプ墨田 at 03:51| 日記
2012年03月11日
新井満の高田松原の詩
新井満が根幹間違ってるのは、この震災前にメディア内で確立していた基準で饒舌にいくら語っても、震災に関わる言及は実を持たないのだという自覚がないことである。それらは震災によって全て崩壊した。「千の風になって」の論旨が一切現実に通用しなかったということが証明されている。震災後の国家具体のただ中にありながら、はたして誰があの歌を歌いたい聴きたいと思うかである。今、石沢アナの熱のこもった朗読がラジオ深夜便でむなしく全国に響いている。
posted by コマプ墨田 at 03:56| 日記
2012年03月10日
2012年03月05日
ラジオ第二の高校講座音楽
前も聴いたわけですが、植村先生のラジオ第二高校講座音楽ですが、今やってたのがまたまたよかった。今回は自前音源炸裂でギターの歴史探訪を筋に各地のレアサウンド連発である。二十何弦だかある拡張タイプの共鳴サウンド、イスラム音楽の微分音階にあわせて改造したエレキでの演奏、1930年代エレキ出現時期の演奏、などなどの最後に古賀メロディー「影を慕いて」であるが歌ってる人は誰でしょうね?あれ。しかし、小気味いい解説と音楽の絶妙な連続であっというまに終わりました。掛け値なしでこの番組はナイスです。
今回植村先生のお話で、これはいいこと言ってくれますなぁと思ったのが、↓
ギターこそ世界に広がった楽器はなく、これをグローバリゼィションと言わずに何をそう言うのかなのである。んが、今聴いてきたように世界各地時代でこれほど多彩な異種展開を成してる楽器も無いのも現実である。実にこれこそグローバリゼィションの真の本質を表出してると言えようものである。(←コマプ記憶による要約)
いやぁまさにですねぇ。経産省他官僚のみなさんよく聴いといて頂戴。
あとラジオ第二、文化公演でピーター・バラカン氏出ましたが、これも素晴らしかったですね。ただ自分の好きな曲かけて終わったわけですが(笑 最高でした。朗読といい音楽といい最近第二が充実してきてますな。第一の文化的低迷を第二が補うという図式で御座います。
PS: なるほど
要するに今やってる分は再放送ってこと砂。植村先生がやってるのは「高校講座音楽1」大枠での「世界の音楽」というセクションで、「日本の音楽」というセクションと対になってて、塚原康子先生と芸大学理コンビで並走してるという構図。塚原先生の方は一般に言うと地味な分野かも知れないが、奥が深い世界であり、こちらも内容オッケーでShow。
↓
NHKラジオ第二 高校講座音楽1
今回植村先生のお話で、これはいいこと言ってくれますなぁと思ったのが、↓
ギターこそ世界に広がった楽器はなく、これをグローバリゼィションと言わずに何をそう言うのかなのである。んが、今聴いてきたように世界各地時代でこれほど多彩な異種展開を成してる楽器も無いのも現実である。実にこれこそグローバリゼィションの真の本質を表出してると言えようものである。(←コマプ記憶による要約)
いやぁまさにですねぇ。経産省他官僚のみなさんよく聴いといて頂戴。
あとラジオ第二、文化公演でピーター・バラカン氏出ましたが、これも素晴らしかったですね。ただ自分の好きな曲かけて終わったわけですが(笑 最高でした。朗読といい音楽といい最近第二が充実してきてますな。第一の文化的低迷を第二が補うという図式で御座います。
PS: なるほど
要するに今やってる分は再放送ってこと砂。植村先生がやってるのは「高校講座音楽1」大枠での「世界の音楽」というセクションで、「日本の音楽」というセクションと対になってて、塚原康子先生と芸大学理コンビで並走してるという構図。塚原先生の方は一般に言うと地味な分野かも知れないが、奥が深い世界であり、こちらも内容オッケーでShow。
↓
NHKラジオ第二 高校講座音楽1
posted by コマプ墨田 at 00:43| 日記
2012年02月06日
タントリズムでは「瘋病」、禅宗では「痴聖人」ってこと?
数日前の明け方、何気に聴いていたラジオ深夜便の「明日への言葉」で、禅宗の先生が「十牛図」について解説していたのである。自分、「十牛図」というのはこの文章↓書いたきっかけで初めて知った次第で、そこまで知りませんでした。まぁ新井満が「般若心経」の独自翻訳だと言ってほら吹き三昧やってるので、あきれ果てつつ一連の同種新井著作物を調査してみた訳です。
「十牛図」の最期第十図に現れる布袋様みたいないな人、禅宗ではこういう人こそ真の悟りに最も近い人で、なんとそれを「痴聖人」というとのこと。なるほどなぁ。やっぱりそうかと寝床にもぐって納得して聞いてましたです。
まぁ新井満はもとより、この意味の根を推測する道を完全に誤って、分りもしないはずの勝手な「悟りの世界」を吹聴し、とことんズレまくった現代日本の惨状ここにありという印象で御座います。
追加調査
こちら様によると「十牛図」のルーツは中国禅宗を遡って、やはりインドとのことである。
http://www.com-unity.co.jp/naikan/08tobetu.htm
インドでは牛ではなく象だったというのだが、それをインド風図像でイメージすると、話は遥かに分りやすい気がしてくる。まぁ元は「十牛図」のような湿った奥深い空気は無く、思いっきりからっとしたものだったろう。で、もしこれが事実ならば、最期の布袋様風人物はタントリズムでいう「瘋病」の人そのものを示していることになるまいか? 実に興味深い。何も描かれていない第八図の前後でタントリズムの二段階の悟りのプロセスを示してるも同じということに? 或いは、むしろ直接的にタントリズムと関係してる可能性を思うところである。(津田真一「反密教学」密教から反密教へ/ヘーヴァジュラ・タントラに於ける第二の心理 244P 参照。)
ところが(泣
↓
なんと事実はより錯綜してましたです。こちら様↓によるとチベットの遺品にある「十象図」というのは、むしろ逆に大乗の通常の悟りの段階解説図のようなものらしい。これはもっと調査要りますね。
http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/report/meeting/no04/index.html
なるほど、これですね「十象図」
↓
http://www.etsuzo.com/2008/05/post_4c34.html
これはまさに大乗の通常の悟りのプロセスを図化してるものでしょう。むしろ「十牛図」とは根幹理念にギャップを感じますね。これを見るとますます「十牛図」の方はタントリズム色を感じてしまいます。
参考サイト
http://www.idotservices.info/page.cgi?kouitsu+ext3
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/10gyu.htm
とりあえず中国宋時代の廓庵禅師に起源を見るのが基本であるという再確認に戻る(笑
重要参考サイト
http://abetoshiro.ti-da.net/e2669660.html
http://web.me.com/osho/utsava/zen.html
↑
ん〜、こちら様方のおっしゃるとおりであれば、これは参った。要するに、廓庵禅師以前に道教理念で第八図までの完結だったものに、廓庵禅師が二枚付け加えて、要するに本来の直球の根幹意味をねじ伏せてしまったということらしい。
-------------------------------------------------------------------------
PS:
廓庵禅師が10枚の絵にコメントつけてるらしく、まずこれを知らないと話にならないという原点にやっと気づく。そして何度かカンニングに行ってるこちら様↓を再度確認するとしっかりテキストがありまして、読みましたところ、なんだ初めからこれちゃんと読んでればこれほど分りいいことはなかった、と大反省したところです。
廓庵禅師 十牛図
本来の道教スタンスの最終図第八図に対して、大乗の「空」基本論理をきっちりあてているのだから、あえて付け足した第九図第十図の意味は、おのずとタントリズムの見出す論理と一致するしかないのです。それ以外の過剰展開分論理は前提である「空論理」から見出されるはずがないですね。
第十図の廓庵禅師のコメントはこうなってるようです。(上記サイト様より引用)
↓
これはそのまま素直によめばいいのではないでしょうかね(笑
土をこすり灰を塗って笑いながら胸を出し裸足で街中にやってくる男あり。まぁこういうのが人の在り方の究極で、神がかりの秘儀なんぞ関係なしだ。まぁほっとけばそのうち黙ってたって枯れ木に花も咲くだろうよってなもん。
↑
漢文も分らず元テキストにもあたっていないですが、まぁこういう解釈で自分は行きたいと思います。まぁいろいろ巡ってますと、どうしてもこの布袋様風人物が「空」の境地を得た究極の域にある人ということで、こうしたアシッドな風情でありながら実は高い知見を持ち、チマタを渡って衆生を教育する、みたいな理解で書いてたりするのを見ますが、まぁそれはありえないでしょうね(補足1)。こういう人にはそういうつまらない現世の目的意識は御座いません。これは間違いない。そもそも第七図第八図の過程でそういう目的ある理念など全て完全消失したその先の話をやってるわけです。十枚しかないちょっと前のステップを無視して勝手な解釈は成り立ちませんです。
にしても「灰を塗って」というのはドキッとしますよね。やはり廓庵禅師はインドの徘徊する修行者(サドゥ)をイメージしてたのでしょうか?
(参考サイト→http://sisyphe.blog90.fc2.com/blog-entry-184.html)
(補足1)
一切読んでないのに断言しますが、新井満の結論は確実にこの筋でしょうね(笑 そもそもそれだと禅にぜんぜんならないよね。問答がないじゃんw
-------------------------------------------------------------------------
PS: あっ、新井満がらみでジョン・レノンの「イマジン」についてちょこっと書いたこれも思い出しました。
我ながらこれは「イマジン」言い当ててるな。ルーツはサドゥ!
↓
面倒なことなどなんもないと想像すれば無いじゃないか
なんでそれでだめなんだ それでいいじゃないか
おいらを妄想野郎と思うかも知れんけど
おいらだけじゃないぜ、他にもいっぱいいるよ
お前らだってその内おれらみたいになりぁいいと思うのよ
考えてみ、そうなりゃぁ世界はひとつで平和じゃないか、
ちゃうんかい?
