2010年05月20日

画狂老人卍追跡の行方

実はやりっぱなしで数年たってるこちらの領域もあるので御座います。
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画狂老人卍的世界

まぁ追跡といっても結論はもう出てしまってるので間を埋める作業なんですが。でもこのままだとその結論を書くのがいつになるか分からないので、これまでの分でも材料十分と思うし、ここいらで結論から書いておく所存です。まぁ順番に全部やる必要もないのだし。「断片追跡JABROID」デスミダ。

@北斎の絵師としての前半は、西洋絵画の主軸技法である遠近法の研究に多くを割いたもので、北斎は生涯の中期までにその論理根幹を熟知していた。

A為一期の傑作「富嶽三十六景」は西洋絵画研究から得た遠近法の理論を最大強化する空間構成たるそこまでの集大成として製作された。

Bこの完成をもって北斎は遠近法を中核技法とする西洋絵画理論の限界を意識し、遠近法解体に向かう意志のもと、画狂老人卍期に突入する。ここから為一期までの自らの仕事に反旗を掲げる作業が始まる。

C為一期に空間を律する中枢装置であった遠近法は、「富嶽百景」にては、本来の空間統治を破壊された(すなわち骨抜きにされた)断片要素として組み込まれる扱いとなる。遠近法の何たるかを既に捉えきった北斎が目指したものは「その逆」ということであった。

D「富嶽百景」を経て、北斎は以後の美術史(世界枠)に決定的な意味を持つところの「百人一首うばがゑとき」に突入する。このシリーズは「教養のない乳母が知ったふりをしてデタラメな解釈をやる」という抱腹絶倒のネタが基層にある。北斎が狙うのは公家のしたためるところの妄想的愛欲堕落文学(一部)への容赦ない罵倒とからかいであり、一方権威領域から身を退き個の高みを得た真の表現者に対するいくつかの尊敬表明(蝉丸や安部仲麻呂など)、および、なによりも庶民生活のリアルに対する尊敬を対比的に配列するというものである。

E「百人一首うばがゑとき」の絵画上の意義は「富嶽百景」での方法論を徹底拡張し、遠近法の明瞭な解体方法とその再利用による絵画理論の完成にある。遠近法は画面全体を律するに値せず、日本古来の平面空間(平行透視や平面的図形構成など)と対等に扱われハイブリットな空間構成がなされたり、遠近法が指し示す正しい空間構築から悪辣に逸脱した再構成空間が目指される。すなわち、ここに「キュビズム」の最初の一歩が成立したのである。

F言うまでもなく美術史ではゼザンヌが「キュビズムの父」ということになっているが、セザンヌは北斎が成したこの空間表現に魅了されただ一人の東西を繋ぐ後継者として出現したというべきである。セザンヌが「富嶽三十六景」にインスパイアされ「サントビクトワール山」のシリーズに取り組んだことは、田中英道先生の研究などにより既に明確となっているが、より決定的なことは、セザンヌは北斎が最晩年に確立した「遠近法を断片化し再構成させた空間」にこそ強くひきつけられ、静物画によってこの理論を実験したということである。この成果が西洋側でキュビズムの萌芽となり以後爆走展開するのである。当時すでに「百人一首うばがゑとき」をコピーした版画集が西洋で出版されていた事実があり、これがこの迅速な情報伝達を可能とした可能性が疑われる。

G画狂老人卍たる70歳を超えた北斎が「富嶽百景」のコメントで、「もう何年か時間があれば、ひとつの点を打ち一本の線を引いて絵を完成できる、その目処があるからなんとか生かしてもらいたい」という趣旨の願いを記しているのであるが、これを日本土壌的に漠とした観念領域で軽く納得してはならない。北斎は現実的に「点と線で絵画が構成できる」と理解していたのであり、この先駆論理をもキュビズム以降の西洋は現実にやり遂げたのである。



posted by コマプ墨田 at 00:14| 画狂老人卍関連