2010年05月30日

「七百頌般若経」の重要性

岩本裕先生の訳出著作の「佛教聖典選 第四巻 大乗経典(二) 」をかつて古書で買っているにもかかわらず、短い「般若心経」と「金光明経」を若干抜粋してしか読んでおりませんでした。思い立ってついに廃屋の奥から救出しまして、「七百頌般若経」の項を読み終えたところであります。別名「文殊説般若経」というそうであり、その名のごとく文殊菩薩が世尊(如来)とシャーリプトラ長老の三者問答の内に空論理の骨子を解説していく内容であります。ただ、岩本先生のこの著書での訳出は前半部の部分訳でありますが、とはいえここで述べられる趣旨は「八千頌般若経」で打ち出される初期の「般若経」の基本論理をきっちりと解説するかの内容であるために、初期の「般若経」に起こるところの空論理に関わり、以後の歴代大乗の解釈的進展が受け継ぎ貫通させる主軸理念がどのようなものかを明瞭に示すテキストとなっていると読んだ次第です。

「七百頌般若経」の文殊菩薩は実に雄弁であります。空論理の解説において無駄がなく、三者対話の流れにおいて敏感に位置を変えながら動的な方法論を駆使するのであります。そこに現れる語り口の完璧さは、初期経典である「八千頌般若経」に見られる、脈絡が一貫しないことを無理になんとかしようともしない粗野具合、それがいざなう無骨なる表現強度とは異なって、そうした過去のプラクティスが既に確立安定させた基盤に則った勤勉なる理知性を感じるのであります。

「秘密集会タントラ」の骨格が「般若経」空論理の正確な踏襲のうえ、密教的解釈拡大を含みながら、独特の教示世界を生み出したという当追跡におけるこれまでの観点でありますが、「七百頌般若経」での説示は、原初の「般若経」と「秘密集会タントラ」での知的飛躍の間を繋ぐ足跡とも直感して読んだ次第であります。自分としてはその決定的な箇所として、この文殊菩薩の説示を見るものであります。

この言葉を聴いて、世尊がマンジュ=シュリー法王子にこのように言った、「マンジュ=シュリーよ、「さとり」とはだれの呼び名なのかね。」

マンジュ=シュリーが言った、「世尊よ、「さとり」とは、実に五逆罪の呼び名であります。それは何故かと言いますと、例えば「さとり」を達成すべき本性は、本来存在しないものであるので、五逆罪と同じであります。したがって、「さとり」とは、五逆罪を犯すべき本性があることになります。五逆罪を現に悟るのが「さとり」であります。そして、「さとり」を一切の存在の中で明らかに証明することはできません。それは何故かと言いますと、一切の存在は結局のところ見えないものであります。それらをだれも悟ることはできませんし、見ることも、知ることも、ないしは知覚することもできないものです。「さとり」とは、実にそのようなものであります。しかし、世尊よ、これらのものを慢心した者たちは悟ったり、ないしは明らかにします。」(53P)



通常の理解方法では、これでは破綻した論理になってしまうのですが、大乗はこうした破綻性を動的に用いて、総合論旨において一段上位の視座を暗示させようとする訳です。そのような方法でしかあり方を示しえないものと最初から前提して語っているわけです。ゆえに、ここでの文殊菩薩の驚愕の説示の意味も、そのことに則り読解されるべきものです。すなわち、空として本来的に存在していない「さとり」に対し、現世側で具現しえる行為である「五逆罪」が対応する(しえる)という可逆、「さとりの位置」において(のみ)これは可能であり、その可逆性において「さとり」の本質に則って双方の実体性は無いのであり、無いからこそ双方は「呼び名」において同値であり得るということの「論理(化)」がここに明確なのであります。もちろんこれは基本的な空論理そのものであります。

ここで文殊菩薩が「さとり」を説くにために現世側に位置する「反対の名前」(←現世的に言えば"反対の存在")を当てることは「対の図式」としてなされてると読める訳です。実にこの先行テキストにある選択に着眼して「秘密集会タントラ」はテキストの骨格に最大拡大して、この図式を当てたのではないかというのが自分の読後着眼なのであります。


posted by コマプ墨田 at 05:22| 仏教関係調査