-------------------------------------------------------------------------
他 参考サイト
http://www1.kcn.ne.jp/~hk2565/kokoro-26.htm
http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_46.htm
「十牛図」の最期第十図に現れる布袋様みたいないな人、禅宗ではこういう人こそ真の悟りに最も近い人で、なんとそれを「痴聖人」というとのこと。なるほどなぁ。やっぱりそうかと寝床にもぐって納得して聞いてましたです。
まぁ新井満はもとより、この意味の根を推測する道を完全に誤って、分りもしないはずの勝手な「悟りの世界」を吹聴し、とことんズレまくった現代日本の惨状ここにありという印象で御座います。
追加調査
こちら様によると「十牛図」のルーツは中国禅宗を遡って、やはりインドとのことである。
http://www.com-unity.co.jp/naikan/08tobetu.htm
インドでは牛ではなく象だったというのだが、それをインド風図像でイメージすると、話は遥かに分りやすい気がしてくる。まぁ元は「十牛図」のような湿った奥深い空気は無く、思いっきりからっとしたものだったろう。で、もしこれが事実ならば、最期の布袋様風人物はタントリズムでいう「瘋病」の人そのものを示していることになるまいか? 実に興味深い。何も描かれていない第八図の前後でタントリズムの二段階の悟りのプロセスを示してるも同じということに? 或いは、むしろ直接的にタントリズムと関係してる可能性を思うところである。(津田真一「反密教学」密教から反密教へ/ヘーヴァジュラ・タントラに於ける第二の心理 244P 参照。)
ところが(泣
↓
なんと事実はより錯綜してましたです。こちら様↓によるとチベットの遺品にある「十象図」というのは、むしろ逆に大乗の通常の悟りの段階解説図のようなものらしい。これはもっと調査要りますね。
http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/report/meeting/no04/index.html
なるほど、これですね「十象図」
↓
http://www.etsuzo.com/2008/05/post_4c34.html
これはまさに大乗の通常の悟りのプロセスを図化してるものでしょう。むしろ「十牛図」とは根幹理念にギャップを感じますね。これを見るとますます「十牛図」の方はタントリズム色を感じてしまいます。
参考サイト
http://www.idotservices.info/page.cgi?kouitsu+ext3
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/10gyu.htm
とりあえず中国宋時代の廓庵禅師に起源を見るのが基本であるという再確認に戻る(笑
重要参考サイト
http://abetoshiro.ti-da.net/e2669660.html
http://web.me.com/osho/utsava/zen.html
↑
ん〜、こちら様方のおっしゃるとおりであれば、これは参った。要するに、廓庵禅師以前に道教理念で第八図までの完結だったものに、廓庵禅師が二枚付け加えて、要するに本来の直球の根幹意味をねじ伏せてしまったということらしい。
-------------------------------------------------------------------------
PS:
廓庵禅師が10枚の絵にコメントつけてるらしく、まずこれを知らないと話にならないという原点にやっと気づく。そして何度かカンニングに行ってるこちら様↓を再度確認するとしっかりテキストがありまして、読みましたところ、なんだ初めからこれちゃんと読んでればこれほど分りいいことはなかった、と大反省したところです。
廓庵禅師 十牛図
本来の道教スタンスの最終図第八図に対して、大乗の「空」基本論理をきっちりあてているのだから、あえて付け足した第九図第十図の意味は、おのずとタントリズムの見出す論理と一致するしかないのです。それ以外の過剰展開分論理は前提である「空論理」から見出されるはずがないですね。
第十図の廓庵禅師のコメントはこうなってるようです。(上記サイト様より引用)
↓
胸を露にし足を跣(はだし)にしてに入り来(きた)る。
土を抹し灰を塗って笑い腮(あぎと)に満つ。
神仙真の秘訣を用いず。
直(じき)に枯れ木をして花を放って開かしむ。
これはそのまま素直によめばいいのではないでしょうかね(笑
土をこすり灰を塗って笑いながら胸を出し裸足で街中にやってくる男あり。まぁこういうのが人の在り方の究極で、神がかりの秘儀なんぞ関係なしだ。まぁほっとけばそのうち黙ってたって枯れ木に花も咲くだろうよってなもん。
↑
漢文も分らず元テキストにもあたっていないですが、まぁこういう解釈で自分は行きたいと思います。まぁいろいろ巡ってますと、どうしてもこの布袋様風人物が「空」の境地を得た究極の域にある人ということで、こうしたアシッドな風情でありながら実は高い知見を持ち、チマタを渡って衆生を教育する、みたいな理解で書いてたりするのを見ますが、まぁそれはありえないでしょうね(補足1)。こういう人にはそういうつまらない現世の目的意識は御座いません。これは間違いない。そもそも第七図第八図の過程でそういう目的ある理念など全て完全消失したその先の話をやってるわけです。十枚しかないちょっと前のステップを無視して勝手な解釈は成り立ちませんです。
にしても「灰を塗って」というのはドキッとしますよね。やはり廓庵禅師はインドの徘徊する修行者(サドゥ)をイメージしてたのでしょうか?
(参考サイト→http://sisyphe.blog90.fc2.com/blog-entry-184.html)
(補足1)
一切読んでないのに断言しますが、新井満の結論は確実にこの筋でしょうね(笑 そもそもそれだと禅にぜんぜんならないよね。問答がないじゃんw
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PS: あっ、新井満がらみでジョン・レノンの「イマジン」についてちょこっと書いたこれも思い出しました。
我ながらこれは「イマジン」言い当ててるな。ルーツはサドゥ!
↓
面倒なことなどなんもないと想像すれば無いじゃないか
なんでそれでだめなんだ それでいいじゃないか
おいらを妄想野郎と思うかも知れんけど
おいらだけじゃないぜ、他にもいっぱいいるよ
お前らだってその内おれらみたいになりぁいいと思うのよ
考えてみ、そうなりゃぁ世界はひとつで平和じゃないか、
ちゃうんかい?
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他 参考サイト
http://www1.kcn.ne.jp/~hk2565/kokoro-26.htm
http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_46.htm
posted by コマプ墨田 at 01:00| 日記
2012年01月29日
人類においてビートとは何か (←おおげさw
今見たら池田信夫氏による著作紹介があって、ざっと読んだとこですが、原著の着眼に賛同できないというか、まぁ音楽を軽く見すぎてる個所を思う次第です。
宗教を生みだす本能
音楽が戦闘本能に起因して発生してるという一義的観点は誤りであろう。音楽が人類生存根幹に絡んで必要不可欠な要素としてあるのは、何と言っても性交に関わる生命合理のシステムにおいてであると自分は理解してます。そことりあえず軽くまとめておきます。
このビート男女和合論理を理解するのに格好な事例は、何と言っても阿波踊りである。阿波踊りでは「男踊り」と「女踊り」というのが男女で分かれており、それを同じ音楽の内で踊るのである。基本の「男踊り」は一見して単純な二拍子以外の何ものでもない。恐るべきは「女踊り」で、これを二拍子ととるか三拍子ととるか見れば見るほど分らないのである。だがこれは基本→「極めて二拍子に接近してる三拍子の状態」ととるべきである。つまり「三拍子の真ん中の拍が空域の相をとって二拍子の状態に近くなってるだけ」ということ。しかし「女踊り」はこの空域拍に「腰のひねり」を入れつつ動的連鎖を生みつつ進むというのが所作の本質なのである。「女踊り」のビートの主軸は実として打たれる拍の間の空域の拡張にある。
ついでなんで検索してこれ見てみましたが、やっぱ阿波踊りおもしろいすね。
↓
素であればどんどん二拍子加速したいところの「男ノリ」なのだが、「女踊り」主軸のビートが悠々それをてなづけちゃって、「男踊り」は二拍子の拍間ぐにゃついて加速できず→もっちゃり親父ノリになっちゃってますってな感じですね。なんとも粋で砂ぁ。その後方からやがて淡々と来る囃子組が実に格好いいですなぁ。
宗教を生みだす本能
言語や音楽は、こうした儀礼のために生まれた、と本書はいう。特に言語は、戦闘に際して敵味方をわける暗号として機能するため、それを習得することはきわめて重要だった。部族の規範に従わない者は容赦なく部族から追放され、それは死を意味した。実用的な目的のない音楽がすべての部族にあり、むしろ未開社会ほど激しく音楽や舞踏が使われることは、これが集団のために個人を犠牲にする儀式の道具だったことをうかがわせる。
音楽が戦闘本能に起因して発生してるという一義的観点は誤りであろう。音楽が人類生存根幹に絡んで必要不可欠な要素としてあるのは、何と言っても性交に関わる生命合理のシステムにおいてであると自分は理解してます。そことりあえず軽くまとめておきます。
@性交においては動的な身体の律動が必要とされる。それがないと確実な受精結果を得れない可能性が高い。ゆえに、その動性パターンは生命本流の根幹域から個々の男女身体に最も合理的なあり方として注入されたものなのである。それがビートの起源である。
A性交における律動(ビート)のパターンは、男女の生命的役割(分断)において、男女各々の身体内に、合理的に異なるあり方でもたらされている。
