2015年12月05日

大乗の意義の根幹について

「法華経」の前半をまた読みつつ、大乗の意義の究極について漠然と考えているのである。このテーマにおいて以前から徐々に理解の輪郭は見えていたのである。仏像造形を設計する基盤である幾何学合理(マトリクス)から、理念領域で壮大な拡張を成した大乗の着眼において、初期大乗の師匠らは、それを客観的に保証する外的な何ものも実はないことを熟知しながら、にもかかわらずそれを世界認識の根幹として強く主張していること、この意義についてである。

このことに対する自分の了解は、だからこそそれは信仰になる(なった)のだということである。つまり「世界総体がこのマトリクス(それがあることの印)のごとき絶対的な一貫合理で成立しており、われわれ衆生もその一環に既に合流しているのだ」という確信(信仰)が失われたその一瞬に大乗は消失するのである。

posted by コマプ墨田 at 04:29| 仏教関係調査

2015年02月15日

「観世音菩薩普門品」の着眼(植木雅俊訳本にて)

「不滅の心を持つもの(無尽意)」という大菩薩が「自在に観るもの(観世音)」への供養にて、自ら身に着けていた「幾百・千[金]もの値打ちのある真珠の首飾り」を観世音に贈るものの、観世音は初めそれを受け取らず、次にそれが無尽意菩薩が代表するところの衆生総体への哀れみを根拠としたうえで受け取る件は要所である。

「不滅の心を持つもの」ということは、まず「心(意)を永久に滅することが出来ないもの」ということに他ならないから、ここに「成道の極についに至れぬ本質をもつもの」という意味が重厚に込められていると考えるべきである(不滅たるによって)。しかしそうでありながら大菩薩という設定であるのだから、すなわち無尽意菩薩とは衆生の本質を受け背負いながらも、成道の極側へ限界的に近づきつつある菩薩という設定なのである。

重要なのは以下の件である。

「世尊よ、私たちは、"自在に観るもの"(観世音)という偉大なる人である菩薩に、法のための施物、法のための贈り物を贈りましょう。」


という無尽意菩薩の言に対し、世尊は以下の様に答える。

「今、その[贈り物]にとって、時[にかなっているの]だと、あなたが思うところのもの、[それを贈るがよい]」


それを了承した後、無尽意菩薩は、身につけていた「幾百・千(金)もの値打ちのある真珠の首飾り」を観世音に贈るのだが、観世音は受け取りを拒む。(「あなたが思うところのも」という世尊の意に則り、無尽意が理にかなっていると判断した施物は、観世音にとってはそうではなかったということ。)

ここで重要な確認である。「法のための施物、法のための贈り物」という箇所に注釈があり、これによるとこれら原語は、「dharma-pradhrtam dharma'acchadam」(注:付加記号脱落/要原著確認) であり、訳側の「のための」という語は植木先生の意訳である。この場合、接頭部のdharmaに、「存在を規定する本体」の意味を当てることが可能であれば、その方が興味深い。つまり、ついに心(意)を滅することが出来ない衆生の代表である無尽意菩薩は、現世価値高位の存在物を"法の施物"と踏まえたのであるから、dharmaは現世側から見た(限定される)「存在(物)の本体」であるにそぐう。ところが、世界総体を完全に見渡す(その視座の存在者的側面たる)観世音にとっては、そのような個物に何の意味も価値もない訳である(平等)。観世音の受け取り拒否は、この双方の断絶の重要性を表明するものである。

ところが、この根本断絶を明示した上で、しかもそれを乗り越えてしまう論理、それが大乗なのである。

この品の文脈からすると、無尽意菩薩は、観世音が施物を受け取らない理由がかなりのところで察しが着いていると思うところだが、そこで尚「衆生への憐憫(慈悲)」でそれを受け取って欲しいと言うのである。つまり「このような心(意)の作用をついに脱することが出来ないのが我々衆生である、それを哀れむ"心"を起こして頂けないだろうか」という明確な表明がここになければこの展開はあり得ない。そして観世音はその立場(理由)に立っての後、あらためて施物を受け取るのである。ここに大乗における「慈悲」の意義は際立っている。「心を脱することが永久にできない者たち」と「完全な解脱領域(者)」との根本断絶を(なんとか)無きものとし、心の側(人間性)からの空的な世界総体との連続を合理化する論理を成り立たせるためには(空論理を絶対基盤とするにもかかわらず人間性-心の作用-を温存するためには)、そこに「(解脱領域側からの)慈悲」(確かに諸君たちには無理がある、まず諸君たちの在り方に合わせ手立てを尽くそう)ということが基層にあるのでなければならないということである。

この無尽意菩薩の施物の件は、提婆達多品にあるところの、サーガラ竜王の娘がやはりブッダに現世の価値の総体に値する宝珠を贈る件に対応する。仏陀は宝珠を受け取るのだが、その根拠はやはり「憐憫の思い」なのである(参考)。論旨を完全に同じくする別説話であることは言を待たない。観世音は無尽意菩薩から受け取った施物を仏陀(釈迦と多宝仏)に委託するのである。現世の価値の総体(現世の意義)は、衆生側で具現温存されながらその本体(dharma)は仏陀の域に委ね置かれているのである。

posted by コマプ墨田 at 01:31| 仏教関係調査

2015年02月08日

植木雅俊訳「法華経」の「受記品」から「如来神力品」までの一連を読み終える。

「法華経」の論理が細部にわたり実に合理的なことを改めて理解する。端的に言ってそれは(大乗にとって)先行する「マトリクス(世界モデル)」が絶対的に表わすところの無限時空完結世界を、ストゥーパと如来の超越的"存在"性を軸とし「我々の世界の総体がマトリクスの完結性に対応している場合の具体」へと変容させ、現世から超越し(かつ方便により)現世側に現れ来る「像」として表出させ(見せ)、そこからして、あまりに有限で不完全であるこの現世の生存に関し、その上位領域(無限時空の総体)に完全対応する(構造の一環として無限時空的に連続する)ものたることの意義を宣言しつつ、その確信(信)においてこの有限な現世生存を規定せよと述べる論旨なのである。

posted by コマプ墨田 at 01:58| 仏教関係調査

2015年01月17日

「法華経」を植木雅俊訳で読んでいる途中

前回は岩波文庫版で第一章から通読したが、今回は「受記品」「見宝塔品」等、興味深い箇所から詳細確認を成しつつ読んでいる。膨大である植木訳本注釈は、そのスタンスに特に岩本裕訳への厳しい検証姿勢が随所うかがえる。しかし読者としては双方の照らし合わせは理解に有効である模様だ。

「成道の予言の意義」と「塔とブッダが中核となる時空構成の意義」は、「法華経」以後も一貫する大乗の世界図式の揺るがぬ基盤としてあることは確実である。それは"ゼロ位置であるところの成道の場とそれに統治され構造化されるところの無限時空"の物語形式の再編(テキスト上の拡張)である。本体は、当追跡調査が存在とその論理を明らかとしたところの「大乗基盤マトリクス(世界構造図像)」である。「法華経」はこれに依拠した最初の言語上のイマジネーションである。それは最初にしてあまりに強靭である。また、着眼においてあまりに的を射ており、細部における極めて行き届いた手法(手口)に裏打ちされている。「金剛頂経」以後、密教の成道図式は「法華経」が確立した時空構造を軸に展開している。

最も本質的なことを言えば、「法華経」の着眼は、先行する世界構造マトリクス(図像)により提起されるところの無限時空論理を基層としつつ、現実のこの人間世界(人類史)を規定し得る合理を求めることにおいて到達したひとつの発想ということである。現世に限定規定されているこの"個別主体"は、実は主体の無限連鎖の一点にあるということ、それはそのまま"世界構造対応の総合主体"に帰属する一点であるという論旨の徹底なのである。その論旨ゆえに、"無限の未来の唯一なるその位置"においていずれ誰もが成道入滅する(当然そうなるのだ)ということを述べているのである。

8con-blue-up.jpg
8方向連結マトリクス

posted by コマプ墨田 at 10:15| 仏教関係調査

2014年12月20日

大乗 十地と十牛図

平川彰先生の詳細な大乗十地の解説を読んでいて、大乗十地の内で第七地までと残る第八地以降の大枠二領域構成に、十牛図の構成が一致することを理解する。第八地の設定と十牛図第八図の空白の示す意味(あえて八段階目に両者があることの意義)は完全に同じである。

平川彰著作集第6巻 「初期大乗と法華思想」
第七章 大乗独自の十地 

posted by コマプ墨田 at 07:13| 仏教関係調査

2014年11月23日

平川彰著作集第6巻「初期大乗と法華思想」読破中

だいぶ進んでいる。やはりテキスト枠の調査だけでは、可能な全域は既に諸先生の偉業において押さえられているのであり、この追跡図式の範囲では最早大きな進展は今後起こりえないだろうという感想である。

「妙法蓮華」とはメタファーであると同時に、世界総体の実相を担う具体的な構造(マトリクス)であり、無限とゼロの一環時空を表出する世界モデルである。大乗はこれに絶対依拠してテキストを展開するのである。平川先生は、テキスト記述上の合理から「妙法蓮華」がすなわち一乗(仏乗)に他ならない旨断定されつつ、同時になぜその大乗根幹が「蓮華」に例えられるのか不可解をも述べられるのである。

そのことの解明には、大きな発想の切り替えがいる。「蓮華」はテキスト枠では例えに見えながら(見せながら)、実は隠れた基層においてそれこそが本体中核であり、大乗全テキストはそれに則り展開しているという事実、この了解が要求されているのである。「妙法蓮華」「正法蓮華」とは「ダルマの完全性を示す蓮華」のことであり、即ちそれは「世界総体の完全性を担うマトリクス自体」であり、それ故当然にそれは仏(菩薩)乗なのである。

平川先生は、大乗最古層の「般若経」テキストにさらに先行する現存しない基層テキストを意識されているように思える。しかしそれは必ずしも線的に過去連続するものとは限らないであろう。「般若経」に初めて出現する空思想の依拠基盤は「世界総体マトリクスへの思想的探求」である。それ自体をテキスト化せずに、外的なテキスト領域を築き、メタフォリカルな手立てを駆使し開拓して、大きく拡張させていったのが大乗仏教であろう。

posted by コマプ墨田 at 08:38| 仏教関係調査

2014年10月12日

浄土思想成立史を整理していて (図書館作戦実践中

阿弥陀とは無限の意味であることを今日まであまり意識していなかったことに気づく。当追跡調査が提示するところの大乗マトリクス、その無限構造自体が阿弥陀である。無量寿(アミタユース)と記す時、それは構造から時間的無限を読むものであり、無量光(アミターバ)と記す時、作図された図像の視覚効果がまさに光の無限拡散に見えることに因りつつ、こちらは空間的無限拡張を読んでいるのである。

8con-blue-up.jpg

posted by コマプ墨田 at 06:39| 仏教関係調査

2014年09月27日

津田真一先生の「反密教学」(改定版)

こちらに初版と別途に新たな稿が加わっていることは知っていたのだが、いずれなんとか読めることを願うにとどまっていた。が、我が万能の図書館にて十分借りれることがわかり、他の数冊と共に本日今ここに現物が到着中である。様々な社会機構が我ら貧乏人を見捨てつつある中、図書館だけは逆である。なにせネットで予約して後はとりに行くだけ。予約したら速攻で近隣中の書庫から名指しのブツを集めてくれるのである。予約数日後にはメールでお知らせである。万能である。

まだその津田先生の稿を読んでいないのだが、そのテーマが「法華経」であることにいささか驚く。本日までそれも知らなかったのである。この驚きは「反密教学」の機軸が後期密教の具体に関わるところ、それと「法華経」とのギャップにあるのではない。まったくその逆である。「法華経」が密教通史の根底であることが、本追跡調査の一定のまとめであるのだが、やはりテキスト領域での最新の見解は一致して既にそこに向かっていたのだと、感動に近いそれを得たわけである。津田先生は「浄土思想」にも深く言及されているが、この二つの領域は、領域というほどに分断されてもいない。本質はほとんど同じようなものである。一つの大きな、そしてある意味単純明快な基盤論理、その拡張(バリエイション)が様々あるだけである。

偶然、借りてきた図書館の棚にあった「講座大乗仏教」の「法華思想」の平川彰先生の稿にざっと目を通してきたのである。どうやら平川先生は「般若経」と「法華経」のあいだに一定の分断線を付し、「法華経」を(「空」に相対するところの)「実」に基盤を置くものと判断されているようだ。しかしここが大乗の現実に関わる要所である。そこには一筋縄ではいかない途方も無い「手口」がある。「阿弥陀経」も同じであるし、それは「後期密教」までの「大乗の伝統(基盤)」である。そしてその本体は結局「般若経」にある。「法華経」も「浄土思想」も「般若経」にて最初に見出された着眼に則りつつ(補足1)、いくらかの個別性を拡張したバリエィションと言うべきなのである。さしずめ、さまざまな仏像がありながら、通常それは一般に「仏像」であることに似ている。

ーーーーーーーーーーーー
補足1:
「般若経」も、当追跡調査が説明するところの「マトリクス(世界構造を示す図像)」が導く世界認識に関わる、最初の展開としてある。

ーーーーーーーーーーーー
読後追記:
考察対象の困難さに加えて、文体が「反密教学」以上に複雑で、個々のセンテンスが長いのもあり、理解はなかなか難しい。詳細を正しく把握するには、サンスクリット語の特性を把握し、かつ専門的な領域に深く到達できる能力が本来は必要であり、その不足は想像力で補うしかない(←自分のこと)。しかし結論は、比較的分かりやすい。それはやはり、「法華経」も「へーヴァジュラタントラ」も大きく大乗総体の論旨にのっとり、「浄土思想」にて誰もが認知するところの「世界総体たる"神"と個別の自己との在り方」に集合するとの見解で結ばれる。

これは当追跡調査が「大乗を外部から見渡す方法」により得た大乗のプロフィールそのものに連動するところの、テキスト領域(内部)での追求の正当な結論と言える。大乗テキスト領域総体において、当追跡調査が明示すところの、もう一層深いところに隠れた本体たる「世界総体を示すマトリクス」、これに依拠する世界認識がその全体に一貫性を与えているのである。津田先生が述べるところの「世界総体たる神と自己」との関係は、個別の人間存在が世界総体たる神と一致することを示す(であろうところの)図式そのもの、それ自体が大乗の基盤なのだから、テキスト総体の追求がそのような結論に至るのは、(大乗総体が常に論理的であった限りにおいて)当然であろう。

テキスト前半で津田先生が指摘するところの、平川彰先生見解→「法自性印の語は、そこでは明らかに妙法蓮華を指している(13p)」は、実に大乗テキスト史内部で事の本質を見抜いた強靭な言及と言える(追記箇所補足1)。「法華経」においての「妙法蓮華」とは世界総体を示す(現わす)マトリクス自体を意味するのであり、意味するところのそれがメタファーであると同時に、その向こう側に"実在"的にあるところの、そのメタファーの本体(真の世界総体)、それ自体を指し示しているのである。後期密教ではそれは「金剛女陰」の名に書き換えられる。現実的には以下の図像が「妙法蓮華」であり「金剛女陰」であり「ガルバ」である。ただしこれは当然ながら(無限連鎖を完了していないのであるから)不完全なものであり、その完全版は想像することしか出来ない。

matrix4s8r0601b.jpg

「法華経」も「阿弥陀経」も共通して存在する論旨の特性は、フラクタル図形である本来の図像(マトリクス)の性質を世界構造に転じた時、必然的にもたらされるものである。今ここで概略だけを、しかし決定的な本質を記述すれば、それは「ゼロ位置に統括される無限連鎖時空」を言語域で扱う時に、それらにおいて必然的に「特有の拡張」がおこるのであり、またそれなくして対象の本質には接近できないということである。「法華経」も「阿弥陀経」も、仏の悟りの中核が無限の過去であり、かつその位置(時空総体におけるゼロ位置)が(各々の/我々の)現在と対応し一貫性を維持する。この規定を担った合理的論旨を目指す大乗は、それを超常的説話の形態をとって成すのであり、その選択が大乗なのである。

----------------------
追記箇所 補足1:
これに若干の違和を現わすところの津田先生論旨については、現状的確に把握できていない。だがざっとのところ思うのは、大乗が依拠するところの「世界総体マトリクス」が現実的な図像としての「マトリクス」を介して(のみ)現わされること、しかもその図像はさらに「蓮華」や「女陰」といった具体的象徴に逆らいがたい合着を成していることに応じ、常に大乗が「マトリクス」自体を深部に埋蔵している(隠している)ことにおいて可能となる"絶妙なスタンス"を採っていることに関係すると見た。

posted by コマプ墨田 at 06:29| 仏教関係調査

2014年09月21日

覚書 大乗の本質に関わって

仏像によって示される諸仏、経に記され描かれる事柄、極楽浄土のような仏国の諸相、単に唱えられる真言や経、諸々の儀礼など...。これらに沿って信じられる真実側の領域(絶対的な秘密としての領域)。

真実を担うものを確信し、(担われた本体であるところの)真実に向かう時、その人々にとり、その担うものは真実を自性とするものとして現われており、真実を自性とするものとしてこの現世側の全てを規定し主導する。そのことによって、それは真実が現われたものとしてまさに現前しているのである。

現われているそのものの本体が真実であるものが真実を自性とするものである。そのように経や真言を唱えることにおいて、唱えられるそれらの具体は真実を担い示す。仏像もまたそのように現われる。

