2010年05月23日

岩波文庫の中村元先生訳の「般若心経 金剛般若経」の「般若心経」の解説を読み返して重要なことに気付いたのであります。

本体の「般若経」では、「悟りの主体も悟りの内容を知るものではなく、悟りもまた実体として存在しない(補足1)」旨を動的なテキストのあり方の上で示すところに一段高次元の論旨があり、「般若心経」ではこの趣旨が略されていると考えていたのですが、実は複雑な状況でそうとも言えない、そこをこの短いテキスト内でどう押さえるか、深い歴史上の考察があったということが分かりました。

「無無明。 亦無無明盡。」
中盤のこの箇所に若干複雑ないきさつが存在するわけです。

まずは、こちらに漢文テキストがありますので箇所の把握はこちらで可能です。↓
摩訶般若波羅蜜多心経

漢訳におけるこの語句のみに対する中村先生のサンスクリット原文側からの現代文訳は以下となります。
  ↓
「迷いもなく、迷いがなくなることもない。」

ところが、実際のサンスクリット原文からの翻訳は以下の状態になっております。
  ↓
「(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。」

これはサンスクリット原文には存在し、他の漢訳やチベット訳には存在しない部分を括弧内挿入という選択で記したものであります。しかし、この括弧内の語句こそが「般若経」の究極論旨であることは「八千頌般若経」の内容から明らかである訳です。設定した悟りの主体(如来)の存在的位置を無限遠に置きつつ、その構図により外的に(如来側から)現世側の実体性を無効化させる論理展開を成し、その基層にて起こる時空的動性(対話)を駆使して、テキストが設定してしまう中核存在(悟り)の実体化をさらなる究極にて阻止するという特殊な手法が用いられているのあります。この方法論の着眼自体が大乗仏教の特性と言えるのかも知れません。

これは、「@:悟りの主体とそれに基づく空理論による非実体性の説明(如来による教示)」と、その論旨が必然的に成してしまうところの「A:悟りや空という超越的概念の実体設定をテキスト内の動性において最終的に相殺させる」という方法です。「八千頌般若経」を読めば、作者らは明らかに意図して、積極的にこの論法を用いて巧妙に論理の合理化を図ろうとしていることが分るのであります。@の展開の果てにAが出現しなければならないのでこれらは同一平面状には並びません。Aは一段高次に設定されるのであります。(補足2)

よって、短い「般若心経」でこの二段構造をどう示すかは非常に難しいのであり、漢訳のように「さとりもなければ」の語句がないならば、Aの領域は省略し、そこは本体の「般若経」に託されるという選択ということであろうし、サンスクリット原文で明確に書かれてある内容であれば、短いために元来の二段構造の意味が十分発揮されないであろうが最重要論旨はきちんと入れなければならないという選択、ということになりましょう。おそらくは多くの「般若心経」翻訳者の苦悩がここにあったものに違いないと推測する次第です。はたして最初の根源テキストがどうであったかは皆目見当がつきませんが、「般若経」のエッセンスということに寄り考察すれば、各のごとき判断に大きな逸脱は無いとみる次第です。

中村先生は、このサンスクリット原文にのみ存在する語句は、十二因縁の一貫性から考えても、後から挿入された可能性を強く考えておられたようであります。
 ↓
「十二因縁の系列では無明(Avidya)から始まるのであるから、明を入れると十三になってしまう。チベット訳にも、漢訳にも、na vidya および na vidya-ksayo(さとりがなくなることもない)の二句はない。法隆寺梵本その他わが国の各梵本にこの句があるのは写し誤りであろう。今は多くの写本に従って仮に挿入しておく。」(35P 注:引用文中のサンスクリット語特有の文字に付される点や線は再現できておりません。)


とまず基本着眼を書かれておられます。しかし、これ以上に重要なご指摘がこれに続く箇所であることは言を待たないわけです。
 ↓
「しかしこのような余分なものが付加されてアジア諸国で広く伝えられていたのは、単なる偶然の誤りではない。実は空観思惟そのものの論理的構造に由来する。空観の極地においては、迷いが無いとともに、さとりも無いのである。だからこのような余分なものが付加されたということは、深い意義をもっている。」(35p)


また、一方でちくま学芸文庫の平井俊榮先生訳の「般若経」内の「般若心経」現代文訳では、平井先生は以下の箇所において同じ趣旨からの訳出を試みてるかに読んだ次第であります。

「無智亦無得。」

この箇所で平井先生は「智」の語に対して同じ漢字の上にルビを付す方法にて「さとること」という訳を行い、「無得」に対しては括弧を用いて「(さとりを)得るということもない」と語を補って訳しておられるのですが、やはりこの選択も元来の「般若経」の本質を「般若心経」が取り込んでいないということは無いはずだという観点からこの箇所にその趣旨を読んだのではないかと推測する次第であります。

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(補足1): 現世側での不完全な認識能力ではそのような説明になる他無いという論理が準備されている。

(補足2): 「秘密集会タントラ」はこの着眼の忠実な延長上にあり、テキストの動性を高速化させ、併置した場合に相容れない要因同士を故意に列挙しながら、構造総体が現世側では矛盾的にしか表出されないところの究極状況を生み出す意図を基層にして書かれている。この根幹論理は「般若経」からほとんど離脱してはいない。

posted by コマプ墨田 at 16:06| 仏教関係調査