極めて大雑把に言うと、↓
[男→ リニア直進加速の最大値を得るビート→二拍子」
[女→ 加速減速をコントロールするひねりを含むビート→三拍子」
である。
B性交において、この男女間での異なるビートは融合される必要がある。この場合、より高度なシフト(マジック)をとるのが、三拍子側による二拍子側の統治である。主体は三拍子をコントロールして外的にもたらされる二拍子を融合してしまう女性原理にある。
Cこの場合言う三拍子とは、現実的なビートとして述べれば、二拍子の拍間の余白域のコントロールである。この余白域を押し広げ、拍側より拡張的に様々な操作を行い、二拍子の直線単一性を時空拡張性に変容させることである。
D性交の最終に向けて最大化しつつある男性ビート=二拍子律動は、それとの並走を維持しながらも微細に加速減速を繰り返している女性ビートによって変容させられる。かくして成立した一体的な複合ビートは、生命総体が担う現世から異質の域(←おそらくは)にスパイラル的に吸入され、やがて現世の男女の事は終了するのである。
Eこのように男女間に役割分担されたビートの根幹域を一体化させる過程が、確実に生命維持の要素としてあるのである。つまり、このビートの男女和合がなされなければ生命サイクルは維持できない。ここにこそ音楽の起源の重大要因があるのである。
このビート男女和合論理を理解するのに格好な事例は、何と言っても阿波踊りである。阿波踊りでは「男踊り」と「女踊り」というのが男女で分かれており、それを同じ音楽の内で踊るのである。基本の「男踊り」は一見して単純な二拍子以外の何ものでもない。恐るべきは「女踊り」で、これを二拍子ととるか三拍子ととるか見れば見るほど分らないのである。だがこれは基本→「極めて二拍子に接近してる三拍子の状態」ととるべきである。つまり「三拍子の真ん中の拍が空域の相をとって二拍子の状態に近くなってるだけ」ということ。しかし「女踊り」はこの空域拍に「腰のひねり」を入れつつ動的連鎖を生みつつ進むというのが所作の本質なのである。「女踊り」のビートの主軸は実として打たれる拍の間の空域の拡張にある。
ついでなんで検索してこれ見てみましたが、やっぱ阿波踊りおもしろいすね。
↓
素であればどんどん二拍子加速したいところの「男ノリ」なのだが、「女踊り」主軸のビートが悠々それをてなづけちゃって、「男踊り」は二拍子の拍間ぐにゃついて加速できず→もっちゃり親父ノリになっちゃってますってな感じですね。なんとも粋で砂ぁ。その後方からやがて淡々と来る囃子組が実に格好いいですなぁ。
posted by コマプ墨田 at 13:25| 日記
2012年01月16日
すばらしかった→高校講座音楽(ラジオ第二)
完全作業中止で聴く他無い内容だった。NHK音楽枠における快挙と言ってよい。これだよNHK!,これぞ放送が音楽を流す理由の本筋である。
授業内容は、音楽と言語の強い結びつきをキーに、アジアからイスラムまでを大枠とするダイナミックな音源の比較である。教授のコメントは非常に完結で要所をピシッと言いぬいて、どんどん音源を繋いでいく。この進め方も実に小気味よかった。限られた時間を最大に使っている。無駄が無い。
しかし、何と言っても音源に脱帽である。とんでもなく質の高いものの一番いいところをきちっと時間に合わせて切ってきてる。韓国→パンソリの語り領域からすごいドライブ感でパンソリ特有の歌唱に繋がるところ、インド→タブラの修練過程での口でのトレースだというが(男女掛け合い)、もうそれがすさまじい音楽テクニックに完成してる、などなど。
すばらしい。この数年ついぞNHK音楽枠で聴いたことの無い、明らかに世界基準でいける内容であった。
PS: 追跡調査 これですね。
↓
NHK高校講座 音楽1「世界の音楽(2)〜ことばの音楽性」
チャンネル :ラジオ第2
放送日 :2012年 1月16日(月)
放送時間 :午前0:00〜午前0:20(20分)
ジャンル :趣味/教育>中学生・高校生
植村幸生
なるほど分った。植村幸生先生で検索したら芸大の学理の先生だった。あの音源は自前だろうw あそこの科は一財産持ってる。まぁたぶん先生自ら録り集めたものの可能性大。いやこの先若いみなさんのためにも惜しみなくどんどん出して頂戴(笑 ヨロ祝!
授業内容は、音楽と言語の強い結びつきをキーに、アジアからイスラムまでを大枠とするダイナミックな音源の比較である。教授のコメントは非常に完結で要所をピシッと言いぬいて、どんどん音源を繋いでいく。この進め方も実に小気味よかった。限られた時間を最大に使っている。無駄が無い。
しかし、何と言っても音源に脱帽である。とんでもなく質の高いものの一番いいところをきちっと時間に合わせて切ってきてる。韓国→パンソリの語り領域からすごいドライブ感でパンソリ特有の歌唱に繋がるところ、インド→タブラの修練過程での口でのトレースだというが(男女掛け合い)、もうそれがすさまじい音楽テクニックに完成してる、などなど。
すばらしい。この数年ついぞNHK音楽枠で聴いたことの無い、明らかに世界基準でいける内容であった。
PS: 追跡調査 これですね。
↓
NHK高校講座 音楽1「世界の音楽(2)〜ことばの音楽性」
チャンネル :ラジオ第2
放送日 :2012年 1月16日(月)
放送時間 :午前0:00〜午前0:20(20分)
ジャンル :趣味/教育>中学生・高校生
植村幸生
なるほど分った。植村幸生先生で検索したら芸大の学理の先生だった。あの音源は自前だろうw あそこの科は一財産持ってる。まぁたぶん先生自ら録り集めたものの可能性大。いやこの先若いみなさんのためにも惜しみなくどんどん出して頂戴(笑 ヨロ祝!
posted by コマプ墨田 at 00:41| 日記
2012年01月13日
The Indian Buddhist Iconography ebook
当調査班的には全くコンタクトない件なんですが、巡回してましたらこういうのがありましたが、ダウンロードのやり方分らないので中身は見てませんが、このまま埋もれる調査かと思ってるところなんで、これはちょっとうれしいですね(笑 部分的なチャートで採り上げてくれてるのかも。
Download The Indian Buddhist Iconography pdf ebook. Cheap ebooks for ipad/iphone/android.
PS: 追跡調査
こちらが元サイトのような? でもどうやればダウンロードできるのかいまいちよくわかりません(笑
↓
Web Tech 2
Download The Indian Buddhist Iconography pdf ebook. Cheap ebooks for ipad/iphone/android.
The Indian Buddhist Iconography ebook
Yagihashi Tsukasa (Jabrec-Art-Music) 2010. The explanation to the constructive theory of buddhism sculptures that the early Mathura school shows, the progressive step in the ... New Indian Books on Buddhism, Buddhist Art, History, Literature, Meditation, Philosophy and Tantra - New Indian Books
PS: 追跡調査
こちらが元サイトのような? でもどうやればダウンロードできるのかいまいちよくわかりません(笑
↓
Web Tech 2
posted by コマプ墨田 at 11:44| 仏教関係調査
2012年01月07日
「金光明経」(現代語訳)を読み返してましたが。
こないだ直感的言及で、「金光明経」に関わり、飛鳥の古代国家と大乗のことを書いた手前、このところもう一回通して読んでいたわけです。最初読んだ時に、空理論に対する大乗の二面性(般若経由来)というか、相反するかにも思える二つの着眼がこのお経にこそ歴然と反映してる事を確認したのであります。なので今回は、その空に対する大乗スタンスの一方は、大乗が合流する以前からのストゥーパの主体である女神世界のスタンスなんじゃないでしょうか?という持論の視座を軸に読んだのです。
後半、次々に護国にかかわる神々と鬼神らの弁が品ごとに続くわけですが、半ばから、弁才天、吉祥天、大地の女神ドゥリダー、と三人の女神の品が連続で出てきます。経全体を通じても最後の「大地の女神ドゥリダー」の弁舌が重大な内容であると踏まえる所存です。ドゥリダーという名前はこのテキスト以外で聞いたことないので調査中ですがやはり検索では出てきません。響きがドゥルガーと似てますが、一般に知られるドゥルガーのキャラクターに比べると、わざわざ「大地の女神」と記されてるごとくに、ドゥルガーよりもっと女性が司どる生命パワー世界総体を反映するようなキャラクターに描かれています。この場合、形式的な固有名以上に「大地の女神」という根幹概念が重要であるわけです。
この「大地の女神」は、大乗の論理と無関係に(事前に超越して)、世界の生命原動力の全てを握っている前提で登場するわけです。その生命原動力は、この女神の意思によりコントロールされるところのマテリアルである「汁液=エキス」として生命世界に満ちているものと揺るがぬ大前提がまずあるわけです。そして女神は (女神が司どるこの生命世界の”秩序=機能”は)姿を隠しながら、仏の教えを的確に現世に現し得る僧(大乗)の理に張り付き、それを援助するものとなることを述べるわけです。まさにここには、「大乗に先行する女神世界の理」と「大乗の理(空)」との関係の基本が記されていると見るべきなわけであります。そして女神が述べるように彼女(ら)は「姿を隠して」それを成し続けるので、大乗の歴史の表層には(基本的に)明確な姿は現わさないわけです。しかし大乗の歴史に一貫する隠れた深遠こそは、この女神世界との強力な連動図式である事は明らかと見る所存です。(後期密教展開以前からの大乗の基盤本質として。)