実際に真実が"存在"しないことを前提とする現世総体を思い描くことは元々が難しい。それは可能としてもむしろ特殊な世界認識である(補足1)。真実が"存在"することが現世において必然としてまず現われている。故にそれに相応する真実の確信の手立てが示され(得)る。

--------------
補足1:
真実が存在しないと記す論理こそが大乗である。それが存在しないと記すために、まず存在を確信するための手立てを準備すると言ってもよい。この見地は「般若経」に端緒があり、仏教の最終過程にある「秘密集会タントラ」「へーヴァジュラタントラ」でもトレースされる。"汝自身が汝の父となる"ほかない立場の"意義"はここに関わり見出される。

posted by コマプ墨田 at 16:56| 仏教関係調査

2014年08月30日

「阿弥陀経」の要所

極楽(仏国土)の具体相の説明が釈迦よりなされる。ターラ樹の並木や鈴の網、周囲が財宝で出来た池やそれ自体が宝石である樹木、天上の楽器で奏でられる音楽やふりそそぐマンダーラヴァの花など、記述は具現的であり、それらはこの世の富の頂点を思い描くものである。

その記述の一環に「かの仏国土には、白鳥や帝釈鴫や孔雀がいる」との箇所がある。その鳥達は、仏国土の人々に、覚りに至るための要件を解き明かすさえずりをするという。この極楽にある鳥の説明の箇所にだけ、他の要素の説明にはない記述が含まれていることに注意を向ける必要がある。

シャーリプトラよ。そなたは、どう思うか かれら生ける者どもは、畜生の領域にいるのだらろうか。否、このように見なしてはならないのだ。それは何故だろうか。シャーリプトラよ。かの仏国土には、地獄の名もなく、畜生という名もなく、ヤマ(死神)の世界という名もないからである。しかし、彼ら鳥どもの群は、かの無量寿如来によって仮作されたものであって、法(を説き明かす)声を発するのだ。シャーリプトラよ。かの仏国土は、このような、仏国土特有のみごとな光景で飾られているのだ。 (補足1)


「かの無量寿如来によって仮作されたものであって」は当然、示される極楽の様相の全てに対するものであるが、他は省略されて、この鳥の説明箇所のみに代表され記されていることを了解しなければ成らない。ここに経総体に利かした仕掛け、巧妙なレトリックの一端がさりげなく仕込まれている。すなわち経は、(ちゃんと)ここで以下の定義を成しているのである。
  ↓
「今このように示される極楽浄土の相は実体ではない。諸君はこれを実体として把握しては成らない。それは諸君の理解にむけて(やむなく)無量寿如来が仮作したところのものを、この言及(釈迦)において説明するところのものである。(なぜなら諸君はそのようにしか、ついに"そのこと"を理解出来ないだろうからである。)」

経総体に利くところのこの"仕掛け"の前半部分は、以下に引用する経の結末箇所の単純明快な"仕掛けの解決"に刺さるものである。

シャーリプトラよ。わたしが今、このように、かれら仏・世尊たちの不可思議な功徳をほめ讃えているように、そのように、シャーリプトラよ、かれら仏・世尊たちもまた、わたしの不可思議な功得をほめ讃えて『世尊・しゃか族の大王は、いともなし難いことをなしとげた。現実の世界において、この上もない正しい悟りを得て、時代の濁り、生けるものの濁り、偏見の濁り、命の濁り、煩悩の濁りの中にいながら、一切の世間の人々が信じがたい法を説かれた。』と言うのだ。


すなわち、経の締めくくりは"覚りの本体側からの見解"を予測する形式を用いて、身も蓋もなくこう言い切ってる(だけ)なのである。
  ↓
「仏の功徳の本質はこの現実の世界(命・煩悩の濁り)にあって説明も理解もできるものではない。だがとりあえず諸君の濁りを本質とする理解力に合わせて、例えて述べた釈迦の言及は見事と言うべきところだ。」

さらに追撃のごとく、"仕掛け"の頂部は、釈迦自身の見解として最後に中心部分につき刺さる。

シャーリプトラよ。わたしが現実の世界において、この上ない正しい覚りを覚り得て、生ける者の濁り、偏見の濁り、煩悩の濁り、命の濁り、時代の濁りの中にいながら、一切の世間の人が信じ難い法を説くということは、わたしにとってもまた、もっともなし難いところであるのだ。


つまり、この経の言うところはこうなのである。
  ↓
「現世の濁りにあって仏の領域を知るなどは、釈迦にしてのみやっと出きたのであり、諸君らに分かる術など全くないのである。だが、慈悲において釈迦は途方もない努力で、諸君らに例えて述べるところがこの極楽浄土の相ということである。」

-------------------------
補足1:
「かの仏国土には、地獄の名もなく、畜生という名もなく、ヤマ(死神)の世界という名もないからである」との定義は、単にこの三種領域がないという意味ではなく、生存に関わり衆生が分類している領域の全てがないという定義である。この三種だけがないなどは成り立たないので総合的解説までは不要との前提である。こうした手法(レトリック)が、この経の"仕掛け"の特性である。まるで罠のように、さりげなくある箇所に無駄なく主要材料のみを仕込む。自分としてはあえて最大の敬意を込めて「手口」と言いたいところである。

これに関しては以下のさらなる論旨に乗るものであることは明白と見る。それが一貫する大乗の基盤論旨だからである。
 ↓
「極楽浄土とはそのような"領域"である。だが、もし諸君が所詮現世の個別の楽に過ぎないものの思い描ける究極の程を思い描き、その延長にこの"領域"をあてて考える場合(考えたいならば)、そこに合理を見い出す手立てはないのかと言えば、必ずしもそうではなかろう。到達するこの最終の"領域"にて解消されるあらゆるものは、現世の苦も楽も、全てが総体中核に連続する過程一環にあり、その究極における解消こそを、現世苦楽の高次にある楽(極楽)と捉えることに妥当性はあるとも言えるからだ。」

posted by コマプ墨田 at 08:22| 仏教関係調査

2014年07月13日

津田真一「反密教学」を確認していて

津田先生のキーワードで「内の法界/外の法界」というものがあり、それは一体の同心円構造で図示される。勿論これは、当追跡調査が提示解説するところの円構造(マトリクス=曼荼羅)が、大乗テキスト史上でその論理基盤たる位置を成し(実は成すもので)、その反映拡張たる大乗テキストの"言語化された内容"の本質を再度図示で求めたゆえに、結果的に類似した円構造として成立したということが真相である。

これは、本来の基盤である(現実的な図像たる)マトリクスの存在を認識してはおられないはずの津田先生であるのに、テキスト側から(それのみの条件で)完璧に(隠れた)本体の意義を読み取るその力量により、やはり原型と近似する同心円図像が(津田先生の判断を経て)現されたということである。

今ふとその図を見ていると、この「内の法界/外の法界」を示す同心円は、全くもってボロブドゥールと同じだと改めて思ったのである。釈迦や善哉童子がたどる行の経路を登っていくと、一周が釈迦坐像で形成された円の結界に至る。ここを抜けた内部が、津田先生が言うところの内の法界であり、そこから先は中心に向かい籠状のストゥーパで形成される同心円が続く。籠の中には釈迦坐像が安置されている。これは以前も書いたが、釈迦がついに(内の法界に合入し)涅槃に一体化する過程を、涅槃を示すところの中心ストゥーパに向かい変移する過程として設計したものである。籠状ストゥーパは、釈迦が現世の姿を滅して涅槃へ完全合一する、その僅か手前のオーバーラップ段階を表現しているのである。なんという高度極まりない発想であろうか。

posted by コマプ墨田 at 08:14| 仏教関係調査

2014年07月05日

釈迦の論理

釈迦本来の思想に深くあたってないにもかかわらず、結論先にありで言うのはまずいのであるが、自分内でかなり強固な筋となってるのは、結局根幹は八正道にあるということである。

四諦の内、苦集滅は釈迦が完全透視した人間生存本体の説明であり、釈迦個人はその掌握と同時に入滅することでの完結があったのであるし、本来その意向に釈迦は向かっていた。しかしその後に、釈迦は"生存(世界)の本質"に対処する"具現的な生存(域)での行動指針"たる八正道を生み出すに至った。八正道は二次的に釈迦が考えたところの「生存の本質(苦集滅)に添いながらもなお現実的に生存することを可能とする方法(補足1)」である。

あるいは言い換えるならば、"釈迦は生存の本質(苦集滅)の掌握と共にそれでも生存を維持することの合理的な方法(生存すべきを支持する何らかの意義)"というものがあること(あり得ること)を見出したということである。(補足2)

あるいはまた、こうも考えなければならないのではないか。つまり、もし人が生存の本質(苦集滅)を完全に把握したならば、その人はそこで完結を選ぶ。だが釈迦だけはそれを成さず、その代わりに苦集滅に対し現実的生存側から拮抗すべく八正道という方法を生み出し、それを実践することで「生存の本質(苦集滅)を把握しながらのクリティカルな局面でのぎりぎりの生存(域)」というものが人類にとってあり得ると考えた。(補足3)

これが現在自分が思うところのガイドラインである。これは大乗を考える上で、当然この基本が無ければ大乗が成り立たないことにも関わる。大乗はこの釈迦思想側の基盤を、彼らが所持する全く異なる世界像になんとか重ねて壮大に拡張しているのである。釈迦の八正道の本質は苦集滅の絶対性に対する僅かの生存側への差異であり、その実践による効果としての遅延である。その遅延が生存となる(その遅延により生存が起こる)。勿論、衆生には元々生存の本質(苦集滅)の掌握は無いので、釈迦とは異なり八正道は現実的な生存の形式として現れる。釈迦は衆生にそのように示したのである。思うにこれが大悲の本質である(補足4)。

またこうも考えるべきではないか。もし人が苦集滅を掌握したとして、その時にまた現実的生存側に戻ることがあるとしても、釈迦のように衆生総体に対応できるような何らかの合理的な方法論を生み出すことは困難だろうということ。まずそのような人は把握した内容を語ろうとしなかったり、一旦思ったとしてもそれを衆生の理解力に合わせて語ることのあまりの困難さに熱意を維持できないだろう(実際釈迦自身も最初にそう考えたのである)。自分は釈迦思想が特別(特殊)である要所をここに思うのである。

-----------------
補足1: 釈迦にとっては選択的であり、衆生にとっては唯一の。

補足2: 釈迦自身にとっては本来この必要性は無い。衆生にとってはこの方法によらなければ苦集滅の掌握に至る道はない。八正道とは(人間的に再来した)釈迦が、衆生の能力に沿わせ編成したものというべきであろう。

補足3: 意図してここで津田真一先生の用語を選ぶ。

-----------------
メモ
津田真一先生指摘(反密教学)に関わり: 
現法的梵行の「現法的/drstadharme」の意味は「この現在世のなかで」だという。これは、完結する苦集滅に拮抗し、なお生存が「八正道=梵行」というあり方をもって成される場合、その時、苦集滅の完結性絶対性に対する遅延として生存は"意義化"され、それは(本質が苦集滅たる)現在世での事がら(法)として衆生に現れている、とも書きうるところの内容に絡む。要するに、梵行とは現世生存での苦集滅の転移であり、苦集滅の遅延的具現である、と。なぜそうなるのかが重大であろう。梵行の結果、生命は受け継がれない。現世にとどまった一定の遅延の後に何も残さず滅に帰結(入滅)するのだから、やはりその者は苦集の総体に因を残さないだろう、ということか?

-------
補足4: 津田真一「反密教学」-U釈尊の宗教と華厳- を確認再読したところ、結局ここで延々書いていることの基幹はこれにあり、当追跡調査も紆余曲折経た結果、凡庸な頭でも多少理解が及んできたという話であった。以下同書より引用
釈尊はこの境位で停ってしまってもよかった。彼は<女性単数のdharma>の明の極に於いて安住し、その存在の高みから「諸法」、即ち存在者の位層の諸相を観照し、「解脱の楽しみ」のうちに一人の独覚者(pratyekabuddha)としての生を終えてもよかったのである。しかし、彼はそこに停らず、無明を脱して明に至らんとする反自然的ヴェクトルのペルソナである梵天の勧請という神話が象徴する如く、釈尊自身の瑜伽の体験にとっては外的となる、慈悲という原理を採択することによって、説法の決心をする。(80P)


posted by コマプ墨田 at 07:00| 仏教関係調査

2014年05月24日

釈迦の論理に対する大乗の意義

大乗思想とは、彼の師匠らが"外的に得た基盤構造"を独自解釈し、ついに世界像の説明へと転化させたものと言える。その意味で、その壮大な拡張は任意判断を既に基層域に含むのである。だが重要なのは、釈迦の論理と本来無関係なはずのその基盤構造であるのに、その可能性を追求し、駆使し、釈迦の示す論理に矛盾無く合致するように新たな設定を成しつつ、理路整然と書き換えていくことの意義であり、その成果のあまりの合理性にある。それが般若であり空である。

しかもさらにそこには、実は釈迦の思想と矛盾するはずの事項も含み展開している側面、その矛盾の性質をごまかすことなくそのまま主論理域に導入し、双方を結合させ、論旨上なんら問題が起こっていないような言及方式(言い回し)を開発してしまっているという、輪をかけて重大なテーマがある。

それは大乗が由来する元筋が釈迦思想側にあるのではなく、それと矛盾するところのもう一方の思想側にあることが主因であるというのが、当追跡調査のもつ現在のガイドラインである。すなわちそれは大乗以前のストゥーパの女神信仰集団のことである。

matrix4s8r0601b.jpg

このことを理解し、ここで新たに展開している上位検証領域から大乗を読み解くことは、ほとんどの研究者にとって(専門家であればあるほどに)限りなく不可能に近い困難があるだろう。まず、ここで言うところの「基盤構造」の存在とその合理性を的確に把握しなければ、入り口すら得ることができないのである。誰もこの最初の事態に対応できないだろう。このような事態など起こり得ない前提でしか大乗は今後も読まれないだろう。テキストはそれ自体で(つまりそれを可能とする為の別の隠された論理域を持たず)、独立的に物事を述べていることを誰も疑わないだろう。その見地において大乗の論旨の把握は限界に閉ざされており、その為に大乗は永久に不可解であるが、ほとんどの場合この不可解性こそによって大乗は好まれているのである。ここで言う「基盤構造」なるものが全大乗仏典の趣旨根底を築く本体であり、テキスト側が二次展開なのだという発想を理解することはまず不可能だろう。

この追跡調査において明確になる領域から大乗の不可解性は多くの部分が解消され、なぜ歴代の師匠らがそのようなことを記述してきたのか、その本筋は問題なく明らかとなるだろうが、それが成されたに至り即座に新たな上位の不可解が発生するのであり、それがその先の大乗読解のテーマとなる。より的確に言えば、それは「大乗が対峙した対象と大乗の関係への読解」ということになる。その見地にある時、大乗は単にテーマの担い手として解消される(されている)かもしれない。結果的にそれは自分自身が大乗が対峙した対象に直接向かうことと同じとなる。

現実的にインドで後期密教以後大乗が解消された意味は、これに関係するかもしれないとの着想を当追跡調査は持っている。当然ながら大乗通史において、歴代テキストが「基盤構造」の二次展開であることを師匠らは知って書いているのであるから、その発覚が「大乗解消」の切欠となったということを述べているのではない。予測しているガイドラインは、「秘密集会タントラ」以降、テキスト自体がそうした大乗の素性本質そのものに切り込むことをテーマにしはじめ、短期に高度な結果を得たが故に、内的にそうなるしかなく進行したということかもしれない。後期密教テキストはそのような性質(自己解体性)のものであろう。

posted by コマプ墨田 at 07:20| 仏教関係調査

2014年05月22日

大乗の本質

仏像(仏の像)や真言など悟りの本体を示すだろうところのもの。秘密であるそれらのものの本体は絶対的な秘密である。その秘密の絶対性は、それが存在しない故にのみ絶対的となるものであるから、秘密なのである。仏像(仏の像)や真言はその本体域を秘密とした「秘密を示すもの」である。それらが示す対象は唯一の絶対的な秘密である。それらは存在しない本体を示すだけのものである。それ故に、それらを得て信心する行為を、根拠を求めず、信じるべしと言うのである。

posted by コマプ墨田 at 16:04| 仏教関係調査

2014年03月23日

「般若波羅蜜多」等 大乗主軸語へのウイットゲンシュタイン論理にからんでの考察

ウィットゲンシュタイン論理にほんの軽く触れた程度で、このようなことを書くのも問題ありなのだが、おそらく間違っていないし、重要なことなので書いておくことにする。

「般若波羅蜜多」やそれを示す真言、あるいは他の様々な真言(あるいは像や記号)、それらは究極には何を対象としているのかと考えるとき、悟りや真実(真理)を示しているとされるだろう。

だが、ウイットゲンシュタイン論理に沿えば、そうした悟りや真実という語の対象は語りえないものであり、世界の外部であるとされる。

では「般若波羅蜜多」という語や多くの真言が、なぜ我々の(少なくとも大乗の描く世界において)認識活動において、意義と体系をもって在るのか。あるいはそう在り得ているのか。

まさに大乗の独自性はここにあると言える。「般若波羅蜜多」と言う語はそれが示す対象が何であるか大乗のテキストのどこを読んでも明確には分からない。分からないように(つまり論旨が一義に極まらないように)常にトートロジーを駆使して言及位置を変えるのである。言語活動は真理に関わる周辺を延々と転移するのだ。

そのための特性を持つ独自の言語技法が大乗テキストの素性である。

このことはウイットゲンシュタインの論理からみて妥当だ。「般若波羅蜜多」という語が示す対象は「悟り」「真理」と一致し、それらは世界の外部であり、語りえないものであるから、それに関わる言及があるとすれば、必然的に"世界の外部の周辺(近傍)"を"迂回"するのである(常に)。

「般若波羅蜜多」という語の対象は世界の外部であり、存在として規定(説明)できないものであることを、大乗は別の語句で「秘密」と規定する。この秘密とは絶対的な秘密であり、絶対的に明らかにならないことがその意味である。この秘密の絶対性とは、秘密の対象が存在しないことにおいて可能となる。大乗はこれを「如来も知ることができない絶対的秘密」と規定する(「秘密集会タントラ」)。

この一連を導く主体は、大乗がテキストに先行して所持する世界像(図像)であり、これは大乗発祥以前よりストゥーパの文化圏で伝承されてきた幾何学の構造である。それは総体構造の中核にゼロ位置を設定するところのフラクタル構造である。大乗とは、この構造の読み取りたる特殊な世界認識法を、仏教に蒸着させた文化活動と捉える必要がある。

ウイットゲンシュタインの「言語ゲーム」の発想で考えれば、例えば「般若波羅蜜多」が、実は対象を語り得ない語でありながら、実際の我々の言語活動(認識活動)において、その語が無ければ成り立たないような意義をになっていることが重要である。「般若波羅蜜多」という語は、言語体系総体を今あるように成立させるように現に在るのである。本質においてその意味は絶対的に把握されないにもかかわらずである。

別な説明をするならば、

我々の言語活動(認識活動)の内側に「般若波羅蜜多」という語があり、それが実は対象を示しえない(積極的に示さない)特性を持っていながら、にもかかわらず一切矛盾なく我々の言語活動(認識活動)が働く状態が(今こうして)在り得ている。現にそのように我々は「般若波羅蜜多」を正規の語句として用いるのである。これが意味するところは、「般若波羅蜜多」という語を除外しても成り立つ言語活動の領域に、「般若波羅蜜多」という語は特別な意義を与えつつ、異なる統合を成立させているということである。実際大乗のテキストはそのエッセンスを描くものと言える。

「般若波羅蜜多」という語の示す対象本質を把握しないよう意志し、しかもその語を言語活動(認識活動)に積極的に用いることを成せ、そのような認識方法を(唯一)とれ、というのが大乗である。これは「般若波羅蜜多」という語に限らず、大乗にて「悟り」や「真実」に連続するかに現われる語句(真言や記号や像)全てについて一義のことである。この着眼を特殊と言わずに何と言うべきかであろう。

この大乗の特殊な言語活動(認識活動)はそうすること(そう生きること)よって何を可能とするのか。もし「般若波羅蜜多」という語がその本質を把握できない程のものであれば、それを初めから知らない事とどのような違いがあるのか(それは確かに違わないのではないか、おそらくは)。絶対的な秘密とは、秘密とされる対象が存在しないことであるならば、それが秘密と規定される意義が元々無いのではないか。こうした疑念を持つことも可能である。これに対し早々な答を出すことは無粋と言う他なかろう。大乗の用いる基盤の世界図像は世界認識の方法として絶対であるわけではない。それはただの幾何図形に過ぎない。しかし、彼らはそれをひとつの方法の機軸として選択したのである。このような世界認識は現に在り得るのだという選択である。

8con-blue-up.jpg

あるいは「南無阿弥陀仏」「南無法蓮華経」でも同じである。一連の写経活動など。これらに充実した意味を与えるものは存在しないのである。これらは「悟り」や「真理」に関わる何かのように表わされていながら、その実はっきりとした対象が分からない。それは「ナムアミダブツ」という発音が「南無阿弥陀仏」であり「ナンミョーホーレンゲーキョ」が「南無法蓮華経」であることを知らずともそれを唱えられ(唱える意義がどことなく感じられ)、写経してる言葉の意味を全く知らなくても写経ができるという(したくなるという)、こうした言語活動の存在が象徴的に示している。しかし、これは象徴的と言うべきではなく、そうあることが必然と大乗は初めから考えている。そうあることが凡夫衆生の理想なのである。

posted by コマプ墨田 at 05:42| 仏教関係調査

2014年03月22日

黒崎宏著『理性の限界内の「般若心経」』を読みえる

本日入手してそのまま読破。そのぐらい短い本でありました。ちょっと余白とり過ぎではないでしょうか(笑

内容は、「ウイットゲンシュタインの視点から」という副題ほど、双方の食い込みがあるようでもなく、なにしろ「般若心経」単独対処での追求なので、実は「八千頌般若経」にその要所は大乗独自着眼で徹底されている旨分かるはずのところ、さらっと行っちゃってる箇所があり、いくつか残念でもある次第です。そここそが突っ込みどころなんですがみたいなことで。

西洋的視点で拒絶されそうなところは、実際あまりに簡単にそちらサイドの割り切り方で解決されてしまう傾向があり、その結果「般若心経」がものすごくスベスベになって解読されてしまってるわけですが、これは正直予想外でありました。そうは単純にいかないところこそが大乗の独自性なのではないかと思う次第です。

しかしかなり興味深いご指摘がいくつかありました。「ヘーヴァジュラ タントラ」等、後期密教テキストは、まず一度はウイットゲンシュタイン的ラインで読んでみるべきものでは、との自分の見解は的確である旨、本書により確信できた次第です。それ前提で読めば、後期密教の語法は奇異でもなんでもなく、実にウイットゲンシュタイン的着想のよりアクティブな実践であることが理解されるわけです。そしてそれは、実は特に後期密教がいきなり始めたことでもなく、そもそも大乗の大本がそれであり、その後一貫的展開を成す必然が「般若経」に最初に出来上がってしまっているわけです。

予想されたことではあるのですが、やはり西洋目線前提でアプローチする限り、大乗の特性は的確に捉えきれない観があるわけです。西洋のものの見方からすれば、たとえそれがウイットゲンシュタインの見地においてさえ(否だからこそというべきか)、大乗の考え方は「究極ではあり得ない発想」、異常か虚偽ぐらいの話になってしまうようにも思うわけです。

posted by コマプ墨田 at 08:09| 仏教関係調査

2014年03月15日

ウイットゲンシュタインと大乗

見て回るとやはりこれはかなりスタンダードなテーマだった。哲学分野でこちら黒崎先生という方が第一人者のようである。マニアックな書籍の割にはそこまで高くないので買ってみようか検討中である。

理性の限界内の『般若心経』ウィトゲンシュタインの視点から
黒崎宏著


ほぼ書籍をあたってない段階で言うのもなんですが、この件で自分の最大の興味は、「秘密集会タントラ」「へーヴァジュラ タントラ」等、後期密教の不可解と言われる語法を、ウイットゲンシュタインの論旨に基づき整理することである。つまり、大乗初期に「般若経」「法華経」「阿弥陀経」等が確立した世界像とそれと対になる独特の語法に関わり、後期密教は、それらが依拠する根幹の構造は完全にそのまま用いつつ、内部要素である語とその対象を逆相側のセットで入れ替え、その結果においてやはり総体は合理な意味世界として成立することに着眼し理解した。そしてそれら全てのパターンは構造が同じであるのだから、同じ根本の派生として成り立つもの(言及できるもの)と見た。それらは如来側からみて全て平等の命題となる。このことの妥当性に気づき、それをテキストの可能性として徹底拡張したのが後期密教である。このあたりをウイットゲンシュタインの論理でカバーするのは何の障害もないように思う次第である。実際、歴代大乗の師匠らは、皆たった一つの世界モデルをもちいているのは全く確かな話なのである。

「へーヴァジュラ タントラ」の各所で、極めて妥当と思える金剛蔵の質問に次々答える教主の言説が、真実に対応する絶対性に依拠してるはずが、逆にどんどん周辺域(現世個別事象側)の任意性に向け脱線していく過程は、(世界の外部であるところの)真実に接近しようとする言及が実は不可能であり、もっとも真実に近いとされる語や記号すらもその本質を求め、それと真実との連続を認め認知しようとすれば、結局本質を得ないもの(意味のないもの)としてあること、言及はトートロジーに至ることを示すのである(補足1)。そうした示唆を語法のたちまわりで示す意図が、後期密教テキストの戦略としてあることを自分は見るのである。マントラの章で脱線に脱線を重ねとうとう動物を奔走させる語句がマントラであるという結末に至るのも同じ発想である。これもまた全くもってウイットゲンシュタインの論理の範疇だろう。

ただウイットゲンシュタインの原著をそれだけ読んでまともに把握するのは、購入した「論考」の出だしをざっとみた段階で無理と判断下したので、やはり多々ある解説書に頼る意向でおります。まぁあれじゃ素人には無理。

-----
(補足1: ウイットゲンシュタイン側の論旨で言えば、世界の外部に純然と対応する語や記号であればそれは当然無意味だとなろうが、逆に言えばそうだからこそそれらは世界の外部を示すものとして現されているのである。それが大乗側の一貫した論旨であり、原点は「般若経」にある。)

posted by コマプ墨田 at 04:29| 仏教関係調査

2014年03月07日

放送大学でヴィットッゲンシュタインの話を聴いてると

後期密教で過激に展開する大乗論法(語法)とこの考え方はよく似てるという印象である。が、ヴィットゲンシュタインなどどうせ読んでも理解できなそうだから深く追求する気はない。

PS: 放送大学の復習で巡回して、とりあえずこちらの大先生のヴィットゲンシュタインまとめ記事読んだとこですが、似てるというか、まるで大乗語法の解説みたいぐらいの心境です。逆に言えば、要はビットゲンシュタインが言ってるような筋で大乗経典を読むといいですよって話でもある。特に後期密教タントラ。(PS: 後日巡回調査したら、やはり仏教との関連を書くサイトが多々あり今後もう少し調べようと思う。購入した岩波文庫「論考」の冒頭に「空」の語があった。実にこのあたり全く知らない自分が放送大学のヴィットゲンシュタイン解説を聴いただけでかくのごとく思ったぐらいなのである。)
 ↓
ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン 論理哲学論考

PS2:復習的巡回継続中
言語ゲームとは

こちら様の方が更に分かりいい気も。
 ↓
一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。

上記記事内、さすがにこの指摘には驚いた。
たとえばさ。「神はいるか」という問題に対して、「それは『神』という言葉をどう定義するかによるね」と答えるのが、前期ヴィトゲンシュタイン。そして、「万能で超自然的で創造主で…」と答える人に対して、「万能」と定義するなら「存在」もできるということだ。従って、「万能」と定義した上で「いるかいないか」議論するのは、トートロジーだ、とか、まあそういう批判をしちゃうだろう。


(一方で「存在しないもの」と定義しながら).."それ"が「存在もできる」という姿勢(話法)に何の躊躇もなく、疑念も再考も反省もなく、自信満々の風情(基本)で千年以上やり遂げたのが大乗である。もちろん上記記事指摘どおりに、彼らのテキストは(結果として)必然的に完璧なるトートロジーを本質とすることになるのだが、そのことをおかしいとか、論理として問題あるとか、など、露ほども思わないのが大乗歴代の大師匠たちであり、それどころか、このトートロジーを積極的に生じさせ(まさに言語ゲームにより)、その状況でどう立ち回るかがテキストの山場だと考えているのである。ビットゲンシュタイン用語を借りるなら、このトートロジーの明確な出現段階こそは「語る」の限界域への到着であり、そこではじめてテキストは「示す」しかできない"それ"を対象とできるということである。もちろん"それ"というのは大乗側用語で言えば「般若波羅蜜多」であり「空」であり、実に存在的に現わされる(衆生が思うところの/思うしかないところの)「如来」にあたる。

ここまで書いて思い出したのが、「ヘーヴァジュラ タントラ」の以下の箇所である。括弧内は津田先生の補足と思われる。
「真実品」(「反密教学」227P 津田真一和訳)
(真実それ自体に関しては、それをなんらかの有相なるものとして)能く観想するものもなく、また観想さるべき(特定の相)もない。(それと同値さるべき)真言もなく、(その顕現としての)天尊もない。(しかしながら、このような)戯論を離れた(その真実)それ自体(の自ずからなる現われとして)真言と天尊とは(現実に)存在しているのである。

同箇所の英文テキスト
「The Hevajra Tantra - a critical study」David Snellgrove」
There is neither meditator, nor whatso'er to meditate; there is neither god nor mantra. It is as (aspects of) the undifferentiated unity that god and mantra have their existence.

(補足: この英文でgodとなっている箇所のオリジナル語句はdevaであるから、西洋の神概念に即さない。)

追加追跡調査

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

こちら様↓、本格的な語り口で初心者には難解であるが、諸々興味深い。

ウィトゲンシュタイン Ludwig Wittgenstein( 1889-1951)

その中でもここ↓なわけだが、まさに大乗の根幹に関わる。
同様に、宗教や道徳や哲学の命題も擬似命題である。(ウィトゲンシュタイによれば「全ての命題は等価である」から、そのどれかに特別な価値を置く「…は善い/悪い」という倫理学の命題には「意味」がない。)それらは、端的に言えば、「世界」の外にある。


特に後期大乗的には、「(如来が)語りえる命題は全て等しく真理である」との着眼がある。「語り得る命題の総体」は「衆生がある世界の総体」に一致するのであり、それは構造中核のゼロ(空/般若波羅蜜多)において全て同値(平等)で清浄である根本を持つのである(決定不可能性)。この着眼は大乗根幹の世界構造図像(マトリクス)から必然導かれるものである。上記記述が言うところの「世界の外」(ヴィットゲンシュタインの用語か?)とは、大乗設定で言えばマトリクスのゼロ位置(空/般若波羅蜜多)に対応するだろう。

--------
大乗論理とヴィットゲンシュタイン論理の関係に関わり、西洋思想がヴィットゲンシュタインが追い詰めた観点を前提とする場合に、西洋からすればとんでもないものの考え方---思い描くことさえ全く不可能に近いような---,それが大乗思想だ(だった)ということ、そのような事実直面が必然的におこるのではないか。西洋は大乗を認めないかもしれない。まず彼らは間違いなく「それだと結局ダマシではないか」と思うはずだ。しかし、一方で西欧的な論理性にかなりの程度大乗は近しくもある。別の見方で言えば大乗の側が、西洋が接近しながらも越えられない域を既に軽く超えてしまっているとも言える。(まぁ現状の日本は無理側にどんどん沈没中である。可能性は一段と低い。)

posted by コマプ墨田 at 22:38| 仏教関係調査

2014年03月01日

「法華経」の成仏の予言

無限の菩薩行の時間、無限に生まれ変わるところ、ついにその最後には、衆生の誰もが同じ空なる中核に到達できる、必然そうなるのだという論理による。如来蔵思想の本質である。もちろんこれは大乗造仏マトリクスから導かれたところの彼らの世界像から来ている。地中から出現した大ストゥーパの中核に座す多宝如来が、隣に釈迦如来を座させるわけだが、本来は大ストゥーパ中心が示すところの空を共有するように、現世側から空側に今到達した釈迦如来と、既に無限の過去に到達していた多宝如来は、この時完全に重なって示されるべきところなのだが、その視覚上の発想まで「法華経」では至らなかった為に、並んで座すとの設定が選択されたのである。しかし、これこそがその後展開する密教等での、教主とヴァジュラサットヴァによる同種設定の原点である。もちろん密教の曼荼羅は全て「法華経」の発想を元に様々に拡張し展開したものである。「ヘーヴァジュラ タントラ」のアヴァンギャルドさえ、「法華経」を思うとスケールの大きさでは及ばない。

posted by コマプ墨田 at 07:18| 仏教関係調査

2014年02月23日

「ヘーヴァジュラ タントラ 第二義軌 第4章 一部分超訳の試み

このあたり、前々から何を言ってるのか分かりにくいと思い読んでいたのですが、面倒なのでとりあえず「要はこうだろ?」と推測される側に強引に舵を切っての超訳自由訳路線でやってみた次第です。英訳を一旦まじめに訳した日本語をじっくりながめつつやったのですが、たぶん師匠の意図としてはここいらだと自分は思っておりますが、勿論、訳としてはまともなレベルではない旨ご了承ください。まぁ理解のための手法ですからね。要は、このあたりテキストとしては、またまた崩壊寸前の捨て身技やってみせてるわけです。でもこの箇所のさらに前のとここそが圧巻ですけどね。崩壊寸前と言うよりみごとに崩壊してみせてますから。それをスピードで繋いでしまうわけです。恐るべき筆力と言う他なし。

----
第二義軌 第4章 様々な疑念への回答 (79)〜(88)

■ 金剛蔵
「プッカシは大地と言われてるのに、なんでアクショビャが彼女のサインなんだろ? 堅固さは妄想に対応するから、これってビルシャナなわけで、だったらビルシャナの方がプッカシのサインに合ってるよね?」

■教主
「体から離れた心の活動って方法は無いんだな。体を成すところのビルシャナ、要はビルシャナ=身体ではあるものの、結局それは心も含むわけだ。でもって確かにビルシャナ=プッカシってのはそのとおりだから、そこに対して心のサイン=アクショビャがマークされるってことだな。

■金剛蔵
「サヴァリは水だってんでしょ? アクショビャは流動体が本質なんだから、だったらサヴァリがアクショビャでサインされるのが合ってるんじゃないの?」

■教主
「体が心から離れちゃったら安定性無いわけだよ。もしそうなると心は妄想になっちゃうんだから、そこでサヴァリは妄想のサインでマークされるわけだな。」

■金剛蔵
チャンダリーニは火だってんでしょ? なんで宝石でサインされるわけですかね? チャンダリーニについて誰も特に他の違うサインを求めないんなら、普通それって執着(raga)がサインになるんじゃないんですか?