以下重要個所引用。
↓
後半、次々に護国にかかわる神々と鬼神らの弁が品ごとに続くわけですが、半ばから、弁才天、吉祥天、大地の女神ドゥリダー、と三人の女神の品が連続で出てきます。経全体を通じても最後の「大地の女神ドゥリダー」の弁舌が重大な内容であると踏まえる所存です。ドゥリダーという名前はこのテキスト以外で聞いたことないので調査中ですがやはり検索では出てきません。響きがドゥルガーと似てますが、一般に知られるドゥルガーのキャラクターに比べると、わざわざ「大地の女神」と記されてるごとくに、ドゥルガーよりもっと女性が司どる生命パワー世界総体を反映するようなキャラクターに描かれています。この場合、形式的な固有名以上に「大地の女神」という根幹概念が重要であるわけです。
この「大地の女神」は、大乗の論理と無関係に(事前に超越して)、世界の生命原動力の全てを握っている前提で登場するわけです。その生命原動力は、この女神の意思によりコントロールされるところのマテリアルである「汁液=エキス」として生命世界に満ちているものと揺るがぬ大前提がまずあるわけです。そして女神は (女神が司どるこの生命世界の”秩序=機能”は)姿を隠しながら、仏の教えを的確に現世に現し得る僧(大乗)の理に張り付き、それを援助するものとなることを述べるわけです。まさにここには、「大乗に先行する女神世界の理」と「大乗の理(空)」との関係の基本が記されていると見るべきなわけであります。そして女神が述べるように彼女(ら)は「姿を隠して」それを成し続けるので、大乗の歴史の表層には(基本的に)明確な姿は現わさないわけです。しかし大乗の歴史に一貫する隠れた深遠こそは、この女神世界との強力な連動図式である事は明らかと見る所存です。(後期密教展開以前からの大乗の基盤本質として。)
以下重要個所引用。
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また、教えを説く僧が座って、この経典の王者を詳しく宣揚するところがどこであれ、尊師世尊よ、妾はそれらの土地や地方へ出かけるでしょう。その法座のところへ行って、妾は姿を隠して、妾はかの教えを説く僧の両足の裏に潜んでいるでしょう。そして、教えを聴いて、妾は甘露の教えの味を満喫して満足し、法悦に浸るでありましょう。そして、教えの味を満喫して満足し、法悦に浸った妾は、大地を金輪際に至るまで六万八千由句にわたって、大地の汁液をふえさせ、満ち溢れさすでありましょう。(中略)
~ そして尊師世尊よ、妾が教えの甘露を満喫して、すばらしい華やかさと体力と持久力と勢力と気力とを得ましたときに、このジャンブ=ドゥヴィーパは七千由句にわたって、滔々たる大地の汁液によって増大し、大地は一層強くなりましょう。そして、尊師世尊よ、この大地に拠る衆生たちは増大と発展と繁栄に達するでありましょう。彼らは素晴らしく豊かになり、豊かになったかれらは大地から得られる種々さまざまな恩恵を受け、安楽な生活を送るようになるでありましょう。そして、種々さまざまの飲食物、衣料、臥具、坐具、住居、邸宅、遊園、河川、蓮池、泉、湖、沼、湖水など、地上に自然にできたり人口的にしつらえられたりしまして、地上に見られる種々さまざまな、安楽な生活に役立つものすべて、かれらは享受してほしいのであります。その結果、尊師世尊よ、すべての衆生がわれわれに恩義を感じて欲しいのです。確かに、この『黄金の最高の輝き』という経典の王者は、恭々しく聴聞し、尊ひ敬い、師事し、供養されねばなりません。
(「佛教聖典選 大乗経典 ニ」岩本裕 訳「金光明経」207~208p )
posted by コマプ墨田 at 14:42| 仏教関係調査
2011年12月24日
ついに掴んだ! RaUの正体。
この数日、時間を見つけて強行追跡調査をやっていたにもかかわらず、なかなか尻尾を捕まえることが出来なかったのだが、たった今ゲットですw やはり、案の定なんですが、作詞のRaUとは藤圭子自身だった。こうあるほか無い結論は「男と女」を聴いて拙者の内では直ぐに下されていたのである。ついに事実を手繰り寄せたからにはきっぱり書きますが、これは凄い現実なんだよ。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hikki/filepage2.htm
まぁ先日拙者書きましたとこ(→ 明け方に藤圭子「男と女」)、かなりいい筋を引き寄せてたと思っとります。藤圭子がらみでもう少し書くことあるなぁ。21世紀の藤圭子「男と女」、歌謡曲史上どんな歌手も出来なかった恐るべき事象発生というべきである。(PS: 1997年リリースなので「21世紀前夜の」とか書くべきだったかw)
PS:
宇多田ヒカル台頭前夜にかけての、宇多田家ユニットがらみのRaUこと藤圭子の録音は意外と多いではないか。そもそも60年代末からの藤圭子の実質活動期間は10年ほどに過ぎない。全くのインディーズユニットの中心ボーカルから発進したいわば第二期藤圭子が、その半分にあたる5年ほどを後年費やしていたということだ。その間の記録をざっと追跡すると、前半が宇多田家三人のインディーズユニットでのリリース、後半が藤圭子単独でのリリースと更に二期に分かれる模様である。
前半の宇多田ユニットU3のたたずまいをこちらで見ると、昭和の大歌手藤圭子ボーカルとは誰も思わない普通のインディーズCDである。
↓
U3ディスコグラフィー
が、以下サイトにある、宇多田ヒカルの過去域を手繰るパース上でのメインアルバム「STAR」へのレビューを読む限り、その視線にやはり藤圭子の重さが奇異に映っていることは確実である(笑。特に前者は、宇多田ヒカル世界の延長を意図していたにもかかわらず、大きく期待を裏切られてることにやるかたない心理を文面にただよわせている。だがRaUの(ある種耐え難い)重苦しさの意味を否定しきれない不可解さをも抱えているところを実に興味深く読んだ。肯定的な言い回しである後者も同じアンビバレンツを含んでいる。
↓
STAR♪U3
Amazon カスタマーレビュー STAR
U3の末期に藤圭子の分離路線が展開し、さらにその末期に宇多田ヒカルのデビューが来るという構図である。この時期はまさに宇多田ヒカルが世を席巻していく前夜数年にあたる。意外と多くのリリースを重ねていたこの時期の藤圭子側の活動は、程なく「宇多田ヒカルの母」という一語の背景に隠れてしまったというわけである。しかしU3離脱後の藤圭子単独展開は最終炸裂「男と女」に向けての重要な模索過程であったと見なければ成らないだろう。「男と女」の前年に3枚のリリースがあり、内2枚は通常歌謡曲大御所に曲を作ってもらっている。その歌詞を確認すると、やはり視点が昭和歌謡の結界を脱することはできていない。その(昭和由来の)古さ側に藤圭子の重さは再び吸収され、それでは誰もが安心して70年代藤圭子の延長に盤を積むだけのことになるのだ (補足: ただ「天国」は聴いたが、これは通常の歌謡曲枠に照らして十分次元の高い内容であった)。残る1枚「冷たい月」はRaU作詞であるが、企画が宇多田ヒカルがらみのためか視点に明確さがない。さらにこれより前に、RaU作詞のリリースがあるが、これも歌詞の視点は昭和の残光に引き込まれていることは否めない。
↓
藤圭子のヒストリー
ここいらまでの追跡調査でイメージしてるところをざっと書いとこう。「男と女」に向けての第二期藤圭子において、U3からの離脱は「(場たるアメリカにおいても)ついに重量を拡散できなかった歌手藤圭子という宿命的存在」が「個への再凝縮」に反転することであったと読むことが出来よう。その離脱プロセスはより古い昭和日本の磁場に舞い戻り位置を安定させつつ動き出したようだが、それは「男と女」の言わば「かつて見たことのない異様な手口」において大どんでん返しを引き起こす下準備のようなものだ。静かに匕首を・・・・という感じである。それは昭和歌謡がこぞって大勘違いしその上に膨大につまれている虚妄の「女」の総体に、藤圭子の歌唱がただ一点でつりあいを取ってしまう「特別な重量の反転」と言うことである。
PS2: これは興味深い。19才藤圭子の談話
当時本人歌ってる曲の筋書きは演じる対象としてのみあったことは確実です。これぞ神がかり。にしてもあの歌唱の主がこんな少女だったとはなぁ。今の加護ちゃんより若いんですが(超汗
上述の補足
↓
藤圭子デビュー直後に連発される曲群を覆う筋書き総体は、非常に戦略的に石坂まさをがディレクトしていたという。石坂は、少女阿部純子(藤圭子本名)の可能性の途方も無さを見抜き確信し、自分の専属したレコード会社を辞してまでも、妥協抜きで路を見出そうとしたという。感動的なその実態がこちらに書かれてあった。↓
http://www.ringohouse.com/starFiles/keiko_Folder/keiko.html
当時二十歳にも満たない阿部純子には、石坂が全身全霊を込めて描く"劇場"を一人演じ答えることが全てだったに違いない。阿部純子の勤勉さと女優能力の凄さをもここにあらためて理解したところである。石坂が表わそうとした「男世界に現れている女(虚像)」と少女阿部純子による「(その虚像を受けて)女優的に現実化する女」の完璧な連動がそこにあった。しかし、個の女性たる阿部純子にとって、男領域の主観により徹底して計画されたものである(に過ぎない)「藤圭子」とは、自分にぴったり重なった虚像の女と常に感じられていたことは間違いない。上のyoutubeの藤圭子(というかまさに阿部純子である)の言い方にはその意が明確に表出している。
余談: ところがその後これ↓みてがっかり(笑 まぁやっぱ虚像を追う男世界の悲しい限界というべきか。まぁ昭和歌謡の限界でもある。
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1235008408/
PS3:
こちら様、妙に家庭内事情まで詳しいのだが、
藤圭子について
まぁここメモっとく必要あり。やっぱね(笑 まぁ奥村ちよも当時あの炸裂具合でありながら、後年ほとぼり冷めてから同じこと言ってるわけだが、この人に至ってはリアルタイムで周りに豪語していたのである。(あるいは上のyoutubeの発言か?)