■教主
「執着(raga)ってのは赤だからね。アミターバ=赤ってのもありつつ、かつラトナサンババは当然これは赤だ。で火は赤でしょ、そうなると赤つながりで執着(raga=アミターバ)は嫉妬(=ラトナサンババ)のサインってのが成り立つ。結果、チャンダリーニのサインはラトナサンババってことでおかしくないな。」

■金剛蔵
「ドンビーは空気なんだから、空気の本質持ってるのはアモーガシッディだよね? てことは、アモーガシッディのサインでドンビーがマークされるのが普通じゃないの? 教主どうですかね?」

■教主
「嫉妬の唯一の源は執着(raga)ですよ。それ分かってるから執着でドンビーをサインするわけだ。
形が堅固ってことでガウリに対してビルシャナがきそうなとこだが、既に定まった作法ってのがあるから心の教主(アクショビャ)でサインされるな。
カウリ、ベタリ、ゴースマリ、と同じ作法適用ありなんだ。よって、一見矛盾そうに見えることがあったとしても、それから開放される彼女らのサインがあるってことを考えるように。以上だ。」

------
同じ箇所の直訳

(79) その時ヴァジュラガルバが尋ねた。
「プッカシは大地であると言われるが、なぜアクショビャは彼女のサインであるのか。堅固さは妄想に対応するので、これはビルシャナであり、その結果ビルシャナはプッカシのサインとして適している。」

(80) 教主は答えた。
「身体から離れて、心にとって活動の方法はなく、ゆえに心と身体となるビルシャナ(ビルシャナ=大地=プッカシ)は心のサイン(アクショビヤ)でマークされる。」

(81)
ヴァジュラガルバは言った。
「サヴァリは水であると言われ、アクショビャは流動体の本質を持つ。ゆえにアクショビャのサインでサインされることはサヴァリに適している。」

(82) 教主は答えた。
「心(=アクショビャ=水=サヴァリ)から離れて身体(=ビルシャナ=Moha)に安定性は無く、だから心は妄想となり、心(=上述のサヴァリ)は妄想のサインでマークされる。」

(83) ヴァジュラガルバは言った。
「チャンダリーニは火だと言われ、なぜ彼女は宝石(Paisunya、ラトナサンババのファミリー)でサインされるのか。私たちが他の異なるサインを求めないチャンダーリに関して、それは執着(raga)のサインにふさわしい。」

(84) 教主は答えた。
「執着(raga=アミターバ=火=チャンダーリ)は赤であるから、ラトナサンババは赤であり、ゆえに、火は赤なのだから、執着(=上述のチャンダーリ)は嫉妬(ラトナサンババ)のサインでサインされる。」

(85) ヴァジュラガルバが言った。
「ドンビーは空気であるから、アモーガシッディは空気の本質を持ち、不空のサインでサインされることはドンビーにふさわしい。おお 教主よ。」

(86) 教主は言った。
「執着(raga)を離れて嫉妬にいかなる他の源もなく、ゆえに理解するところの彼は執着のサインでドンビーをサインする。

(87) 形が堅固だから、ガウリに対してビルシャナは規定され、しかし既に定まった作法で、彼女は心の教主(=アクショビャ)でサインされる。

(88)同様の作法で、カウリ、ベタリ、とゴースマリら全ては矛盾(両立不可能)から開放された彼女らのサインを持つ。」

posted by コマプ墨田 at 08:21| 仏教関係調査

2014年02月22日

伝説の都知事選立候補者 津田宣明を知る

大阪市長選挙がらみマック赤坂で巡回したものの、こちらはたいして面白くも無いことが分かった反面、このすごい映像にブチあたり放心状態であります。しかも更に手繰って発見したこの人の書いた選挙公報ってやつ、輪をかけてすごい。今から「ヘーヴァジュラ タントラ」を読み返そうとしているところである。



PS:「ヘーヴァジュラ タントラ」確認箇所
第二義軌 第3章 全てのタントラの原則
(抜粋/アルファベット単語は意味未確認単語)

教主は答えた。
「説明しよう、おお金剛蔵、汝は頭脳を専心して聴きなさい。これは秘密の言語であり、偉大な言語であり、略すことなく告げられた伝授されるところのサインである。

ワインは執着
肉は強さ
サンダルの木は集会
隠れるは行く
死体は行楽地
骨の装飾品は丸裸

徘徊は到来
腹は太鼓
発光は愚人
Kalinjaraは偉人

小太鼓はアンタッチャブル
ロータスの器は頭蓋骨
満足は食品
ジャスミン香木はハーブ

四構成要素の妙薬は糞
ムスク香料は小便
香木の樹液は血
ショウノウは精液

米製品は人肉
kunduruは二つの結合
男性器はヴァジュラ
女性器はロータス

同様に5つの族のブッダらは、隠れた語りの方法によって言及されることが可能だ。

ヴァジュラ族たる、ドームビー
蓮華族たる、ナルティー
宝族たる、チャンダリー
如来族たる、ブラフマニー
そして、カーマ族たる、ラジャキー。
それらは印、シッディの授与者たち、
彼らのシャクラである堅固さ、であり、
そのようにそれらに敬意を払らい、
ヨガ者はそれを吸収する。

おお金剛蔵よ、偉大な存在である汝、あなたは、私がこの驚くべき秘密の言語について述べた全てを敬意を持って受け止める必要がある。

ヘーヴァジュラにて清浄とされ、またこの隠された言語を使わない彼は、疑いなく聖なるパワーを失うだろう。

もし彼がこの秘密の言語で話さないならば、彼がブッダであっても、災い、盗賊、悪霊、熱病、毒薬がために死ぬだろう。

彼の所持する聖なる自然のこの認識を獲得しつつ、もし彼がこの話法を用いないなら、その場合4つのpithasから生じるヨギーニらは憤怒を示すだろう。」


ヘーヴァジュラにて清浄とされた者が用いるべき「隠された言語」とは何であるかというと、指し示す語の意味中核が存在しない言語のことである。なぜなら彼はヘーヴァジュラに清浄化(ゼロ化)されたのであるから。その言語は表層である記号レベルで結びつくだけであり、その連鎖のみのものであり、意味中核(真実)への到達を永久に拒みながら、そのことで、意味中核(真実)が存在しないこと、ゼロであること、を推測させる言語(話法)のことである。

posted by コマプ墨田 at 00:09| 仏教関係調査

2014年02月16日

田中公明「性と死の密教」再読

東北調査の移動中読み返しておりましたが、「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラ タントラ」を読む前にこちらを読んでいたので、再読によってなるほどと思った箇所が....。

@ 当追跡調査においては派生的項目であり、重要度は本筋に対しさほど高くないので、調査当初から把握していたもののこれまではっきりと触れていなかった件。「金剛頂経」の「五相成身観」と「大日経」の「五字厳身観」、それらからの展開である後期密教の身体内のチャクラと三脈管の配置であるが、最も簡単に言うなら、要するにこれは、仏像設計に用いるマトリクスとその理念上の論理(それが仏陀の像であることの理由)を、そのまま実際の人間の身体に当てはめたということである。マトリクスの中心はゼロ位置(空)であるが、これに向けて縦に縮小連鎖する円弧組織が発生している。その主要交点がチャクラであり、交差する円弧群と中心軸の位相からイメージされたものが三脈管(ララナー ラサナー アヴァドゥーティー)である。

A 後期密教の「五次第」の悟りの最終段階を示す「光明」という語と、密教最重要キーワードである「清浄」という語は、「プラバースヴァラ」という同じ語の別訳であるとのこと。であれば話は実に分かりやすい。「清浄」も「光明」も「一切空」も「平等」も全て、マトリクス中核のゼロ位置のことであるのだから。ゼロである故に絶対的な清浄、絶対的な平等がその位置にて在り得るのであり、ゼロであるが故にそれは同時に存在しないのである。そのことを何とか述べようとする工夫(情熱)が大乗の本体である。

連鎖イメージ-up.jpg


8con-blue-up.jpg


posted by コマプ墨田 at 00:57| 仏教関係調査

2013年12月08日

「般若経」と「法華経」の関係

このところの追跡調査で「法華経」の論旨を概略把握できたので、諸先生の研究に触れたいところなのですが、本を買うにも厳しいので、その内また図書館ミッションで補おうと思ってはおりますところ、とりあえずネットで何かと巡回したところ、程なくこちらの短い論考に行き当たりまして、読みましたところです。

法華経における根源的概念 西康友

本稿は、SPが歴史的段階を経て編纂され、その中でもSP第2Upāyakauśalya に見られる、つねにtathāgatajñānadarśanasamādāpana-「如来の知見に駆り立てる」というupāyakauśalya-「巧みな方法[方便]」が SP最古の概念であり、SPは、この概念から構成され発展したことを論じたものである。

この概念は、初期仏教経典や部派仏教経典、AsPの思想的影響が見出されないことや、AsPとSPの編纂地域も互いに異なることからも、無関係に発展したと考えられる。それゆえに、最初期の大乗仏教経典は、この2つの原始AsPと原始SPの根本的概念から発展したものと考えられるのである。

したがって、初期大乗仏教経典の起源は、原始AsPと原始SPの根源的概念に求められ、AsPの思想の流れを受けて中観思想が、SPの思想の流れを受けて如来蔵思想が、それぞれに発展したと推定できるのである。



結論箇所のここ↑にて、西先生は「般若経」と「法華経」の論旨分岐本質について明瞭に言及されています。この問題は先般「法華経」を読み終えた段階で自分も強く注目したことで、それについては、直感内容のみ先般記述した次第です。

この問題は大乗根幹の本質が何であるかに関わる重大なテーマで、「般若経」と「法華経」双方の異質性と、また逆にその異質性がさらなる根幹域では合理に一義論理に帰着し得ること(←少なくとも大乗が一貫し徹底した論旨に従う限り)、この特殊事情の認識と整理がまずは重要となるわけです。

こうした大枠の大乗史MAPから見るところ、事の最基層はやはり「般若経」にある旨、まずこれを前提すべきと当追跡調査班は見るのであり、「法華経」は「般若経」が見出した最初の論理(空論理あるいは空論理的に釈迦思想を読み直す行為)に基盤を委ね展開している事、これは疑いないものとすべきを見る次第です。そのうえでこのように述べる必要があるわけです。
 ↓

大乗の「原初思想完成過程の極めて特殊な事情」、すなわち「強靭な歴史的背景を持つストゥーパ環境(女神信仰)の只中に大乗が派生的に(あるいは共生的に)出現してくる」というこの事態にかかわり、「空論理の徹底追及を成す哲学領域」と「ストゥーパ的規定を維持しながらなんとか空論理上の合理を模索しようとする文学領域」が、違和と融和を絶妙に維持しつつ、そのダイナミズムをエネルギーとしながら総合的に大乗史である事態を形成していく、この特殊な流れ、それ自体が大乗であると、このように言うほかないわけです。

posted by コマプ墨田 at 05:13| 仏教関係調査

2013年11月16日

覚書:「法華経」と「般若経」の関係、等

「法華経(サンスクリット現代語訳)」を読み終えて、当初漠然と予想していた内容より遥かにその論理が大乗基盤に合致するものであり、驚き入った次第です。ただ、他の多くの大乗テキストにも増して、この作者師匠のインスピレーション回路は強靭であり、先例の乏しい段階でいきなり最強のイメージ展開をやってしまっている次第で、これがその後の大乗仏教の性格を決定付けてしまったと思うほかないわけです。その意味で確かに「法華経」は大乗仏典の王者というのは正しいかもしれません。「般若経」の説話領域に論理の先行形態が確認できるとはいえ、だから「法華経」のようなテキストが必ずそこから自然展開するかと言うと、やはりここに特異な能力を持った天賦才能の主がいる必要があったと言うべきでしょう。ある種、病に近い精神能力というぐらいの域です。

「法華経」が多用する重要な機能としてジャータカ論理の拡大解釈があり、これを様々な局面で用い無限時空の万能転移を可能としているわけです。この機能を現実の三世時空の人類史掌握に用いつつ、その総体を「無限連鎖マトリクス(大乗基盤図式)」が示す一環構造に重ね合わせているのです(補足1)。この発想は「法華経」が最初にして完全なる基盤として完成させたものであり、いきなりそれを「法華経」がやってしまったという現実をしっかり受け止めなければなりません。その後の大乗の世界図式、極楽浄土もマンダラも全て最大幅を超えることのないバリエーションとして展開しているわけです(補足2)。ただ、華厳世界はおそらく「法華経」の世界図式を踏み超える域を求め挑戦的意図をもって拡張しているのかもしれません。津田真一先生の華厳理解を読む限り、それが推測されるわけです。このあたりは大変難しいテーマと思われます。

もうひとつ大きなテーマとして、上述の「般若経」との連絡領域と、逆に「法華経」が深くは継承していない「般若経」の別側面、すなわち"空論理を極めることで自己解体的矛盾論旨にテキストを導く"という純粋に哲学的思考を貫く領域、この関係への考察が見えてまいりました。

---
補足1:
この拡大されたジャータカ論理による三世時空の転移機能は、無限の過去という不可視領域での悟りの現場を設定する機能でもある。それは、無限拡張される時空構造を統括するところの無限遠点(無限過去域)であるゼロを規定することそのものなのである。

補足2:
「法華経」と阿弥陀思想の発生の前後関係は微妙なのかもしれないが、その問題の重要性は低い。なぜなら、阿弥陀思想と法華経論理は趣旨基盤がほとんど同じであるし、法華経内にそれを裏付ける阿弥陀への記述もある。

posted by コマプ墨田 at 08:30| 仏教関係調査

2013年11月10日

岩波文庫「法華経」サンスクリット現代語訳分を読み終える。

「般若経」内で既に明確化しているところの空に関わる二つのスタンス、すなわち「空を論理的に徹底追及し自己矛盾的本質に及ぶ姿勢」と「空論理を把握しているにもかかわらず、むしろその特性をもとに現世領域の意義を拡張させようとする姿勢」ですが、「法華経」こそ、後者の強大なる拡張展開であり、最終的に後期密教までを貫く大乗説話路線着眼の一義な型枠となっていると言うことです。いきなりしょっぱなで最大ぶっ飛んでしまった「法華経」の着想があっての大乗説話路線なので、これを基層に後の変遷が分かりやすく解説可能となるわけです。分かりやすすぎてあまり追跡調査欲求が起こらない個人事情に至っている現在の心情です。

要は「Saddharmapundarika」というタイトルそのものなのであり、それが全てを言い尽くしてしまってるのです。上巻の解説にある岩本裕先生の指摘こそ重大です。

以下引用

『法華経』のサンスクリット語原典の題名は Saddharmapundarika と言い、Saddharma- と pundarika- の合成語である。Saddharma は又、sat- とは動詞 √as「ある」の現在分詞で、元来「存在する」、「現存の」、「真の」、「善き」、「正しい」、を意味し、その他「勝れた」性質を示す形容詞として用いられており、dharma-は「法」、「教え」を意味する。従って、漢訳に際して、西晋の竺法護は「正法」と訳し、姚泰の鳩摩羅什は「妙法」と訳した。次に pundarika は蓮の一種で、「白蓮」である。しからば、Saddharmapundarika という合成語はどのように訳されるべきであろうか。竺法護は「正法華」と訳し、鳩摩羅什は「妙法蓮華」と訳していることは周知の事実である。そのために、サンスクリット語における複合語について、若干の考察を加える必要がある。

さて、サンスクリット語に於いて、このような二個の名詞(いまの場合で言えば saddharma- と pundarika- )から複合語を合成する場合三種の複合語が考えられる。

まず第一は並列複合語で〜

(中略- 第一第二の説明箇所を省略いたします。)

従って、玆に考えられるのは、第三の限定複合語である。この複合語では、

(一)前者が後者を限定し、両者の間に格の関係のある格限定複合語。例えば、bhu「大地」+ pati「主」→ bhupati- 「王」。rajan- 「王」+ putra-「息子」→ rajaputra- 「王子」。

(二)両者に格の関係がなく、両者は同格で、いずれかが他方を修飾する同格限定複合語。例えば、idha-「像」+ yuvati-「娘」→ idhayuvati-「仔像」。purusa-「男」+ vyaghara-「虎」→ purusavyaghara-「虎のような男」。

の二種がある。従って、Saddharmapundarika- という複合語を考えるとき、この二つの解釈が成り立つ訳である。しかし、サンスクリット語に於いて複合語の後節に動物あるいは植物の名称が くる場合には、特別の文法規格があることが看過されてはならない。すなわち、パーニの『文法』二・一・五六に

例えば「勇士」をあらわす場合、シューラ(英雄)という同じ意味内容の語が用いられないときは、ヴィヤーグラ(虎)などの語の複合によって、比喩的に表現される。

と規定され、『カーシカー』によると、「vyaghraなどの語」とは、simha-「獅子」、rksa-「熊」、pundarika-「白蓮」の諸語である(用例一部略)。玆に、pundarika- という語が挙げられているのと同時に、その規定の例として、puroso 'yam vyaghra iva prusavyaghrah.「この男は虎のごとしという場合に prusa- vyaghrah- と記される。」と述べられている。従って、古典サンスクリット語の規矩として尊重され、仏教学の学匠が語義を新たに解釈して新学説を展開しようとする場合に常に権威として引用するパーニの『文法』の規定に従うかぎり、saddharmapundarika- という複合語は「白蓮のごとき正しい教え」と解せられるべきことは論議の余地はないところである。
(岩波文庫「法華経」上巻 408p〜410p 解説対象の単語に付されたサンスクリット語と対象辞書箇所を示す英語表記は省略しました。 サンスクリット付加記号は省略しました。正確な把握を要する人は原著を確認ください。)