↓
あとここ、五木博之が絡んでるのがドヒャってな感じで興味深い砂ぁ。まぁ宇多田家ユニット以前に一回再デビューして失敗した時の話だが、まぁここの人が書いてる通りでしょうね。なんせ五木博之の場合、ここいらから先は、昭和歌謡と戦後日本の合体形で全てを内的に完結させ締めくくる為の最終過程を送るのである(参考過去記述分)。現在NHKラジオ深夜便で盛んですが、まぁ全く時代のダイナミズムからずれちゃいましたね、遥かに。締めくくろうと思ったらその対象は全部はじけて勝手にどんどん始まっちゃってるみたいな。まぁやはり歴史はそんな安直を人に許しませんな。あたりまえですけどね。まぁ本人が納得して締めくくれれば十分なんでしょうけどね。実の日本国民はそれどこじゃない。
話し戻します。
要はそういうことなので、藤圭子のぶっとび具合を五木博之が的確に処置できる訳が無い。愛の水中花って具合には行かないのである。とはいえ、ここで中途半端な過去路線焼き直しに成功してなくて結果オーライであった。五木博之グッドジョブと言うべき(笑
↓
これも笑う。
↓
実際そのとおりで、拙者など藤圭子内で言っても持ち歌よりカバー曲のが好きである。「ララバイ東京」「東京流れ者」あたり。「怨み節」なんかもあらゆる意味においてヤバイです(笑 まぁ何聴いてもバケモノ的にうまいんだからしょうがないです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hikki/filepage2.htm
宇多田一家のおのおののステージネームは、ママの圭子さんは、RaU。パパの照實氏は、SkingU。そしてHikkiは、H゜IKASOU(画家のピカソからもじった。)
まぁ先日拙者書きましたとこ(→ 明け方に藤圭子「男と女」)、かなりいい筋を引き寄せてたと思っとります。藤圭子がらみでもう少し書くことあるなぁ。21世紀の藤圭子「男と女」、歌謡曲史上どんな歌手も出来なかった恐るべき事象発生というべきである。(PS: 1997年リリースなので「21世紀前夜の」とか書くべきだったかw)
PS:
宇多田ヒカル台頭前夜にかけての、宇多田家ユニットがらみのRaUこと藤圭子の録音は意外と多いではないか。そもそも60年代末からの藤圭子の実質活動期間は10年ほどに過ぎない。全くのインディーズユニットの中心ボーカルから発進したいわば第二期藤圭子が、その半分にあたる5年ほどを後年費やしていたということだ。その間の記録をざっと追跡すると、前半が宇多田家三人のインディーズユニットでのリリース、後半が藤圭子単独でのリリースと更に二期に分かれる模様である。
前半の宇多田ユニットU3のたたずまいをこちらで見ると、昭和の大歌手藤圭子ボーカルとは誰も思わない普通のインディーズCDである。
↓
U3ディスコグラフィー
が、以下サイトにある、宇多田ヒカルの過去域を手繰るパース上でのメインアルバム「STAR」へのレビューを読む限り、その視線にやはり藤圭子の重さが奇異に映っていることは確実である(笑。特に前者は、宇多田ヒカル世界の延長を意図していたにもかかわらず、大きく期待を裏切られてることにやるかたない心理を文面にただよわせている。だがRaUの(ある種耐え難い)重苦しさの意味を否定しきれない不可解さをも抱えているところを実に興味深く読んだ。肯定的な言い回しである後者も同じアンビバレンツを含んでいる。
↓
STAR♪U3
Amazon カスタマーレビュー STAR
U3の末期に藤圭子の分離路線が展開し、さらにその末期に宇多田ヒカルのデビューが来るという構図である。この時期はまさに宇多田ヒカルが世を席巻していく前夜数年にあたる。意外と多くのリリースを重ねていたこの時期の藤圭子側の活動は、程なく「宇多田ヒカルの母」という一語の背景に隠れてしまったというわけである。しかしU3離脱後の藤圭子単独展開は最終炸裂「男と女」に向けての重要な模索過程であったと見なければ成らないだろう。「男と女」の前年に3枚のリリースがあり、内2枚は通常歌謡曲大御所に曲を作ってもらっている。その歌詞を確認すると、やはり視点が昭和歌謡の結界を脱することはできていない。その(昭和由来の)古さ側に藤圭子の重さは再び吸収され、それでは誰もが安心して70年代藤圭子の延長に盤を積むだけのことになるのだ (補足: ただ「天国」は聴いたが、これは通常の歌謡曲枠に照らして十分次元の高い内容であった)。残る1枚「冷たい月」はRaU作詞であるが、企画が宇多田ヒカルがらみのためか視点に明確さがない。さらにこれより前に、RaU作詞のリリースがあるが、これも歌詞の視点は昭和の残光に引き込まれていることは否めない。
↓
藤圭子のヒストリー
ここいらまでの追跡調査でイメージしてるところをざっと書いとこう。「男と女」に向けての第二期藤圭子において、U3からの離脱は「(場たるアメリカにおいても)ついに重量を拡散できなかった歌手藤圭子という宿命的存在」が「個への再凝縮」に反転することであったと読むことが出来よう。その離脱プロセスはより古い昭和日本の磁場に舞い戻り位置を安定させつつ動き出したようだが、それは「男と女」の言わば「かつて見たことのない異様な手口」において大どんでん返しを引き起こす下準備のようなものだ。静かに匕首を・・・・という感じである。それは昭和歌謡がこぞって大勘違いしその上に膨大につまれている虚妄の「女」の総体に、藤圭子の歌唱がただ一点でつりあいを取ってしまう「特別な重量の反転」と言うことである。
PS2: これは興味深い。19才藤圭子の談話
当時本人歌ってる曲の筋書きは演じる対象としてのみあったことは確実です。これぞ神がかり。にしてもあの歌唱の主がこんな少女だったとはなぁ。今の加護ちゃんより若いんですが(超汗
上述の補足
↓
藤圭子デビュー直後に連発される曲群を覆う筋書き総体は、非常に戦略的に石坂まさをがディレクトしていたという。石坂は、少女阿部純子(藤圭子本名)の可能性の途方も無さを見抜き確信し、自分の専属したレコード会社を辞してまでも、妥協抜きで路を見出そうとしたという。感動的なその実態がこちらに書かれてあった。↓
http://www.ringohouse.com/starFiles/keiko_Folder/keiko.html
当時二十歳にも満たない阿部純子には、石坂が全身全霊を込めて描く"劇場"を一人演じ答えることが全てだったに違いない。阿部純子の勤勉さと女優能力の凄さをもここにあらためて理解したところである。石坂が表わそうとした「男世界に現れている女(虚像)」と少女阿部純子による「(その虚像を受けて)女優的に現実化する女」の完璧な連動がそこにあった。しかし、個の女性たる阿部純子にとって、男領域の主観により徹底して計画されたものである(に過ぎない)「藤圭子」とは、自分にぴったり重なった虚像の女と常に感じられていたことは間違いない。上のyoutubeの藤圭子(というかまさに阿部純子である)の言い方にはその意が明確に表出している。
余談: ところがその後これ↓みてがっかり(笑 まぁやっぱ虚像を追う男世界の悲しい限界というべきか。まぁ昭和歌謡の限界でもある。
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1235008408/
PS3:
こちら様、妙に家庭内事情まで詳しいのだが、
藤圭子について
まぁここメモっとく必要あり。やっぱね(笑 まぁ奥村ちよも当時あの炸裂具合でありながら、後年ほとぼり冷めてから同じこと言ってるわけだが、この人に至ってはリアルタイムで周りに豪語していたのである。(あるいは上のyoutubeの発言か?)
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洋楽好きで、ど演歌路線がイヤだったらしい。「好きで歌っているんじゃない。仕事で歌ってる」発言で、歌謡界の大御所に嫌われてたらしい。
あとここ、五木博之が絡んでるのがドヒャってな感じで興味深い砂ぁ。まぁ宇多田家ユニット以前に一回再デビューして失敗した時の話だが、まぁここの人が書いてる通りでしょうね。なんせ五木博之の場合、ここいらから先は、昭和歌謡と戦後日本の合体形で全てを内的に完結させ締めくくる為の最終過程を送るのである(参考過去記述分)。現在NHKラジオ深夜便で盛んですが、まぁ全く時代のダイナミズムからずれちゃいましたね、遥かに。締めくくろうと思ったらその対象は全部はじけて勝手にどんどん始まっちゃってるみたいな。まぁやはり歴史はそんな安直を人に許しませんな。あたりまえですけどね。まぁ本人が納得して締めくくれれば十分なんでしょうけどね。実の日本国民はそれどこじゃない。
話し戻します。
要はそういうことなので、藤圭子のぶっとび具合を五木博之が的確に処置できる訳が無い。愛の水中花って具合には行かないのである。とはいえ、ここで中途半端な過去路線焼き直しに成功してなくて結果オーライであった。五木博之グッドジョブと言うべき(笑
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1981年 芸能界復帰
藤圭似子の名前でドラマ「新海峡物語」に主演。テレビ朝日、毎週木曜夜10時、本人をイメージする役柄・役名だった。共演、芦田伸介、近藤正臣、樋口可南子、原作五木寛之 同時に主題歌シングル「蛍火」をCBSソニーから発売。
前作「海峡物語」(77年放映)で新人歌手売り出しに賭けた「艶歌の竜」こと高円寺竜三(芦田伸介)が、今度は引退した歌手・藤圭似子のカムバックにかかわってくる実録風ドラマ。(まるで梶原一樹原作のプロレス漫画のようだ) 低視聴率のため13回の予定が11回で打ち切られる。
民衆の怨歌VSアメリカナイズされた音楽ビジネス、ちゅう構図だったが、これが失敗。
1979年には毎日放送製作のドラマシリーズ「木曜座・水中花」原作・五木寛之、主演松坂慶子、主題歌も大ヒットしていたが、既に五木は時代遅れすぎた。
デビュー当時の藤圭子の歌を『怨歌』と名付けたのは五木寛之。そのため、彼女の歌の幅を狭めてしまった感があるが、さらに再デビューのこの件で、私は五木が嫌いだ。
これも笑う。
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男性歌手の持ち歌を、女の私が歌うから無問題という理屈で、先輩歌手の歌を勝手に歌っちゃっう仁義を知らない「わがまま娘」でもあったのも一因。カバー曲が元歌(先輩)より凄かったというのも妬まれる原因に
実際そのとおりで、拙者など藤圭子内で言っても持ち歌よりカバー曲のが好きである。「ララバイ東京」「東京流れ者」あたり。「怨み節」なんかもあらゆる意味においてヤバイです(笑 まぁ何聴いてもバケモノ的にうまいんだからしょうがないです。
posted by コマプ墨田 at 18:10| 日記
2011年12月22日
藤圭子「男と女」を求めて
先日遅ればせで遭遇したのだが、よっしゃこれは買いだ!っとはりきって検索したが、売って無いじゃん(笑 いわゆる廃盤ですがな。iTuneならなんとかなるのかと、実はもう使ってないのでもう一回インストールしたものの、そもそも藤圭子という枠がないわけですなぁ。まさに幻の名盤状態である。TVで歌ってあれなんだから、正規録音だとどんなんなんだ? そもそもあのVの場合2番ではしょってるわけで肝心の3番聴いてないのであるし。
前記事→ 明け方に藤圭子「男と女」
前記事→ 明け方に藤圭子「男と女」
posted by コマプ墨田 at 21:15| 日記
2011年12月18日
明け方に藤圭子「男と女」
巡回で遭遇。聴いたこと無い曲だったが度肝抜かれました。歌唱は言うに及ばずですが、曲もまたキている。こんな藤圭子があったとは今日の今日まで知らなんだです(汗
PS 追跡調査
なるほど、そういうことか。若く見えたが実は宇多田ヒカルがらみの初期に母も活動してたのか。若いってか、かなり若いぞ? しかしこの曲の歌唱はすごい。以前NHKで引退後一度出た時は普通のポップ風になってると半ば実は安心して聴いたのだが、判断があまかった。きっちり昔の分が適量呼び出されているではないか。昭和の怪獣がそのまま地下潜伏で現代の毒を吸収して変異再生→東京強襲という印象である。もしかして曲も宇多田家自前か? どういう親子だこれ(汗 でも別ので一緒にハモってるのはちと濃すぎるかも。
PS2:
「現代の毒気を吸収して」というのはちと違うことに気づいた。70年代の藤圭子がまさに昭和の要求に答える最高の女優を成し遂げつつ、”(求められた)具体の相”として舞台を去った完璧さがあるに対して、藤圭子本人的には「その女優の内側にくるみ込まれてしまっていた純粋な女性エナジーの素のところ、一度私の心の声に沿いながらお聴かせしたい」ということがあるような、そんな印象が現在自分の頭にかたまりつつある次第です。あの真っ赤なコスチュームと、なにより(我眼を疑った→)サビの入りでシュパッと天に指をさす振り付け、これらが決定的にそれを思わせる。”赤い血の領域”からの「外部世界との間にあるお前を拘束する仮衣装を脱ぎ去れ」という命令を実行する瞬間の図に見えたのである (←この身振りは藤圭子自身が考えたような気がしてならない)。「昔はこういう表現をお見せできなかった。私も若くてよく分らなかったし。」とか? まぁ勝手な推測ですが(笑
宇多田ヒカルの出現時期に、同時にこんな藤圭子があったというのがまた興味深い。宇多田もまた女性の内の声を実際の声にして外部に繋げる"巫女”的な要因があった。それは気体的な現れを持つキャラクターゆえに静かに広く世間を覆っていった。それに対して、同時期に再出現した藤圭子の"巫女"性は見るからに質量的であり、固体が液体の流動を持って空間を推移するような確実な重量感が加わっている(残存している)。この母娘の一致と差異には実に興味深いものがある。気体的な宇多田の声は難なく空間を広がった。だが重量のある声はやはり重くある場所に留まり、まもなく隠れてしまった。そんな印象である。しかし"巫女"ということを思うならば、本来そうあって当然と言うべきだろう。
歌詞冒頭、やはりこれはヤバイです(笑
↓
人の心の裏側に
深くて青い海がある
男の心 女の心
顔のない手で 揺らすのは誰
http://j-lyric.net/artist/a002092/l000029.html
作詞RaUって誰よ。Uは宇多田のUってこと?
PS3:
思うに、この歌詞部分を読んで「男と女の間には深くて暗い川がある♪」の歌詞を思い出す人はそれなりにいるはずだ。この対比がまた興味深いではないか。男は水の在処を女との間にイメージし、その域の深みをしみじみ歌うのである。それは渡れないと言いながらも渡れるはずの有限性をも含んでいる。ところが、女は全く別の無尽の水を自分の内側に意識している。そしてそこには、"誰"と問われるだけの主体がいると言うのである。そしてその水を支配する何者か、おそらくそれ自体である"海"は、男と女を結びつける操作を行いながら、果てに死において帰り着く場所としてあると言うのである。そしてまたその"海"の操作において、男と女の現世の現れは再生すると言うのだ。
PS4: 続き記事→ ついに掴んだ! RaUの正体。
PS 追跡調査
なるほど、そういうことか。若く見えたが実は宇多田ヒカルがらみの初期に母も活動してたのか。若いってか、かなり若いぞ? しかしこの曲の歌唱はすごい。以前NHKで引退後一度出た時は普通のポップ風になってると半ば実は安心して聴いたのだが、判断があまかった。きっちり昔の分が適量呼び出されているではないか。昭和の怪獣がそのまま地下潜伏で現代の毒を吸収して変異再生→東京強襲という印象である。もしかして曲も宇多田家自前か? どういう親子だこれ(汗 でも別ので一緒にハモってるのはちと濃すぎるかも。
PS2:
「現代の毒気を吸収して」というのはちと違うことに気づいた。70年代の藤圭子がまさに昭和の要求に答える最高の女優を成し遂げつつ、”(求められた)具体の相”として舞台を去った完璧さがあるに対して、藤圭子本人的には「その女優の内側にくるみ込まれてしまっていた純粋な女性エナジーの素のところ、一度私の心の声に沿いながらお聴かせしたい」ということがあるような、そんな印象が現在自分の頭にかたまりつつある次第です。あの真っ赤なコスチュームと、なにより(我眼を疑った→)サビの入りでシュパッと天に指をさす振り付け、これらが決定的にそれを思わせる。”赤い血の領域”からの「外部世界との間にあるお前を拘束する仮衣装を脱ぎ去れ」という命令を実行する瞬間の図に見えたのである (←この身振りは藤圭子自身が考えたような気がしてならない)。「昔はこういう表現をお見せできなかった。私も若くてよく分らなかったし。」とか? まぁ勝手な推測ですが(笑
宇多田ヒカルの出現時期に、同時にこんな藤圭子があったというのがまた興味深い。宇多田もまた女性の内の声を実際の声にして外部に繋げる"巫女”的な要因があった。それは気体的な現れを持つキャラクターゆえに静かに広く世間を覆っていった。それに対して、同時期に再出現した藤圭子の"巫女"性は見るからに質量的であり、固体が液体の流動を持って空間を推移するような確実な重量感が加わっている(残存している)。この母娘の一致と差異には実に興味深いものがある。気体的な宇多田の声は難なく空間を広がった。だが重量のある声はやはり重くある場所に留まり、まもなく隠れてしまった。そんな印象である。しかし"巫女"ということを思うならば、本来そうあって当然と言うべきだろう。
歌詞冒頭、やはりこれはヤバイです(笑
↓
人の心の裏側に
深くて青い海がある
男の心 女の心
顔のない手で 揺らすのは誰
http://j-lyric.net/artist/a002092/l000029.html
作詞RaUって誰よ。Uは宇多田のUってこと?