以上、引用が長くなりましたが、このようなことであり、すなわち「Saddharmapundarika」とは「蓮華のようなサッダルマ」となるべきであり、要は修飾の主従が現状理解の逆となるのが妥当ということです。加えて、この「サッダルマ」を「ダルマ」という語のより仏教哲学的語意側で捉え、「蓮華のような真なる存在の本体」と把握するならば、まさにここに何の不思議も残らないわけです。

8con-blue-up.jpg

posted by コマプ墨田 at 06:57| 仏教関係調査

2013年10月27日

「法華経」強度重要箇所

1)

まだ下巻末まで読み終えておらないとこですが、究極重大な箇所をとりあえず抜粋しておきたい衝動に駆られております。これらの箇所に後期密教タントラまでを貫く根幹論旨が既にあるわけです。

「バイシャジヤ=ラージャよ、汝に告げ知らせよう。話しておこう。実に多くの教説を、余は語ったし、いま語っており、また語るであろう。これらすべての教説の中で、この教説(法華経)はすべての世の中に受け入れられず、またすべての世の中から信ぜられていないのだ。それはまた如来の心の内にある教えの秘密で、如来の力によって完全に護持されていて、未だかつて暴かれたこともなく、未だかつて見られたこともなければ、未だかつて示されたこともない。この教説は如来が生きている現在でも多くの人々から斥けられている。ましてや、如来が入滅したのちには、なおさらのことであろう。
(「法華経 10 教えを説く者」中巻153P)

 ↑
悟りの本質である"秘密"と現実世界との関係がここに定義されている。如来の心の内に完全に護持され暴かれえないものの絶対性。これはマトリクスに明瞭であるところの「有たる周辺領域」に一点で対する「中核のゼロ」の意義に因っている。ここで言う「教説(法華経)」とは「存在しないがゆえに絶対的であるところの"秘密(域)"を担う"存在側の最終域(サッダルマ)”」である。"秘密"とはそれが実体としてゼロ自体であり「存在しないもの」であるから秘密なのである(そのように言われるのである)。それは有側(存在する現実世界)から排除されている。


そして、如来は人々を教え導くための言葉を、自分を例にしたり、自分に喩えたり、他人に喩えたりして語ったのであるが、如来たちがたとえどのようなことを語ったにせよ、その教説はすべて真実なのである。この点、如来の語った言葉に嘘いつわりはない。それは何故かと言えば、如来は三界をありのままに見るからである。すなわち、三界は生まれず、死なず、変化せず、流転せず、完成せず、真実でもなければ真実でないものでもなく、存在するものでもなければ存在しないものでもなく、このようなものでもなければ別のものでもなく、偽りでもなければ偽りでないものでもなく、別のものでもなければそのようなものでもない、と見るのである。如来が三界を見るのは、愚かな衆が見るのとは異なるのだ。如来は実に如実に見るのであって、この点において見誤ることはない。この場合、如来がある言葉を語っても、その言葉はすべて真実であって偽りではなく、他のいかなるものでもない。
(「法華経 15 如来の寿命の長さ 下巻19P)

 ↑
ゼロ域側からの現世側拡張(性)であるところの如来、あるいはその言説が、現世側事象総体に完全対応するものであることが示され、"ゼロ的存在者"たる如来の視座は、存在領域事象のすべてに"平等"に対しているところ、その清浄性ゆえに、如来のいかなる言説もすべて真実であること、すべて真実となること、如来が語ることが可能である事はすべて真実であること、との論旨が形成される。後期密教はこの着眼を拡張したと考えられる。実に恐るべきは「法華経」という現在の感想である。

2)
もうひとつ、極めて衝撃を受けた箇所が以下である。サーガラ竜王の娘が男子転生して仏となる件である。
 
さて、そのときサーガラ竜王の娘は、ひとつの宝珠をもっていた。その値段は三千大千世界の値段に相当した。サーガラ竜王の娘はこの宝珠を世尊に献上した。世尊は彼女の心根をめでて、それを喜納した。そこで、サーガラ竜王の娘は求法者プラジュニャー=クータとシャーリ=プトラ長老に、このように語った。
「妾はこの宝珠を世尊に献上しましたが、世尊はそれを早速に喜納されましたでしょうか、喜納されなかったでしょうか」と。
長老は言った。
「そなたはそれを早速に世尊に献上し、世尊はそれを早速に喜納された。」
サーガラ竜王の娘が語った。
「シャーリ=プトラ尊者よ、もし妾が大神通力をもっておりますならば、世尊がこの宝珠を喜納されるよりも一層速く、完全な「さとり」に到達しているでありましょう。そして、この宝珠を受け取る方はいないでしょう。」
(「法華経 11 塔の出現」中巻223P)


竜王の娘が世界総体と同値の宝珠を持つという比喩的な設定が美しい。(現実的な)世界総体を(非観念的に)司るものが女神であることが大前提となっている。ここに、世界総体の基盤たるマトリクスそのものを司る(あるいはそれ自体である)女神領域の在り方と、そのマトリクスを(具体性のあるものとして)外的に入手し(与えられ)、所持することで(そこではじめて)空的な世界構図を具現的に完成させ、人類総体に適応させようとする絶対的な言及者(論旨を駆使する者=如来)との関係が明確に記述されているのである。この論旨へも後期密教は確と依拠するところである。だがそれ以前に、この女神領域(女)と如来領域(男)の関係図式は、より広域に大乗根幹に関わるところであり、大乗発生の本質に並走するものであり、それ以前からの重大な仏教と女神領域との関係を推測させる普遍的な事柄と思うほかないのである。すなわち、それはストゥーパで起こりえた異種融合なのである。本来ストゥーパは女神のものであり、なぜかそこに大乗がやがてあるという不可解な現実、ここに着眼しなければならない。それはただひとつの答しか導かない。大乗を生み出した中核の人々はストゥーパを作り維持した技術者たちだということである。大乗以前に彼らは延々と女神たちに使えてきたのである。ストゥーパという現場において。

posted by コマプ墨田 at 05:32| 仏教関係調査

2013年10月13日

法華経(岩波文庫)中巻まで読み終える。

ここまでのところ、「塔の出現」「求法者たちが大地の割れ目から出現した」「如来の寿命の長さ」、これら状況が連続した章において描かれる<ブッダを中核とするストゥーパとそれを取り巻く無限の求法者たちの時空を超越した一体構造>は、当追跡調査が造形とテキストの領域一括での大乗総体基盤と指摘するところ、かねてより現物を具体提示する「マトリクス(無限連鎖図像)」↓に完全対応した内容であること、否定できる可能性は全く無い旨、確認した次第です。

8con-blue-up.jpg

別懸案で他にいくつか非常に興味深い考察材料もあり、いずれ記述したく思うところですが、まずは下巻解読です。それにしても「法華経」はかなり論旨として破綻箇所満載といわざるを得ないのですが、しかしこれはむしろ、「法華経」が先行テキストに安住して展開したものではないことを表しており、「マトリクス」の意義に真っ向から立ち向かい、無茶を承知で可能な論理開拓を押し通してしまった先駆者の風格が漂っている気がするわけです。阿弥陀浄土にしろ華厳世界にしろ密教のマンダラ展開にしろ、「法華経」に比べれば相応の二次的整備がなされていることが再確認されるわけです。

斜体をかけた三次元空間風バージョンがテキストの示す時空無限の空間を思いつつ眺めると、彼らが脳裏に描いた世界が何であるのか、非常に分かり易い。(クリックで拡大画像)

matrix4s8r0601b.jpg

posted by コマプ墨田 at 06:23| 仏教関係調査

2013年09月15日

「法華経」における アシュター = パダ という語の意義

サンスクリット原文からの「法華経」現代語訳(岩波文庫)を読書中ですが、本日上巻のみ読み終えて、テキスト内容も思うところ色々あるのですが、とりあえず分かりやすいところで、文末の解説にあったこの御指摘について言いますと、自分としてはこれは素直に「八つの台」「八重交道」の語意が主軸であって欲しいところです。しかし、それが同時に蓮華でもあるのもまた当然であり、もし岩本裕先生御指摘の音韻連携が正当として、であるならば、むしろこれについて大乗得意のアーティスティック語法の類を推察してしまう次第です。いずれにせよ、「法華経」の作者側は、確実に「大乗基盤のマトリクス(図像)」に乗じて該当箇所の記述を成しているわけです。

「八つの花弁 - 原文には アシュター=パダ astapada とあり、「八つの台」を意味するが、仏国土の修飾語として何を意味するか、全く不明である。ところが、『正法華』には「八重交道」、『妙法華』では「八交道」と訳され、その原語が アシュター=パッタ astapatta であったことが知られるが、この意味でも仏国土のどのような状況を描写したか不明である。ところが、梵語の音韻論から見て、パッタ patta という俗語形に基づく単語は パットラ pattra「葉、花弁」に由来する。アシュター=パダ をアシュター = パットラ 「八葉、八つの花弁」の転訛と解すれば、後の本文に「仏国土にいる求法者たちの大部分の者は、宝玉の蓮華の上を歩き回る者となるであろう」とある一節も無理なく理解されよう。さらに、密教における「八葉の蓮弁」あるいは「八弁の蓮華」の先駆と見做される注目すべき表現と考えられる。
(岩波文庫 法華経 上 393P サンスクリット語の付加記号略)


8放射状連結マトリクス
8con-blue-up.jpg

posted by コマプ墨田 at 03:41| 仏教関係調査

2013年09月07日

覚書 十七条憲法

仏の悟りから表出する完全性を国家構造に反映させるための方法として十七条憲法に意図された最重要な二つの項目。

1.天皇による絶対的集権 
2.天皇直下の政治機構が全人民に対応する絶対的平等を保った機能であること

当然、天皇は自らが掌握する政治機構と仏の悟りの間にあって、仏の悟りの反映たる国家の実現を加持する主体として在る。聖徳太子はこうした論理と決意において十七条憲法を記述しているはずである。

王(天皇)自身が、自らの命においても、あらゆる人民に対して平等であることを条件として、仏法は国家を支援するものと「金光明経」に規定されてある(補足1)。この仏の領域側からの規定(契約)に天皇が忠実であることによってのみ、天皇の絶対的権力掌握は、実現する国家構造が仏法の現世反映と成りえる最上層の機能の意義をもつ。

---------------------------------------
補足1:この「金光明経」の言及は大乗根幹空論理の国家理論的展開である。加えてこれも重要なことなので合わせて記述すると、「金光明経」末尾の飼虎捨身の話は、まず王家の者が成すべき態度としての記述である旨、理解が重要と考える。


posted by コマプ墨田 at 05:58| 仏教関係調査

覚書 真言等について

具体の相としての如来、あらゆる真言、印、など、それらは皆、悟りの中枢たるゼロ位置、何も無いその場所と(上位マトリクスの構造に沿って)規定されるが故に絶対的秘密として告知(のみ)されるところのものの、現世側への現われの原初である。

絶対的秘密から現世側への何らかの表出を促し司る操作(加持)、その操作は論理上可能であると判断することができる。なぜなら[絶対的秘密]と現世実在は、前提とされる上位マトリクスにて確実な連続性を持っているからである。

悟りの本質において、具体の相としての如来、あらゆる真言、印、などの本体は何も無い唯一のゼロ位置(自体)であるが、現世実在側からの適正な操作(加持)により、この[絶対的秘密]側からの表出を可能にするもの(方便)として示されてある。なぜならそれらは悟りの本質の原初の現われだからである。

ゼロであり存在しないものである[絶対的秘密]側から現世実在側に表出されるものは、平等で清浄な状態に必然的にあり、そのように在らないことはない。なぜならそれはゼロの唯一性において完全に平等で清浄な状態に規定されるものとしての実在的反映だからである。

この操作(加持)を具体的に現世実在側の言語で説明することは出来ない。その説明を成す時に、現世実在にあることの必然から平等性清浄性において不完全だからである。


posted by コマプ墨田 at 05:38| 仏教関係調査

2013年08月31日

本来、ここまでの大乗関係調査を元に、

飛鳥国家の論理を徹底追跡調査し、如何に今のこの国の国家論理がふざけているか、本来聖徳太子が見抜き実践しようとした真の仏教国家とは何だったか、これを示す作業でもやればいいのだろうが、全くやる気が起こりませんね。その段階でもう現世的に敗北してるとも言えますか。やっても無意味というのがまずある。全国的に誰にも当追跡調査が言ってる意味など分からないわけだから。

数百年を費やす浄土思想の読み違えの上に成立した国家の末期にあって、それはまったくもって無駄である。現状の一般日本人的には、一番フィットするところで新井満とか五木寛之の極めて安直な空解釈浄土解釈で十分ではないのか。一番安楽に納得しやすいことだろう。というか彼らは世のニーズに丁寧に答えているのである。まぁ考え方によっては、確かにああいうお話でもよいのである。たとえどのようなことであっても、最後の最後に、阿弥陀や、あるいはさまざまな姿をとり現れる仏の救済は保証されているとするのが大乗なのだから。その時、国家などは、既になんの意味も無いものである。

本来国家こそ明らかに実体が無いものであり、かろうじてそれをそれと認識できるものはまさに「国家のダルマ」だけである。国家を具体相として現世側に実現するための方法(方便)として、飛鳥国家は的確に本来の大乗論理(空論理)の中核をそのまま用いようと考えたはずなのである。その誠実な実践以外に国家は具現しないのである。そのように大乗のテキストには端的に書かれてある。

大乗は、自らが所持把握する「図像構造であるところの世界モデル」をマトリクスとして、さまざまな具体相を実現した造形史と共にある。それは仏像や浄土の光景やマンダラ等にとどまらず、あらゆる建造物など、彼らが創作したものの全てに及ぶはずだ。そして、なによりその論理根幹はテキスト全てに反映し人間の生存根拠に及ぶのであり、それが大乗思想である。その延長で大乗が国家を的確に規定する論理を、同じマトリクスの意義から成そうとしないはずは絶対に無い。そのマトリクスから必然的に成される、すなわち大乗の空論理の完全な国家設計への反映、これが飛鳥国家の基本理念のはずである。おそらく聖徳太子と推古天皇の意志に妥協は無く、また論理の読み違えも無い。それを示すものは十七条憲法である。

posted by コマプ墨田 at 06:31| 仏教関係調査

2013年08月18日

法華経を読み始める

いずれ読もうと思いつつ今日に至ったが、とりあえず岩波文庫を購入し、サンスクリット原本からの現代語訳の冒頭二品を読み終える。現実修行の時間にとられ本を読む時間が以前のようにとれないで、のんびりやっていくしかないが、思っていたよりおもしろい。

読む前から、正規題名の「正法蓮華経」の蓮華が意味するものは、当追跡調査が示すところ、大乗根幹である仏像造立論理基盤のマトリクスであることは火を見るより明らかだったが、最初の品でそのとおりであることが把握できる。そのまんまである。気になるのは、正法と訳されるところの「サッダルマ」の「ダルマ」が本当に単に「教え」の側の意なのかどうかである。自分としては、むしろ、より大乗論旨の要点を担う「事象の本体」の意をとる方がしっくりするように思った。この場合、題名の蓮華が示すものはまさにそれそのものだからである。

冒頭二品を読んだところ、大乗の特性というべきことだが、「般若経」由来の「言及論旨の立ち位置移動話術」のドライブ感が、他のテキストにも増して強靭という印象である。眼がくらみそうながけっぷちドライブで、本質を解説するはずの教主論旨は周辺事象側へ反転する。あっけにとられつつ読んでいると、しかしやはり、「浄土経典」同様の強引とはいえ巧妙なレトリックが要所に仕込まれていることが確認できる。「ヘーヴァジュラタントラ」や「秘密集会タントラ」の論法原型のようにも思える。むしろ「ヘーヴァジュラ」などより強引さが際立つ印象であるものの、各種解説テキストの情報からもっと独断的で混乱した内容かと思いつつ恐れていたところより、その意味では意外と普通感覚でもある。

posted by コマプ墨田 at 14:10| 仏教関係調査

2013年04月21日

「大日経 住心品」と「ヘーヴァジュラタントラ 真実品」の連続性

これについて漠然と思いながら数週間過ごしていたのだが、肝心の訳本「密教経典(宮坂宥勝 講談社学術文庫)」が見当たらず確認できず今日にいたるものの、ついに発掘。しかも、重大財産である「密教経典第七巻 (岩本裕 読売新聞社)」も一緒に出てきた。こちらに収められている「大日経」は貴重極まりないことに、チベット訳からの現代日本語訳なのである。「ヘーヴァジュラタントラ(英訳の自前訳)」をからめ早速三書要点領域再確認完了である。

今回の要点というのは、「大日経住心品」の後半である。「ヘーヴァジュラタントラ」は、相当に「住心品」のこの論旨展開を意識してるのではないかという印象なのである。「ヘーヴァジュラ」語法のプレ段階が本体として「理趣経」に見出されるのはそうなのであるが、「理趣経」に比べれば直接度が一見低そうに思えた「大日経」側に、「ヘーヴァジュラ」が絶対依存するところの”般若経由来大乗根幹論法”の究極形態が見出されるのであり、読むほどにそれは「ヘーヴァジュラタントラ」の着眼点を思わずにはいられない次第である。