PS3:
思うに、この歌詞部分を読んで「男と女の間には深くて暗い川がある♪」の歌詞を思い出す人はそれなりにいるはずだ。この対比がまた興味深いではないか。男は水の在処を女との間にイメージし、その域の深みをしみじみ歌うのである。それは渡れないと言いながらも渡れるはずの有限性をも含んでいる。ところが、女は全く別の無尽の水を自分の内側に意識している。そしてそこには、"誰"と問われるだけの主体がいると言うのである。そしてその水を支配する何者か、おそらくそれ自体である"海"は、男と女を結びつける操作を行いながら、果てに死において帰り着く場所としてあると言うのである。そしてまたその"海"の操作において、男と女の現世の現れは再生すると言うのだ。
PS4: 続き記事→ ついに掴んだ! RaUの正体。
posted by コマプ墨田 at 08:00| 日記
2011年12月13日
大乗の国家像と古代国家
自分が主張するところ、大乗の「空」に根幹を置く飛鳥の国家像について、恐らくその意味は誰も理解出来ない(しようとしない)気がしております。これを理解するのは自分以外には難しい(笑 自分が既に提示している大乗に関わる前提論理を新たに受け入れることが誰も出来ないからです。
勿論自分は、古代仏教国家は、経典に述べられる教示等を国家方針に受け繋いだというような程度のことを言っているのではありません。「国家自体を空的在り方で運営することは可能であり、経にはそれを適切に行うように記されてある」と聖徳太子は掌握し、その通りに実践しようとしたということを言っております。この視座を理解する為には、大乗の言う「空」が、実は現実的な構造モデル(具体像)を持ち、忠実にその分析を成した結果に得られた概念だという理解が第一に必要であります(これが大乗仏教総体に一貫する特性であり基盤です)。これは当追跡調査の示す仏教遺品証拠群により確実な事実です。全てここから古代史仏教史は再検証されていく必要があり、その結果大きく歴史の不明領域の解明が進みます。

飛鳥古代国家に関して、次に重要なことは「金光明経」に書かれてある「空論理と国家支配の連動論理」、これははっきりと「空の構造モデル」を基層に誠実な論理拡張として積まれているものだということであります。聖徳太子はこの「金光明経」の深層部を正確に読んでいたに違いありません。そして「金光明経」にある論理どおりに国家形成を目指したと見るべきです。しかし一方の蘇我馬子一族は、仏教とは自らが(実体として)支配可能な国家(という機能)に併置しておけば御利益(利益)あるものという次元の理解であった為に、ついに聖徳太子の目指すところの「真の仏教国家」の意味に到達することはなかったというのが真相に違いありません。双方のこの国家像の決定的断絶が、大化の改新までの流れの中核にあるわけです。
勿論自分は、古代仏教国家は、経典に述べられる教示等を国家方針に受け繋いだというような程度のことを言っているのではありません。「国家自体を空的在り方で運営することは可能であり、経にはそれを適切に行うように記されてある」と聖徳太子は掌握し、その通りに実践しようとしたということを言っております。この視座を理解する為には、大乗の言う「空」が、実は現実的な構造モデル(具体像)を持ち、忠実にその分析を成した結果に得られた概念だという理解が第一に必要であります(これが大乗仏教総体に一貫する特性であり基盤です)。これは当追跡調査の示す仏教遺品証拠群により確実な事実です。全てここから古代史仏教史は再検証されていく必要があり、その結果大きく歴史の不明領域の解明が進みます。
飛鳥古代国家に関して、次に重要なことは「金光明経」に書かれてある「空論理と国家支配の連動論理」、これははっきりと「空の構造モデル」を基層に誠実な論理拡張として積まれているものだということであります。聖徳太子はこの「金光明経」の深層部を正確に読んでいたに違いありません。そして「金光明経」にある論理どおりに国家形成を目指したと見るべきです。しかし一方の蘇我馬子一族は、仏教とは自らが(実体として)支配可能な国家(という機能)に併置しておけば御利益(利益)あるものという次元の理解であった為に、ついに聖徳太子の目指すところの「真の仏教国家」の意味に到達することはなかったというのが真相に違いありません。双方のこの国家像の決定的断絶が、大化の改新までの流れの中核にあるわけです。
posted by コマプ墨田 at 05:30| 仏教関係調査
2011年12月11日
古代政権と空論理
以下の文言は、これから検証するに当たって自分の頭が描いてるあらすじであって、直感90パー裏付けほんのちょっとという段階であることを先に書いときます。
↓
飛鳥奈良の国家論理の基層は、大乗の論理を現実の国家像に重ね合わせるという着眼に要点が在る。国家の在り方は、大乗が示す空的在り方に一致できるものという理念がそこにある。優れた権力者はそれを具現するにあたって、本質が何かをも的確に把握していた。おそらく聖徳太子と推古天皇は「本来国家なるものに実体は無いが、我々は今それを現世の機能として(あたかも実体で在るかのように)動かさなければならない。ならばやがて築かれる政の仕組みの中枢に、大乗の言う空的在り方に近似しそれを代行する機能が位置すべきだ。」との具体的な見識を持っていたと推測する。現実の政治機能が空的実相を模して動くということは、現世に現れている政の相がひとつの完結した実体に凝結しないということである。政は縁起として合理的に連鎖しダイナミックに拡張するものとして目指されるのである。そう在るための統治機能にあたる領域を政権は現実的に運営することになる。その本質は「政を完全に空的に動かす為の手法(方便)」ということであり、根幹にあたるものが「金光明経」に具体的に書かれてある。聖徳太子他、飛鳥奈良の優れた政権はその意味を深層に至って把握していたはずである。「金光明経」が支配者に要求するところのものは「国の万人に対する絶対的な平等」であり、その遵守においてのみ護国は担保されるとされている。現実的な政権は、中枢において、主観的判断を完全に解消し、法による拡張領域全土を一貫した平等な体系として維持する機能自体となるべしと要求されているのだ。これが国家が空的実相を得るということである。この場合の「法」と「平等」は、大乗が元来使う意味での「法」および「平等」と、現在我々が使う意味でのそれが一致した語と言うべきである。
国家を実体的に完成させ得るものと前提し、中枢からの支配的構築体と踏まえる着眼が(国家がそうなった段階において)常に失敗に帰すのは、大乗的視座からして当然なのである。まさに現在日本の大きな間違いの本質はここである。
↓
飛鳥奈良の国家論理の基層は、大乗の論理を現実の国家像に重ね合わせるという着眼に要点が在る。国家の在り方は、大乗が示す空的在り方に一致できるものという理念がそこにある。優れた権力者はそれを具現するにあたって、本質が何かをも的確に把握していた。おそらく聖徳太子と推古天皇は「本来国家なるものに実体は無いが、我々は今それを現世の機能として(あたかも実体で在るかのように)動かさなければならない。ならばやがて築かれる政の仕組みの中枢に、大乗の言う空的在り方に近似しそれを代行する機能が位置すべきだ。」との具体的な見識を持っていたと推測する。現実の政治機能が空的実相を模して動くということは、現世に現れている政の相がひとつの完結した実体に凝結しないということである。政は縁起として合理的に連鎖しダイナミックに拡張するものとして目指されるのである。そう在るための統治機能にあたる領域を政権は現実的に運営することになる。その本質は「政を完全に空的に動かす為の手法(方便)」ということであり、根幹にあたるものが「金光明経」に具体的に書かれてある。聖徳太子他、飛鳥奈良の優れた政権はその意味を深層に至って把握していたはずである。「金光明経」が支配者に要求するところのものは「国の万人に対する絶対的な平等」であり、その遵守においてのみ護国は担保されるとされている。現実的な政権は、中枢において、主観的判断を完全に解消し、法による拡張領域全土を一貫した平等な体系として維持する機能自体となるべしと要求されているのだ。これが国家が空的実相を得るということである。この場合の「法」と「平等」は、大乗が元来使う意味での「法」および「平等」と、現在我々が使う意味でのそれが一致した語と言うべきである。
国家を実体的に完成させ得るものと前提し、中枢からの支配的構築体と踏まえる着眼が(国家がそうなった段階において)常に失敗に帰すのは、大乗的視座からして当然なのである。まさに現在日本の大きな間違いの本質はここである。
posted by コマプ墨田 at 01:40| 仏教関係調査
2011年11月27日
東電OL殺人事件で検察が屁理屈捏ねて裁判所に通知の件
朝方に寝床でぼけっとつけっぱなしのラジオ聴いてたら、東電OL殺人事件の再審の件で、検察側が「新事実出たといっても別に現受刑者が犯人ではないという決定的証拠ではないから再審など不要だ」と相変わらずの弁を、書面で裁判所と弁護団に通知出したとかニュースやってたのに、ネットに一切その記事あがってないな? どういうこった? ようするにメディア側も、馬鹿らしくて一々書くことも無いと思いますってことか? たぶんそうだろう。
日本の検察ってのはいよいよ脳味噌腐ってないか?
↓↓↓
「被害者女性は、事件現場室内に入る前に別所で問題の第三者と性交し、そのおり精液が体内に残り、また唾液が胸や性器周辺に残り、また相手の陰毛が女性身体に付着し、その状態で路地を移動し現場室内に到着したと十分推測可能なのであるから、現場にその第三者がいたという可能性など考慮する必要はない。よって犯人は現受刑者以外なし。再審は不要。」(コマプ要約)
まぁ検察もとりあえずこういうしかない状況というだけのことで、まさか裁判所がオッケーです、とかあるとは思ってないとは思う。それじゃいよいよもう馬鹿すぎて司法崩壊だもんな。
日本の検察ってのはいよいよ脳味噌腐ってないか?
↓↓↓
「被害者女性は、事件現場室内に入る前に別所で問題の第三者と性交し、そのおり精液が体内に残り、また唾液が胸や性器周辺に残り、また相手の陰毛が女性身体に付着し、その状態で路地を移動し現場室内に到着したと十分推測可能なのであるから、現場にその第三者がいたという可能性など考慮する必要はない。よって犯人は現受刑者以外なし。再審は不要。」(コマプ要約)
まぁ検察もとりあえずこういうしかない状況というだけのことで、まさか裁判所がオッケーです、とかあるとは思ってないとは思う。それじゃいよいよもう馬鹿すぎて司法崩壊だもんな。
posted by コマプ墨田 at 02:42| 日記
2011年11月21日
断片小説JABROID 「拍動虚空拡張奉納法儀軌断片」
有用とされ礼拝され奉納されたものを廃棄所に捨てに行き、代わりに廃棄された布を得て、適度なる容量の袋を成すべし。液状の類を注いでも漏れ出さぬように油脂樹脂等にて内を塗り固め、天日に七日の間乾かすべし。こうした所作を終えた後、袋を携え再び廃棄所に行き、不要とされ捨てられた塵の類の、三種または五種または自由な個数を得て、袋の内に収め持ち帰るべし。方形区画の内に入り、中央に袋を安置し、これを礼拝した後に、口より赤青黄緑白の五種、または自由な種の色液を注ぎ、適度な量の空気を残しながら堅く口を閉じて、油脂樹脂等で塗り固めるべし。袋が完全に密閉されるように天日で七日の間乾かすべし。所作が完了した後に袋を手に抱え瞑想を成すべし。瞑想が深みに至るならば、自らが抱えるものは虚空の心臓の独立したものであると思念されるであろう。これの自発的な鼓動に一致する拍を見出し、両手の動きをそれに重ねるべく勤めるべし。十分にそれが心臓の鼓動と知れ一致するまで所作を継続すべし。この所作が完全に安定した状態を成したならば、虚空の心臓と思念したものの内に先に投じた色彩が、虚空総体に流動し延々と拡張する像を得るに至るであろう。その後に、やがて流動する色彩が殺し合い、虚空が重く灰色に傾き沈殿していく像を得るであろう。一連の所作の終わる筋を見つけ、両腕の動きを拍が停止する時に一致させるよう勤めるべし。所作を終えた後、瞑想から出でて、袋を方形区画の中央に置き切り開くべし。そして袋を一枚の布に戻すべし。布と取り出した内の諸品の個々に対して礼拝し、それらを七日の間天日にて乾かすべし。所作の結果、これらは堂において有用なものとなったので、堂の壁面にて適善な配置を成し納め深く礼拝すべきである。
posted by コマプ墨田 at 04:31| 断片小説
2011年11月13日
断片小説JABROID 「自然厨子奉納法儀軌断片」
所持する世に得とされるもの全てを廃棄所に捨てて、代わりにその場から塵と屑を集め持ち帰るべし。それらを丁寧に水洗いし磨き、厨子に納めるべし。厨子の中に赤青黄緑白の五色、または自由な数の色を注ぎ密閉すべし。それを背中に背負い山河百里を行くべし。夜毎必ず厨子を背負いながら舞い踊るべし。眠る時は風に晒し揺らぐように段取りを成すべし。厨子が壊れることを自ら成してはならないが他力を介して壊れることは望ましい。壊れた厨子はまた新たな厨子に納め同じ所作を繰り返えし行くべし。百里を行った後、自ずから適度と思える日数を経て厨子を開帳すべし。厨子を壊し板に戻すべし。それらの板と中の諸品を七日のあいだ天日に乾かすべし。板の表と裏を逆として再び厨子を組み立て直すべし。諸品個々に深く礼拝を成してから、再び厨子の内に諸品を適善に配し納めるべし。
posted by コマプ墨田 at 03:23| 断片小説
2011年11月06日
「松浦」という地名は実は元来「マツラ」だったというあたりを、
これ昨日NHK第二でそうだと言語学者の方が言ってましたですね。まぁ要は「魏志倭人伝」にある「マツラ国」でしょう。自分的には、当然インドのマトゥラーゆかりの集団が到着してるという印象なわけであります。ここは証拠無いですが(笑
ただ、三角縁神獣鏡が確実にインド中国経路の造形マトリクスに基づいているので、卑弥呼の部族のルートと大陸側文化との密着性は深く推測すべきところではあります。もっとも、三角縁神獣鏡以外の鏡にも同じ構造基盤は標準に近い頻度で見られるようなので、特に邪馬台国だけがそうだとも言えないわけですけども。なにしろ古代鏡系列は量が膨大なので大物の検証段階で終わってしまっており、現状細かくやってないわけであります。でもまぁここまでの分で十分確実と言えるのは、邪馬台国が歴史に記録されてる相当以前から日本列島は大陸側と通々だったということですね。中国側の銅鏡形成システムは既に紀元前の漢時代には完全ピーク迎えてますから、そこから邪馬台国の時代だと余裕の期間です。
ただ、三角縁神獣鏡が確実にインド中国経路の造形マトリクスに基づいているので、卑弥呼の部族のルートと大陸側文化との密着性は深く推測すべきところではあります。もっとも、三角縁神獣鏡以外の鏡にも同じ構造基盤は標準に近い頻度で見られるようなので、特に邪馬台国だけがそうだとも言えないわけですけども。なにしろ古代鏡系列は量が膨大なので大物の検証段階で終わってしまっており、現状細かくやってないわけであります。でもまぁここまでの分で十分確実と言えるのは、邪馬台国が歴史に記録されてる相当以前から日本列島は大陸側と通々だったということですね。中国側の銅鏡形成システムは既に紀元前の漢時代には完全ピーク迎えてますから、そこから邪馬台国の時代だと余裕の期間です。
posted by コマプ墨田 at 14:41| 古代鏡関係調査
2011年10月25日
大乗の起こりの本質
大乗仏教における「空」について述べるならば、彼らがその概念を何から掴んだかを理解しない限り暗中模索である。大乗の起こりの根幹はここにこそある。すなわち、彼らは、精通していた幾何学法則に内在する「完全性」や「無限拡張性」から「ゼロの概念」を見出したと同時に、「現実的な人間の生存史」でも同じことが一致するのだ(すべきだ)と考えたのである。これが大乗の起こりの中核である。
この視座を置く時こうした言及が当然出るだろう。
「それでは大乗仏教とはフィクションなのか?」
だがこの問から否定的な把握を成してはならない。「そのこと自体を考えよ」と言うのも大乗なのである。そのことを含めた大振りの展開こそが大乗仏教の歴史というべきなのである。そもそも、大乗史上の大思想家たちは、この「フィクション性」の由来を熟知した上で歴代やっていたのである。彼らの言うところは必ずやこうのはずだ。
↓↓↓
「"それ"が正しいかどうかなど凡夫の我々には最後まで判らない。しかし"それ"が真であるゆえの在り方が、仏の慈悲として、まさにこの世に見出せるのであれば、我々はそれを信じすがることができるであろう。分別を成してはならない。」
そして確かに、人間の歴史はそのような側面を完全には失ってはいないと言える。仏の慈悲を見る者にはそれは見えるのである。
この視座を置く時こうした言及が当然出るだろう。
「それでは大乗仏教とはフィクションなのか?」
だがこの問から否定的な把握を成してはならない。「そのこと自体を考えよ」と言うのも大乗なのである。そのことを含めた大振りの展開こそが大乗仏教の歴史というべきなのである。そもそも、大乗史上の大思想家たちは、この「フィクション性」の由来を熟知した上で歴代やっていたのである。彼らの言うところは必ずやこうのはずだ。
↓↓↓
「"それ"が正しいかどうかなど凡夫の我々には最後まで判らない。しかし"それ"が真であるゆえの在り方が、仏の慈悲として、まさにこの世に見出せるのであれば、我々はそれを信じすがることができるであろう。分別を成してはならない。」
そして確かに、人間の歴史はそのような側面を完全には失ってはいないと言える。仏の慈悲を見る者にはそれは見えるのである。
posted by コマプ墨田 at 14:39| 仏教関係調査
2011年10月18日
平野レミさんの語りに圧倒される、今。
ラジオ深夜便でやってるんですが、平野レミさんが喋りまくり。で、ぴぴっと来たんですが、これがまんま音楽になったら革命である。これだ。ほとんどぶっ壊れたようであるのに、なぜかちゃんと話の合理性を保ってる。勝手にひたすら喋ってる風でありながら、実はちゃんとアナの合いの手を上手いこと要所で引き込んでいる。凄いノリである。
posted by コマプ墨田 at 01:51| ツィッターモード
2011年10月12日
「黒い県警」ザ・高知
今週中にメディアで高知県警のやった証拠偽装に関する決定的新証拠が公開される段取りだそうですが、でもまぁ偽装行為が事実なのは既にみんな判っているよ(笑

こんな↑の世界公開されてるのに「え?なにか?」ってなわけないじゃん。ここまでの馬鹿げた犯行だと「警察の組織行為だからといってさすがに助かりようはないんじゃね〜の???」とみんな思っていたわけです。まぁどんな新事実が週末明らかになるのでありましょうか?

こんな↑の世界公開されてるのに「え?なにか?」ってなわけないじゃん。ここまでの馬鹿げた犯行だと「警察の組織行為だからといってさすがに助かりようはないんじゃね〜の???」とみんな思っていたわけです。まぁどんな新事実が週末明らかになるのでありましょうか?
posted by コマプ墨田 at 00:18| 日記
2011年10月11日
断片狂歌小説 「黒い固体」
1.
眠りのために窓をさえぎる。黒い重いものが外に沈んでいる。昨日は見た眼に軽やかだった衣服が黒く堅い欠片に変わって、なるべくすばやく私をえぐりたいと意思を持ち始めている。地獄のような歌が百層にも波打って聴こえてる。みんな楽しいと言って窓の前まで来ている。目覚めたら深いところで泳ぐ魚が全て死んでしまった浅瀬にいた。波打ち際に腐敗する前の銀の背中が揺らいでいる。
2.
果実にはとても見えないけど奇妙な花が咲いていた。近づくとよく磨かれてプラスチックと同じに見えた。誰かの庭で食事をして、気に入ったことを話したりした。風のように過ぎ去った事など忘れてしまえばいいのに、全てを書き取って私に教えに来る。嫌な言葉だけを覚えたオウムたちが黒い花を咥えて飛んでいる。私は真ん中まで登った灰色の電波塔を降りる。地表で子供たちがまるで大人のように裸で戯れている。

3.
大人になる時に朝日が家にあたり私はそこを去る。振り返るとそれは黒くて重く閉じた丸い鉄球に見えた。誰も子供の私を悪いと言わなかった。でも本当は悪い娘だと思っていたと、大人になる時そんな手紙を渡されたの。地下鉄道の迷路をくぐって退屈な丘を降りて河を登る船に乗ろうと思う。こうして私はあの家を思い出しながら、たったひとりで歌っている。すると重い鎖のような言葉の錠が砂のように砕けて掌にざらざら落ちた。

眠りのために窓をさえぎる。黒い重いものが外に沈んでいる。昨日は見た眼に軽やかだった衣服が黒く堅い欠片に変わって、なるべくすばやく私をえぐりたいと意思を持ち始めている。地獄のような歌が百層にも波打って聴こえてる。みんな楽しいと言って窓の前まで来ている。目覚めたら深いところで泳ぐ魚が全て死んでしまった浅瀬にいた。波打ち際に腐敗する前の銀の背中が揺らいでいる。
2.
果実にはとても見えないけど奇妙な花が咲いていた。近づくとよく磨かれてプラスチックと同じに見えた。誰かの庭で食事をして、気に入ったことを話したりした。風のように過ぎ去った事など忘れてしまえばいいのに、全てを書き取って私に教えに来る。嫌な言葉だけを覚えたオウムたちが黒い花を咥えて飛んでいる。私は真ん中まで登った灰色の電波塔を降りる。地表で子供たちがまるで大人のように裸で戯れている。
3.
大人になる時に朝日が家にあたり私はそこを去る。振り返るとそれは黒くて重く閉じた丸い鉄球に見えた。誰も子供の私を悪いと言わなかった。でも本当は悪い娘だと思っていたと、大人になる時そんな手紙を渡されたの。地下鉄道の迷路をくぐって退屈な丘を降りて河を登る船に乗ろうと思う。こうして私はあの家を思い出しながら、たったひとりで歌っている。すると重い鎖のような言葉の錠が砂のように砕けて掌にざらざら落ちた。
posted by コマプ墨田 at 02:13| 断片小説