突っ込んで書くと相当長くなるところだが、要約して書くとこういう話である。

「大日経住心品」であるが、六十心説明を経て以後論旨は、菩薩が現世世俗を脱し浄化していく過程を、大乗標準空論理にのっとりつつ説明し始める訳である。菩薩の修行十段階、六無畏の説明により、空的に現世側から悟りの究極(位置)への連続性と、その"論理上の"到達方法が規定される。ここまでは古層「般若経」発の大乗通常論理の全うな継承であり、驚くべき内容ではないだろう。問題はこれに続く最後領域「十縁生句」の意義である。そこまで合理的に順次展開してきた「悟りへの筋道」であるが、この最終言及において経の趣旨は何をやってるかというと、「言及する自身の消滅(解体)」なのである。おそらく「十縁生句」と「菩薩修行の十段階」の十は対応するものだろう。菩薩修行の過程は、たとえその高位段階といえども(六無畏の究極である一切法平等無畏にてさえ)、現世側から悟り本体へ対する具体(精神性/心)である(そのことを解消しきっていない)。「十縁生句」はその具体をここで全解体しそこまでの自己の言及自体を対的に無効化して終わることを目的に書かれているのである。

あるいはこのような理解。

現世側からの空的論理に根ざす接近の究極にて到達不可能性がついに明らかとなる(到達したならば認識できないので存在しない[補足1])「空本体/悟りの位置」へ、到達不可能であるそれへ向けて、現世側(存在者側)からの観測可能性によって、なお現世側の接近論理の延長上に存在的に思念されえるもの、それを秘密(存在しないから絶対的な秘密としてあるところのもの/ゼロ的にあるもの)と規定し、そこから対的に現世側を再規定するという着想がそこにある。だが、その秘密の領域(真言秘密の門)を現世側から認知するために真言があり、しかもそれは秘密なるものが、存在しない"性質である"ことにおいて絶対的秘密であるがゆえに、それを示す真言も仮のもの(仮名)だと経は示しており、これにより言及は自己解体性(決定不可能性)を自らの中核に突き刺し終わっている。

----------------
[補足1] これにかかわる重要な記述がこちら↓ではないかとの印象である。論旨が非常に不可解であり、現代語として意味が成立していないと言うべき気がするが、それゆえに重大であると推測する。ある種如何にも大乗のノリの風情である。(こちらに関してまた書くかもしれません。)
 ↓
[読み下し文]
秘密主よ、かくの如き初心を、仏は成仏の因と説きたまう。故に業煩悩に於いて解脱すれども、しかも業煩悩の具依なり。世間は宗奉して、常に供養すべし。

[宮坂先生現代語訳]
秘密主よ。このような初めて菩提を求めようと決意した心を、仏はさとりを得る原因であるとお説きになられた。だから、あとに力を残す行為のはたらきと心の迷いを滅して解脱を得ても、しかもあとに力を残す行為のはたらきと心の迷いとを具えている。(このような真言の実践者すなわち金剛薩埵は、そのさとりを求める心をもつがゆえに)世間の人びとが崇敬して、いつもまさに供養するであろう。

(「密教経典」宮坂宥勝 91P)


上記箇所のチベット訳からの岩本先生現代語訳。宮坂先生の訳の括弧内補足箇所は合理解釈化のための意向が加わっている観がいなめないのだが、こちらは素で明瞭な現代語になっている。チベットテキストの性質か?
 ↓
かれらは業と煩悩とを有しながらも、煩悩によって巻き起こされる業より離れている。かれらは世間から供養されるべき者、かれらは常に供養され、崇め尊ばれよう。(「佛教聖典選第七巻 密教経典 岩本裕 62P)


宮坂先生の方向性に反して率直に書くと、ここはツッコミ箇所で、「え、ちょっとここ意味おかしくない? 」と素直に反応した方がいいのではないかと。だいたいにして、こういうのが満載なのが大乗の伝統である。悪く言えばインチキくさい。よく言えば途方もないイマジネーション、脅威の論理の離れ技。まぁ双方でしょうね。


posted by コマプ墨田 at 03:43| 仏教関係調査

2013年02月17日

ラジオ第二の朗読からなぜか浄土思想について考えてしまった件

作業中うとうとしてしまって、気づくと第二の朗読をやってるらしく途中から何気に聴いてたが、どうも海外旅行記のような風情で、なにやら船を待つかなんかでの情景描写だが、その国の若い兵士らのたわいも無い姿を見ての記憶連鎖から、主人公は「国境で取るに足らないことで小競り合いを行ったはてに無意味に双方に死者が出た事件」の記憶に至るのである。そこまで聴いての印象で「この主人公の視座はまるでアレに似てるな」と思い始める。

アレというのは、村上春樹がイスラエルで受賞した時のなんとも得体の知れないコメントのことである。朗読の主人公の視座は「小競り合いなどして死なねばならない者たちの場所」から完全超越してるのだ。だがこっちは聴いて思うところは→「何を悠長な話を言ってるのだ、今や日本人とて明確に全員当事者だ」である。昨日買った週刊新潮の中国関連記事を思い出してる。朗読が終わってアナが題目を告げたら、村上春樹作のなんとかということで、納得。

まぁこういう村上の超越視座は、日本特有にシフトした「浄土思想」に関係してるのは間違いないと見る。この視座は日本では普通である。普通に誰もがそう思って日々を送り生死を見ているのだ。良くも悪くも凡庸であり基本である。新井満の「般若心経」の読みなどもまったく同じものである。まぁ「千の風になって」でもよろしい。「浄土思想」の持つ危険要因をきれいさっぱり日本人は<浄化>してしまった(ことになってる)。しかし実際は彼の大乗師匠らはそのあたり重々承知の上で、かなりきわどい選択に立ちテキストを作成している。この領域の話をやりだすと長くなるので、わかりいい一例だけ書いて切り上げますが。

「観無量寿経」であるが、ここで阿弥陀を見るための観想の説明があり、それは最初、太陽や水や氷のように、名目としては可能そうなところから入るものの、徐々に対象と内容は抽象化していくわけである。要は、現実可能そうな現世近場の観想から究極の延長にある<浄土>の観想に移行していくプロセスが記されている。この表だけを実直に読むと、がんばってこの観想の連鎖上昇をやりとげれば、ついには阿弥陀を見るに至るという話なのだが、そうなると最終的に無限大の阿弥陀と観音と勢至を実体視できなければならない。

要は裏でも読む必要があるということである。つまりこの記述は「無理だ」ということの説明と等しいのである。これが大乗の語法である。阿弥陀は無限大でありゼロである世界構造自体であり、それ自体を見ることも、その総体の中核の視座を得ることもできないものとの大前提があった上で、にもかかわらずテキストのイマジネィションは途方も無い発想で炸裂してしまう。それが大乗である。そのことを「危険要因」と先ほど書いたわけである。

そして「観無量寿経」の場合、帰するところはこうである。
 ↓

「阿弥陀を実在延長で見たいと願う諸君の考え方を尊重し述べれば、以上の方法で行うことになろう。が、可能かどうかというと不可能だろう。となれば、まずそのことを悟った方がよい。諸君らは何も思わずただ阿弥陀の名号を唱えればよろしい。それしか無理なのだから。」

上品上生から下品下生までの往生の分類も同様で、要は、
 ↓

「阿弥陀までの遠い距離の各所には、当然その者に応じた往生の手立てがある。ここに道理全般を一応記するけれども、諸君らは下品以外に当てはまりようがなかろう。そのような凡夫衆生の諸君らにも他のいかなる高位の往生とも分け隔てなく阿弥陀は往生の手立てを差し伸べているのだ。」

という論理である。


超越した視座など「観音菩薩にして得れるもの」だと、大前提が「般若心経」冒頭にきっぱり書いてある。

posted by コマプ墨田 at 00:58| 仏教関係調査

2013年01月10日

「大品般若経」に明確にかかれてある大乗ゼロ論理の根本

平井俊榮先生の「大品般若経」一部現代語訳を確認していたところ、先生選択の訳出箇所の冒頭にいきなりこう書いてあった(下記引用箇所↓)。これは以前自分が書いたところの「大乗総体を貫く基幹論理」の根と言うべき重大な記述である(参照→大乗の発想の深部)。「般若経」で既に完成されたこの認識が「へーヴァジュラタントラ」までも一切変わることなく、思考法の深部基層に不動にあり続けたのである。

菩薩大士は、般若波羅蜜を修行するときに、まさにこのように思惟すべきである。菩薩というのはただ名前だけがあり、仏というのもまた、ただ名前だけがあり、般若波羅蜜もまた、ただ名前だけがあり、物質的存在もまたただ名前だけがあり、感覚・表象・意志・認識もまた、ただ名前だけがある。
舎利弗よ、我もまた同様にただ名前だけがあり、あらゆる我は、けっしてとらえることができない。生物、年寿、生命、生起、養育、数ある構成要素、個我、行為、使役、後の世の業を造るもの・造らしめるもの・受けしめるもの、知るもの、見るもの、これらのあらゆるものはみな、とらえることができない。(そして、このように)とらえることができず、空であるからこそ、ただ名前によって説くだけなのである。
菩薩大士もまたこのように般若波羅蜜を修行して、我を見ないし、生物を見ないし、さらには知るものや見るものも(そのほか種々に)説かれる名前もまた見ることができない。(大品般若経・習応品 141P)


以前の自分の指摘内容も再掲する。

空的把握によっては、悟りの中核である般若波羅蜜多はゼロ(位置)であり、それ自体に本体は無い。般若波羅蜜多への到達によって得るものは何もない。(絶対的に)本体が無いのだから、そのようなものを示すのは(そのようなものが"在る"ことを示すのは)「それを示す記号(像/象徴/印)」だけである。よって、その記号を介した純然な方向確認においてのみ(立場を置くことによってのみ)、般若波羅蜜多への適正な到達経路は見出されるのである。

般若波羅蜜多であれ、阿弥陀仏であれ、法蓮華であれ、諸々の真言であれ、如何なる仏像であれ、全てその向かう先には、本体の無い唯一のゼロ位置が示されているだけである。その「示す印によって示される本体」は存在しない(ゼロ的に存在している)のだから、我々衆生の場からの観測によっては絶対的に把握不可能である。この意味において真理の"本体"(=般若波羅蜜多)は「(絶対的な)秘密」として提示されているのである。そうであるからこそ、その記号こそが重大であり、大乗的救済あるいは世界認識の唯一の手立てと知るべきなのだ。これが大乗のスタンスであろう。


「習応品」で「名前」(漢文では名字)と記されるものは、「示す記号(像/象徴/印)」のことである。示す記号だけがあり、示される本体は存在しない。大乗の特殊性は、この大前提ゆえにこそ、「記号」を信望し、存在しない「本体」側へ向けて信心(修行)しろというのである。この途方もない趣旨、その有り様こそが大乗と知るべきである。彼の師匠らは言語上の思考枠でこの論法に至ったのではない。彼らは現実的な世界構造のモデルに対応して、言語思考での展開を行ったのである。ゆえにテキスト内の調査だけで大乗の本質を把握することはできないと知るべきである。彼らが依拠した現実的な構造(マトリクス)について的確な理解を得ない限り、大乗経典の趣旨(論法)は根幹として意味不明である。

posted by コマプ墨田 at 20:15| 仏教関係調査

2012年11月06日

「大日経」住心品 ←再読

「ヘーヴァジュラタントラ 英訳」解読で、ヘーヴァジュラ師匠の真言へのスタンスを考察し、特に「第2章 MANTRAS」では、通常判断回路からしての着眼ぶっとび具合に唖然とした次第ですが、しかし既に「大日経」にきっぱりとこの原点記述が成されていましたね。時間があればここから突っ込んで追跡調査やりたいところなんですが、とりあえず、津田眞一「反密教学」の対応領域を再読完了といったところ。

posted by コマプ墨田 at 18:47| 仏教関係調査

2012年10月02日

大乗の発想の深部

大乗根幹論理は自身で悟りの本体が存在しないという基盤を打ち出しながら、その存在しない核の周辺に様々な像や語句(真言)や記号(印)を体系的に拡張するといった、総体がある種の実体構造に転じかねない矛盾的な手法をとるのか、ということが自分内で長く最大の疑問としてあった。今さっきその結論が浮かんだ。

とりあえず最も簡略に書くとこういうことである。

空的把握によっては、悟りの中核である般若波羅蜜多はゼロ(位置)であり、それ自体に本体は無い。般若波羅蜜多への到達によって得るものは何もない。(絶対的に)本体が無いのだから、そのようなものを示すのは(そのようなものが"在る"ことを示すのは)「それを示す記号(像/象徴/印)」だけである。よって、その記号を介した純然な方向確認においてのみ(立場を置くことによってのみ)、般若波羅蜜多への適正な到達経路は見出されるのである。


般若波羅蜜多であれ、阿弥陀仏であれ、法蓮華であれ、諸々の真言であれ、如何なる仏像であれ、全てその向かう先には、本体の無い唯一のゼロ位置が示されているだけである。その「示す印によって示される本体」は存在しない(ゼロ的に存在している)のだから、我々衆生の場からの観測によっては絶対的に把握不可能である。この意味において真理の"本体"(=般若波羅蜜多)は「(絶対的な)秘密」として提示されているのである。そうであるからこそ、その記号こそが重大であり、大乗的救済あるいは世界認識の唯一の手立てと知るべきなのだ。これが大乗のスタンスであろう。

posted by コマプ墨田 at 16:30| 仏教関係調査

2012年09月29日

「理趣経」と「ヘーヴァジュラタントラ」

さきほど宮坂宥勝先生現代語訳の「理趣経」をまた読み返して見た次第ですが、前回読んだ時よりも一段回把握の具体度が上がった気がしております。「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」の基盤は「理趣経」にあるという以前からの直感に間違いはない旨確信した次第です。また、意外にもと言うべきか、しかし冷静にちゃんと読むと「理趣経」と「浄土思想」の根幹論旨はほとんど同じである旨、明確に記されていることも確認。というより、これが「大乗基盤の世界モデル(マトリクス)」に対応する「通大乗的根本姿勢」(実存的態度と言いますか)であるわけです。

「ヘーヴァジュラタントラ」では、「ゼロを中核とする世界モデル(マトリクス)」の本質たる「生成と終滅の可逆同値性」に起因し、(それがテキスト形成レベルに積極展開するところ)その独自論法の徹底拡張にて、ついに大乗は「テキストの自己解体的表出(表現)」という事態に到達するわけですが、その着眼のルーツは「古層般若経」に在るわけですが、明らかに「理趣経」はその間を繋ぐ論旨を明瞭にもつものです。これは恐ろしいほど的確に前後テキスト双方に対応しています。「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」の最重要キーワードである「秘密」「身語意」「清浄」「平等」などの用い方、これは「理趣経」にて、まさに原型と言う他ない現われを示しています。「ヘーヴァジュラタントラ」で過剰拡張されるテキストの可能性は「理趣経」ではより単純に現われており、しかしその本質を方向付けているのは、確実に「理趣経」なわけです。「ヘーヴァジュラタントラ」はその根幹を全く変化させていないと言えるように思います。

今回の「理趣経」再読で「なるほど、ここが急所だったか」と再認識したのが、第十三段の「七天母の教え」の意義です。要はここで「現世側に表出するマンダラの機能(能動)を支配するのは女尊集団である」(あるいはそれ自体である)ことを定義している訳です。この第十三段の前までに、現世具現諸相がことごとく空であり、その中核の諸仏の位置たるゼロ地点の清浄性に応じて相互可逆的に空(ゼロ)に同値するという世界図式の"仏側からの現世衆生に向けた"言及がある。さらに、その「空(ゼロ)と現世具現相」の対応が諸尊の組織(マンダラ)を介してあるという(十二段までの)定義に対し、これを規制する別の側面、あるいはそれを形成する別のもの(独立要因)があるという展開を成しているわけです。すなわち七天母であるところのそれは「空の論旨を担う仏の域と分離されて言及すべきもの(論理的にそうせざるを得ないもの)」といった根底趣旨から表わされており、これはそのまま「ヘーヴァジュラタントラ」に通じ拡張されているわけです。当追跡調査はこの視座を根幹に、「理趣経」は本質的領域で「へーヴァジュラタントラ」の論旨形成プロト段階を示していると把握する次第です。

「浄土思想」との論旨根幹一致は、最後領域の「百字の詩頌」に明確です。

永遠の求道者にして、すぐれた智慧ある者は、迷いの世界がなくならない限りそこにあって、絶えず人びとのためにはたらいて、しかも静まれるさとりの世界におもむくことがない。(現代語訳)


成就に値う者があえて涅槃の完成を避け、現世側に留まり衆生の救済を成すという設定、大乗は「基層世界モデル(マトリクス)」の特性である「ゼロ位置とその統治による周辺領域の拡張展開(その相互性)」に応じて、人間存在の意義を優位とする記述を選ぶわけです。対峙する世界モデルを現世主軸に引き込む人間主体の強引な論法とも言えます。ただこうした人間主体の論旨は、テキストの表層ではかくのごとく映るように、巧妙に意図されているというべきで(だけで)、大乗の本領は「ヘーヴァジュラタントラ」に明瞭である「意味の二極性(論法)」にあります。「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」はそれをテキスト表層で同等に矛盾的に扱うもので、テキスト表層を駆け巡る「意味の力学」として表されるわけですが、この発想以前の通常大乗の場合、一方の領域の多くを深層に納めているということです。表層で人間主体に現われる記述は、常にゼロ側主体に読めるように表わされている。「理趣経」で問題となる「もしこの理趣を受持し読誦することあらば、たとい三界の有情を害すとも、悪趣に堕せず」等の記述意味はこのことを把握して捉えるべきものです。要するにこれは「ゼロ側視点ではそうなる」という性格の記述であり、現世側主軸に展開するテキストの表層に矛盾かつ唐突に差し込まれている風情ですが、むしろこの様相は「理趣経」が「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」にへの過渡的状態を示すと捉え得る要因です。あるいはまず「理趣経」に極端に現われたこの語法が、「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」の語法着眼の発端であるようにも思えるわけです。

posted by コマプ墨田 at 03:16| 仏教関係調査

2012年09月01日

ゼロとその周辺 大乗思想本体

これについての自分の言及は根幹部において間違いはない。合理的な裏づけ資料も充分すぎる内容で提示されている。そうであってもこの調査の妥当性を受け入れる学術領域はないかもしれない。自分にとってはこの調査の20年の蓄積によって、昨今の展開はあまりに普通の事柄の繰り返しになっている次第なのだが、世間にとっては、そのどの部分をとっても、通常の仏教理解歴史認識を逸脱した怪しげなものに映っていることだろう。歴史の未解明領域を一気に追求できる材料がありながら、それより本質から遊離しているガイドラインが延々温存され続けることは非常に残念なことである。

posted by コマプ墨田 at 07:13| 仏教関係調査

「無量寿経」梵文和訳を読んで最重要領域を把握。

極楽浄土に往生しても、実はそこに二種の在り方があり、その決定的な違いを記す段。ここに阿弥陀思想の根幹がある。それは大乗の端緒、すなわち最初期「般若思想」の本質から合理展開した解釈であり、あるいは後に「ヘーヴァジュラタントラ」に先鋭化する「ゼロに統治される世界図式(ゼロ的存在論)」の先行する別形体とも言えるものである。恐らくネット内に、この個所の重要性に関わり言及されたサイトがあると踏んで巡回したところ、ほどなくこちら様↓に到着した。漢訳からの現代語訳であるが、該当個所が全て引用されているので、これを参照して頂きたい。
 ↓
一切衆生は必堕無間なのか2

要するに、極楽浄土とは、「悟り」あるいは「往生」の完全なる到達位置である「構造のゼロ位置」の周辺近傍を表現しているのであり、経はそこから完全な「ゼロ位置」である阿弥陀仏の位置への合流(入滅)、これに疑いを持ってはならないことを強調するのである。梵文現代語訳では、二種の往生(周辺段階)に対して、「蓮花の中に化生」と「蓮花の萼の住所に住む」との区別をもって記しているのであるが、後者の「萼」とは注釈によれば「ガルバ=蔵」のことだという。そうであれば「蓮花の萼」とは「蓮華蔵」に同じということになろう。とあれば、二種の往生とも実はやはり同じく、すでに当追跡調査が明らかとするところの「マトリクス(ゼロ的拡張空間/構造)」に合流することに関して一貫した観点に根ざして記されているということである。その上での差異を経は重視しているわけであり、即ち、完全なるゼロ位置に一致する阿弥陀の存在(性)を確信することこそが本質である旨を述べるのである。これは「般若経」における「般若波羅蜜多に疑いを持ってはならない」旨の強調と一致すると言えよう。

極楽浄土の具体相は「無限なのだから本来述べるのは無理なのだが、現世の思念でしか意を汲み取れないであろうところの諸君らの為に略説すれば」ということである。今回「浄土三部経」を通読したのだが、途方も無い論理であることを再確認した次第である。しかしそうは言っても、「般若経」が打ち出した大乗の原点に着実に積まれたものであることは疑いようがない。幾つか他にも思うところがあるのだが、最も重要なのはこの個所と読む。

また上記参考サイト様に、「隆寛律師の著された『自力他力事』」の引用があるがこれが興味深かった。
 ↓
そのうへに弥陀の本願をつやつやとしらざるとがのあるなり。さればいみじくしえて往生する人も、まさしき本願の極楽にはまゐらず、わづかにそのほとりへまゐりて、そのところにて本願にそむきたる罪をつぐのひてのちに、まさしき極楽には生ずるなり。これを自力の念仏とは申すなり。

とあります。自力念仏の人は、極楽のほとり(化土)に往生するということです。


「極楽のほとり」とは実に「極楽」なるものの本質を言い切った語である。この「ほとり」と中核にある「ゼロ位置」との(動的な)関係図式こそが大乗を貫く主題本体なのである。

posted by コマプ墨田 at 06:34| 仏教関係調査

2012年08月12日

「浄土三部経」を読み直す

以前に確認レベルでだけ読んではいたが、「ヘーヴァジュラタントラ(英訳テキスト)」を細かく読解したので、こちらをきちんと読みたい気力が生まれ、梵文和訳を一句一句確認しつつ読んでいる。再三書いてる事の繰り返しだが、「ヘーヴァジュラタントラ」が描く悟りの空間構造も、浄土思想の極楽浄土も、本体は全く同じものである。そしてそれら全ての根幹は「般若経」が確立した論旨に帰す。またそれは、当追跡調査が長く提示してきている「無限連鎖構造/マトリクス」の分析探求から発生したものである。大乗仏教の本体は単純明快にこれらに帰すことは間違いない。この大乗が捉えた「場所」は、ゼロの拡張の始まり、あるいは実在総体がゼロに滅しきるまでの最終、であり、それは限りなく完全なゼロでありながら、だが(現われるものとして)かろうじて完全なゼロではない、われわれ現世衆生が実在的に理解できる実在的性格をも担うゼロ(ゼロのステイタス/ゼロの実在的側面)なのである。浄土思想もまたこのことの言及への容赦ない情熱としてあり、その根幹論旨は三部経の内にきちんと書かれ、それらの的確な場所に収められている。しかし、極楽浄土を我々衆生の現実の超越的な延長と捉えるだけの単純な眼からはこのことは全く把握できないだろう。

大乗が依拠する「無限連鎖構造/マトリクス」
(解説用斜体シフトバージョン)クリックで高解像度図版

matrix4s8r0601b.jpg


既に当追跡調査が解析済みの「法隆寺金堂壁画阿弥陀浄土図」であるが(→こちら)、繰り返し述べるが、これも大乗論理を正確に受け継いだ造形である。マンダラも仏像も大乗造形は全て同じ構造を吸収して具象されており、そうして作られたものだけが大乗においての"仏"の像なのである。

posted by コマプ墨田 at 13:29| 仏教関係調査

2012年07月23日

英訳「ヘーヴァジュラタントラ」第一儀軌最終章で、おそらく師匠の「素の確認」

解読作業中にも気にしてはいたのだが、テキスト根幹の内容ではないので実況書き込みはしなかったのであるが、実はこういう記述が最終章にあるわけである。

(6) Having perfected the four gazes, the yogin should bring about the salvation of all beings. Actual slaying should not be done as that would be indeed a breach of the convention.

4つの注視を完全化したので、ヨガ者は全衆生の救済を起こすべきである。現実の殺害は、それは実際には慣習の侵害だから成されるべきではない。

(7) All things not done may here be done except for misleading living-beings. One does not obtain the perfection of the sign by simply harming living-beings.

成されない全ての事は、ここでは、衆生を誤りに導くことを除いて、成されてかまわない。その者は、単純に衆生を害することによって、サインの完全化を獲得しない。


前の章でも、殺人や人肉食に関わる表記については、さすがに師匠も最低限の予防線を残してるようでもあるが、この記述はより明瞭ではないか。要は、ヘーヴァジュラの視座において可能だからと言って、諸君ら凡夫衆生に”実際には”それが該当するわけないという確認である(補足1)。ヘーヴァジュラはゼロであり、それにおいて清浄であり無分別であるのだから、それゆえに、それゆえの存在者(ゼロ的存在者)により「成されていない全ては成されてかまわない」のである。

-------------------------------------
補足1:
(6)の記述は、テキスト主軸戦略に向けた究極の大矛盾引き起こしである。他所で延々過激記述してきた通常の価値基準の無効化であるのに、ここでは「一般社会の常識に基づいて考えろ」と言ってるのだから。

posted by コマプ墨田 at 03:21| 仏教関係調査

英訳「ヘーヴァジュラタントラ」自前翻訳で通読中

不可解個所や誤訳っぽい個所を確認し、要所を漢訳と照らし合わせつつ、通読してるところだが、やはり漢訳は意図的とも思える傾向で、英訳にはっきり現われている、元テキストが有する(はずの)「般若波羅蜜多(中核の絶対性)と現実的拡張(相対領域)との可逆同値性」への核心的記述箇所を、前時期の一般的な空論理表記にシフトさせているようである(補足1)。これは、特に性的過激表現だからということではなく(補足2)、つまり、英訳にはっきりしてることだが、元テキストのターゲットである世界モデルの性格の要点、上述の「可逆同値性」への徹底食い込みが、必然的に通文脈としての矛盾記述を成しているため、補正的にそういう解釈的選択を選んたのではなかろうか、という気がしている。今のところ、漢訳には、英訳側で確認できる核心的数個所において、共通した選択がある印象でいる。漢訳はこうした選択の結果、元テキストの最も本質的な深部を示しきることを逸していると言わざるを得ないかもしれない。元テキストは、意図的積極的に通文脈として矛盾する記述を随所に引き起こし、それ自体を言語表現上の可能性として活用し、その手法によってのみ表わし得る「マトリクス本体」のあり方(本質)に肉薄することを狙っているのである。しかし、漢訳がそうした元テキストの革新個所でどのように前時代側にシフトしているかを英訳側と照らすことは、英訳側に現われる矛盾表記が何に対しそうであるのか、その必然を読み解く為の実に有効な材料となろう。

----------------------------------------------------
補足1:
ただし、常に指摘してきたように、「ヘーヴァジュラタントラ」もそれ以前の大乗思想も、根幹は「般若経」が確立した同じ論理の派生であるから、漢訳テキストのシフト翻訳は解釈的意訳としての合理性が保たれている。

補足2:
解説文献が伝える内容からすれば、英訳も性的過激表記個所にはフィルターがかかってるように思える。

posted by コマプ墨田 at 02:34| 仏教関係調査

2012年07月07日

英訳「ヘーヴァジュラタントラ」第一儀軌の翻訳終了(ニ儀軌読破)

第8章までの展開にさらに積んで、第9章、第10章とすさまじい強引さと言うか、徹底した食い込みを見せる内容で、それにともない言い回しもかなり無茶じゃないのかと思える風情であり、英文でも通常の文法で処理できない原文側を想像させる具合であり、明確に意味が掴めない個所も多数あるのだが、全体としては内容把握したつもりでいる。

第9章 THE SPHERES OF PURIFICATION (浄化の領域) は、まさに大乗の具体的世界モデル(マトリクス図像)に対応する論法たる「悟り(=般若波羅蜜多=ゼロ)と現世具現の可逆同値性」および「教主の言及地平の常時転移」をこれでもかとやりぬき、言及表層では矛盾炸裂の崩壊寸前のドライブを成すのである。師匠的には「この崩壊寸前の爆走ぶりをとくと見よ!我らの伝統を」とでも言いたいがごとくである。そうした装置の中核、万能ツールのごときものが「浄化」や「平等」や「無分別」というキーワードになる。率直に言って、まずこれらの語が出たら警戒すべきである。間髪入れず言及の地平が切り替わって、それが短期に繰り返されたりするのだ。まともに読んだら「今さっきそれを肯定したではないか!」とかなってしまう。もちろんこれぞ「可逆同値性」の産物で、こうして発生する矛盾や意味の分らなさを、ヘーヴァジュラの師匠らは何とも思ってないばかりか、「これが大乗の伝統、いわば根幹である」とばかりに、それで可能なテキストの可能性を徹底追求するのである。第9章の要所、金剛蔵が教主に正攻法の疑問をつげていくわけだが、教主は「可逆同値論法」で、論理面で極まるやいなや、話の方向性を象徴解説側に転じてしまう。そしてトートロジーが炸裂し金剛蔵が投じた極めてまともな論点は粉砕されてしまう。

(3) Their purification consists in self-experience, and by no other means of purification may one be released. This self-experiencing, this bliss supreme, arises from the pure condition of the spheres of sense.

それらの浄化は自己体験にてあり、浄化の方法以外によってその者は開放されないだろう。この自己体験、この至上の至福は、感覚領域の純粋な状態から生じる。

(4) Form and so on and whatever other spheres of sense there are, for the yogin all these appear in their purified condition, for of Buddha-nature is this world.

ブッダの本性がこの世であるがゆえに、形(色)などや他の存在する感覚領域のどんなものでも、ヨガ者にとっては、これら全てはそれらの浄化された状態で現われる。

(5) Vajragarbha said:
'O Lord, what are these things unpurified?'
The Lord replied:
'They are form and so on. And how so ? Because of
their nature as subject and object.'
Vajragarbha said:
'What are these subjects and objects ?'

ヴァジュラガルバが言った。
「おお 教主よ、それらの浄化されていないものとは何か。」
教主は答えた。
「それらは形(色)などである。もちろんそうではないか。主観と客観としてのそれらの本性からして。」
ヴァジュラガルバが言った。
「これらの主観と客観とは何か。」

(6) The Lord replied:
'Form is perceived by the eye, sound is heard by
the ear, smell is perceived by the nose, and taste by the tongue, 'tis sure;

教主は答えた。
「形(色)は眼によって把握され、音は耳によって聴かれ、匂いは鼻によって把握され、味覚は舌によって、それは確かである。

(7) things are sensed by the body and feelings of pleasure and so on are received by the mind. These are worthy of indulgence and should be indulged, when once rendered innocuous by purification.

身体と快楽などの感受性から知覚されるものは心によって受け止められる。これらは耽溺にふさわしく、一旦浄化によって無害にされたなら、耽溺されるべきである。


要は、ヴァジュラガルバは、現象界からの絶対的変換をもたらす浄化と現象界側の具現存在との関係をツボをついて論理的に追及しているのであるが、教主はとんでもない巧妙さでその論旨転換を成す。(6)では浄化という絶対側の相を説明する根拠が具現領域側に担わされてしまう(トートロジー回路発動)。そしてそれを軸にとんでもない展開となり(7)の論旨を導いてしまうのである。その先は当然女神やら何やらの象徴項目炸裂となる。まさに表層を読むならば詭弁と言う方がすっきりするまくしたてなのだが、もちろんこれは、この手法を駆使し、最終的に依拠する世界図式の「可逆同値のあり方」本質を示す目論見たる、一段上位の論理に主軸が在るからやってるのであり、その「隠した根幹」に乗ってテキスト内の自己解体的構築が成される。結局この章、教主立ち位置の錯綜、象徴解説に行ったり、五蘊関係通常大乗論旨に戻ったり大立ち回りの風情であるが、最後、通常空論理の感覚器官の非存在項目羅列の伝統的表記形式風に至るわけだが、ところが、何気にそれらに紛れ込ませ、なんと浄化自体も存在しないと言うに及んでいる。(漢訳ではそうなっていないような風である。普通の論法で考えたらさすがにあり得ないので直したのだろうか? 要検証事項。)
この章の論旨中核は(19)にある。浄化という語で表出される彼らの依拠する世界図式の可逆同値性のことを端的に言い切っている。その即座に、その不在の根拠が浄化にあるとする。ここでは双方の浄化にレベルがあるように読めるが、これは空論理延長で判断すればそうではない。最も重要なのは矛盾的に現われるこの相互性にこそある。もちろんこの論法の本質は自分常々言ってるように、古層大乗からの伝統のまことに素直な踏襲である。(が、英文が厄介すぎて訳は間違ってるかも。)

(19) That by which the world is bound, by that same its bonds are released, but the world is deluded and knows not this truth, and he who is deprived of this truth will not gain perfection.

世界が拘束されるところのそのこと、同じそのことによって拘束は開放されるが、しかし世界は欺かれ、この真実ではなく認知し、この真実を奪われている彼は完全化を得ないだろう。

(20) So it is said: "No smell, no sound, no form, no taste, and no purification of thought, no touch, no substance, for the world is essentially pure by a universal purification. Ah, I know the world."

だから言われる。
「非-匂、非-音、非-形、非-味、そして、思考の非-浄化、非-触覚、非-実体、と、世界は普遍的浄化によって本質的に純粋であるがゆえに。ああ 私は世界を知る。」


第10章 CONSECRATION (神聖化)、は第9章の爆走具合に比べると多少大人しいというか、第一儀軌の最終過程に向かって多少減速モードかと言う風情でもあるのだが、だがここで重大きわまりないこれが積まれてくる。同じ要点の4段説は前のどこかの章に既に出ていた。最初の3つ1組と最後1つが対になっているのである。もちろんこれが灌頂の4種に対応してないわけがない。ここで言ってる「the Joy Innate」が第四灌頂に対応するはずだ。それは現世のものではないのであり、世界構造の本体中核にあるそれ自体で、もちろん彼らの論法で行くなら、存在しないものであり、すなわちゼロであり、存在しないので秘密であるもの、そういう論拠により「在り得る」言及であろう。これを聴いて一切如来まで卒倒するわけだが(第二儀軌では女神らが卒倒)、これは「秘密集会タントラ」の同様設定をまんま持ってきてるわけだが、「ヘーヴァジュラタントラ」の方は「秘密集会タントラ」とちがって、聞き手側に一切如来の相でキャラクターが出てきてないのに、ここだけ、まさに倒れる為にだけ出てくるかの不自然さであり、これをどう考えるかであるわけだが、ここは師匠としては、「伝統どおりに同じ山場だから、設定も同じでわかりやすかろう、どうだ」というような具合に思えてならない。しかも直後にその一切如来で教主ヘーヴァジュラの身体が出来てるとまで書くだろうか、普通。

(13) First is just Joy,
Secondly is Joy Supreme,
Thirdly is the Joy of Cessation,
Fourth is the Joy Innate.

最初にまさに歓喜がある。
第二に究極の歓喜がある。
第三に停止の歓喜がある。
第四に先天の歓喜がある。

(15) The first Joy is of this world, the second Joy is of this world, the third Joy is of this world, but the Innate exists not in these three.

最初の歓喜は現世のものであり、第二の歓喜は現世のものであり、第三の歓喜は現世のものであり、しかし先天性はその3種ではなく存在する。

(14) Hearing this, all the buddhas, Vajragarbha and the rest, were seized with the greatest astonishment and fell senseless to the ground.

これを聴き、一切如来、ヴァジュラガルバなどは大いなる驚きにとらえられ、意識を失い地面に倒れた。

(16) Then the Lord Hevajra whose form comprises all the Buddhas, said these words for the arousing of Vajragarbha, and which were a wondrous cure for their astonishment.

それから、一切如来からその形がなるところの教主ヘーヴァアジュラは、ヴァジュラガルバの目覚めの為に、彼らの驚きに対するすばらしい回復法であるこれらの言葉を言った。

(17) 'Neither passion nor absence of passion is found there, nor yet a middle state. Because of its freedom from all three the Innate is called perfect enlightenment.

執着も執着の不在もその中間状態も無いと言うことが見出される。それは全3種からの開放であるがゆえに、先天性は完全なる悟りと呼ばれるのである。

(18) The essence of all things and yet free of all things one may mark it at the beginning of Cessation, but from those other three Joys it is free.

万物の本質と万物の今のところの自由、その者はそれを停止の始まりに印付けてよいが、しかしそれは他の3種歓喜からは独立している。


第10章はマンダラの形成がらみで展開してるが、読んでもその具体にさほどインパクトは感じない。マンダラの本質は第8章で炸裂済みである。

後半またヴァジュラガルバの鋭い疑問を象徴言及領域においやる展開あり。この対告衆が本質をついてそれをきっかけに教主が言及基盤を切り替えるというパターンは直接は「秘密集会タントラ」の直系であり、だがその原型は「般若経」である。要はこれも大乗の伝統なのである。
 ↓
(37) Vajragarbha then said: 'But how, Lord, should the group of skandhas come about ?'

次にヴァジュラガルバが言った。
「教主よ、しかしどのように蘊の一群は生じるのか。」

(38) The Lord replied: 'At the union of vajra and lotus, earth arises there from that contact with the quality of hardness.

教主は答えた。
「金剛と蓮華の融合にて、堅牢な特性との連絡から大地がそこに生じる。」


第11章は第2章を髣髴するものがある。暴力的エンディングである。しかし、例の七生人のトピックにここで一刀両断入ってるのが特筆であろう。これは参りました。ヘーヴァジュラに到達した成就者=七生人であり、まさにヘーヴァジュラにおいて自他の区別はないので、喰う者も喰われる者も同じ者の別相(現世に向けて言うならば)というキメがここにくる。

Then one should mark out a 'seven-timer' with the characteristics recounted in Hevajra.

次に、その者は、ヘーヴァジュラにて数えなおされる特性にともなって「7の時計」に目星をつけるべきである。

(10) In the seventh birth there comes about that perfection, making of no account the Joy of Cessation (which precedes it).

(先行するところの)停止の歓喜は換算せずに、七回の誕生にて完全化は生じる。

He has a fair-sounding voice, beauteous eyes' and a sweet-smelling body of great splendour, (11) and he possesses seven shadows. When he sees such a one the yogin should mark him out. By the mere eating of his flesh one will gain at that moment the powers of an aerial being.

彼は魅惑的な響きの声、麗しい眼、大いに見事な甘く香る身体を持ち、7つの影を有する。彼がそのような者を見る時、ヨガ者は彼に目星を付けるべきである。彼の肉をわずかでも食べることで、その者は大気中の存在のパワーをその瞬間に得るだろう。


英訳での第一儀軌最後のここはまったくもって、第2章のノリと言う他ない。ただ、漢訳を見ると漢訳はここで終わっておらず(追記1)、この個所が中間ぐらいにある。また、第9章の上記引用個所(19)(20)の超重大個所も、非常に興味深い見解のズレとでも言うべきことが英訳漢訳間で現われており、逆に元テキスト側の根幹部を手繰る要因になる予感がある。

(14) By merely meditating upon her one brings the threefold world to subjection. By 100,000 recitations of her mantra one reduces kings, by l0,000 the people, (15) by 10 million cattle and yaksas, by 700,000 the titans, by 200,000 the gods, and yogins by 100.

彼女をただ瞑想するだけで、その者は三世を支配に至らせる。彼女のマントラを10万回復唱すればその者は王を征服し、1万回で人間を、10ミリオン回で牛とヤクシャを、70万回でタイタンを、20万回で尊天を、100回でヨガ者らを征服する。


-----------------------------------------
追記1:
後日漢訳と照らしての通読確認で、英訳の「第1儀軌-第11章」は英訳「第2儀軌-第1章」の前半領域と結合して漢訳「第十一」となってることが分った。英訳の「第2儀軌-第2章」後半領域が漢訳「第十二」となっている。



posted by コマプ墨田 at 02:36| 仏教関係調査

2012年06月30日

英訳「ヘーヴァジュラタントラ」第8章 ヨギーニの一団 まで翻訳完了

前半は非常に明確に、造形側起因「大乗基層マトリクス」とテキスト側「悟り(ゼロ)を中核とする世界図式」の重ね合わせ根幹域具体が露呈する内容である。後半域は、この素の基盤から、大乗独自の世界像説明図式への推移拡張という論旨に展開する。その内容は、やはり、古層大乗からの伝統論法である「悟りと現世具現との同値可逆性」と「言及主体の二重立ち位置性」をそのまま踏襲したもので、本質として古層「般若経」の拡張ヴァージョンである性格を明確に示している。この章は英文としても言い回しが普通ではないところが多い印象で、英訳側の文意から原文の具体内容が今ひとつ見えないところが多いのだが、原文自体が本来は通常の言葉の用い方では言い表せない論旨を、アクロバットな手法で(それを楽しみながら)扱っていることに由来するのかもしれない。ただしその根幹は、上記の「悟りと現世具現との同値可逆性」における世界構造、すなわち「ゼロを中核としゼロに集握し滅することと、そのゼロが統治し拡張する具現空間の同値可逆性」であることは間違いない。それは大乗造形総体に一貫する現実的な造形上のゲージである「合理的な円の集積による作図理論」に全て依存している。この章の前半はその事実を明確に示す証拠的性格を担ってすらいる。後半部の総合論旨解読は簡単にいきそうもないので、もう少し多角的に考えてから書くとして、事態がはっきりしている造形側直結の要所のみを指摘しておきたい。

(1) Now I shall explain the circle of the yoginis. Concentrate upon the triangle of origination in the midst of space, and then perform this meditation at its centre, first the figurative representations of the four elements in their right order - in the due order of appearance of the divinities.

さて、ヨギーニらの円(集団)を説明しよう。空間の中央で原点の三角形に集中し、それからその中心でこの瞑想を行いなさい。最初に、神聖(天尊)の出現のしかるべき秩序、それらの正しい秩序の4つの要素の象徴的表現を。


circleにあたる原語が円と集団の両方を意味する語であれば十分なのだが、漢訳の該当品は「大相應輪品」であり、内容も円(輪)と限定して約されているから元テキスト側の語はcircle=円にあたるものだと考えてよい。ヨギーニらの集団構成とは、第一義において基盤マトリクス作図の現実的円構成から得た隠喩である。このセンテンスで「正しい秩序」と述べる意味は、この背後本体の「正しい作図法」に直結している。


(3) The mandala which now arises pure and unblemished from the triangle, consists of two concentric parts, one formed by the eight central petals of the lotus, and the other by the triangle.

三角形から純粋で汚れなく今現われたマンダラは、2つの同心の部分からなる。一方は蓮の中心性の八花弁により構成され、もう一方は三角形により構成される。

上のこのセンテンスは「造形側マトリクス作図法」の特性をあからさまに述べるも同じ内容と成っている。マトリクスの作図の最初の描出は、正三角形を作図することであり、この完了から次なる主要過程である正五角形の作図が可能となる。それを完了させて単位図形が完成する。この単位図形は独自の「縮小連鎖法」によって内部(あるいは外部)に無限に連続作図できる(現実の造形は3段階が主流であろう)。この連鎖作図法がゼロ概念を導く主因となる。この連鎖構造を放射状に組んだものが大乗造形の具体デザインのゲージとして用いられる。これはマンダラのゲージでもあるが、実際はこのゲージ自体が根本のマンダラであり、その説明は「ヘーヴァジュラタントラ」内に記されてあると言うべきである。「the eight central petals of the lotus / 蓮の中心性の八花弁」は、具体描画されたマンダラで言えば8放射のデザインにあたるが、これをゲージ側で指摘すれば前述の縮小連鎖ユニットの放射構造にあたる。正三角形の作図を原初に形成されたユニットを一次過程とすれば、さらにそれを放射状に組む操作は二次過程となる。テキストはこの特性を読んで書かれている。ここで述べている「ゲージ=マトリクス」の具体内容と作図法はこちらを←参照頂きたい。


8con-無限空間-平面図075-up.jpg

マトリクス 8放射状バージョン


冒頭の表層をほとんど剥いだかの記述の次に、いよいよとばかりにその素の上に女神らの放射構成が描かれていくわけだが、ひとしきり固まると、そこまでのまとめのような詩句が二列に記述されている(ここでは上下に配置)。


(26)(27)
In space
is the triangle;
here meditate.
Thence the circles
in right order,
and the divine forms
appearing in due order.

空間に
その(特定の)三角形がある。
ここで瞑想せよ。
正しい秩序にある円群、
そこから、
天尊は形を成す、
正当な秩序で出現しながら。

In the lotuss
lies knowledge;
here is union.
Thence bliss
self-experiencing,
which is bodhicitta
and is sukra.

蓮華の内で、
知恵(の状態)にあるところの。
ここは統一体である。
自己体験する至福、
それゆえに、
それは菩提心であり、
sukraである。


原語記述のsukraとは、こちらサイトによれば、英語の clear や pure ほどの意になるようでもある。菩提心に併記されるのであればこれは納得いく。現状自分内で明確ではないこととしておく。ただこの個所の論旨は全体としては明確と言える。ニ領域の最初の方は、正確に作図された「ゲージ=マトリクス」から現実的尊格像が彫刻あるいは描画されるという、大乗造形創作の実態を示すも同じである。テキストは「マトリクス」の性質と役割を、理念側に転じてマンダラと具現世界の関係、世界像として引き出しているのである。この着眼は大乗総体の根幹であり「ヘーヴァジュラタントラ」に特殊ではない。最初の句側が「マトリクス」の最も素の相に密着するを示すに対して、もう一方の句側は、その円の構造が蓮華という現象界側の感受対象(隠喩)に転じる原初を示しているように見える。最初に述べられるところの三角形と円の統一体、その本質は、悟りに向かう思念の相対性からたどった場合、根幹の「知恵(般若波羅蜜多)」だと設定されるにふさわしかろう。最初の句は「マトリクス」自体の根幹を可能な限り素の状態で記したものであり、世界図式的には尊格の出現根拠が何か(その絶対性)という義かもしれない。もう一方の句はその領域が隠喩側(現世具体側)に転じる原初域、ヨガ者が可逆をもってたどる経路の究極位置の相として記されてある、ような印象である。

この対の句に対応して以下の論旨が展開している。要するに、前者を方便とし後者を知恵とする、大乗根幹の連動回路のくだりである。

Therefore twofold is the Innate, (28) for Wisdom is the woman Means is the man. Thereafter these both become twofold, distinguished as absolute (vivrti) and relative (samvrti).

それゆえに、知恵(般若波羅蜜多)は女性であり、方法(方便)は男性であるところの、対の要因は先天的である。したがって、これら双方は、絶対的なもの(vivrti) と相対的なもの(samvrti) を区別するところの対の要因となる。

(29) In man there is this twofold nature, sukra (relative) and the bliss arising from it (absolute); in woman too it is the same, sukra and the bliss arising from it.

男性にて、sukra(相対的な)とそれ(絶対的な)から起こる至福との対の要因から成る本質があり、女性にても、sukra(相対的な)とそれ(絶対的な)から起こる至福は、同じである。

(補足: sukraの意味がclearだとして、補足語のrelativeはsukraの本質に関わり、absoluteはbliss /至福に関わり付加されているのかも? sukraが要は漢訳側での清浄という語なのだろうか。おそらくそうだろうという気がしてきたところである。)



この絶対と相対の連動回路(可逆同値性)を駆使する現実的なテキスト戦略、その特殊性が大乗仏教の根底に確固と存在し、再三述べるように「ヘーヴァジュラタントラ」も「秘密集会タントラ」もこれを大きく離脱するものではない。初期大乗からの造形理論の展開過程を見ても、歴代師匠らは絶対に独自の勝手な書き換えなどしないのである。論理の根幹は1000年を経ても変わらず、展開は必ずや伝授内容の合理に対して妥当な拡張可能性が見出された場合のみ起こる。それが大乗造形のみで言っても優に1000年以上護られているのだ。恐るべしである。「大乗のみ」というのは、この造形史のオーダーは大乗発生より遥かに過去にたどるからである。

-------------------------------------------------
参考: 大乗造形遺品他主要解析図版


posted by コマプ墨田 at 00:04| 仏教関係調査

2012年06月25日

英訳「ヘーヴァジュラタントラ」第7章 秘密のサイン を翻訳 

一般にネガティブ面の指摘を受ける中枢である、死者の肉を積極的に食せと言う命題のある章であるが、案の定、的確なカウンター論理が、(巧妙というよりあからさまに)埋め込まれている。カウンターと言うよりこっちが主であり、文言表層が罠であるわけだが。

テキスト総体の仕掛けが一義である以上、これまで見てきた「彼らの伝統語法」にこのヤバイ文言が従してないはずはないのである。とはいえ、ここは彼らの「語法」としても究極の際どいドライブになるので、師匠としても念を入れておこうかという風情充満である。うまく正体をはぐらかして強引極まりなく地所を広げている他の随所に比べて、この章は最終領域にて依拠する本体図式側の完全披露になっている。

前半領域のヨギーニとのサイン交換とピータの地所関係は、とりあえずおいとかせてもらう。特に地所の仕組み解説箇所は原語での単語記述が多くその解読がままならぬ次第もあり、まずはテキスト根幹に刺さる重要度として格段に高い後半領域の話に向かいたい。

後半で問題の、絞首刑者、戦死者、七生人の肉を得て食すべし、との命題の後にこうある。
 ↓
The act of slaying is performed, accompanied by the strenuous arousing of compassion.
(22) Without compassion one cannot succeed, and so one should arouse compassion. By this best of methods the activity of evil is stopped.

殺害の行為は、慈悲の激しい目覚めに付随し、実行される。
慈悲が無ければその者は成功できないので、その者は慈悲に目覚めるべきである。この最高の方法により悪の活性は停止させられる。


このあたりを表層どおり確固と捉え、「慈悲に基づき必要とあらば殺人もありえる(肯定派)」「慈悲ゆえに現実の殺人が肯定されるとは如何なる論理なのだ(否定派)」との文言に従順な読解を危惧してか、これをその場で止する意を含み、即座にテキスト言及は、表層モードを全て脱いで自己の依拠する本体高次を披露しているようでもある。

こうある。
 ↓
(24) There exists nothing one may not do and nothing one may not eat. There is nothing one may not think or say, either pleasant or un-pleasant.

そこに、その者がしてはならないこと、その者が食してはならないものは、何ものも存在しない。そこには、考えたり言ったりしてはならない何ものも無く、快も不快も無い。

つまり、わざわざここで「人がすること総体」の代表格に「食する」を出してるのは、「とにかく前述の人の肉云々はくれぐれもここ確認忘れるなよ、言ってる意味」ということで、さすがに師匠もこのくだりはいくらなんでも際どいからと慎重になってる空気がかなり漂っているわけである。そして要するにこの個所の論旨だが、なんてことはない非常にスタンダードな古層伝統の空論理に過ぎない。空にては物事全て分別の基準は無いのである。そうであるから、そこから現世衆生域に転じ「考えたり言ったりしてはならないことは何もない」のであり、前述かくかくしかじかのことも、諸君らの領域の随所で日夜言われている様々な事柄と本来区別されようもないことで、よって先の命題も言及されるのである(資格がある)、という論旨(罠)だ。(←大乗標準論理)

しかし、より重要なのはここいらから梶を切り直して手口手立ての逆側モードにぐっと入り込み、こう展開させた以上はここでぶちまけようかとの直感判断か、記述は論理の依拠本体そのものに向かう。

(25) The Supreme Self (aham) exists in oneself just as in other beings and (as in other beings) so in oneself.
Conceiving thus, the yogin should approach food and drink and other things.

至上の自身(aham) は、まさに他の存在者の内でのごとくに自分自身の内に存在し、だから(他の存在者の内として)自分自身の内なのである。
このように心に描きながら、ヨガ者は飲食その他に近づくべきである。


ここの翻訳は元の内容が一筋縄ではないのもあって、しっくりこないが、あるいは間違いありかもしれないが、だいたいはこういう意味であろう。要するにゼロに一体となった身体ならば自己も他者も無いのである。深読みすれば、要は、食せと言った死者らも自分も区別の無い同じもの、そういうイメージを持て、と言いたいのか。さらに突っ込んで言うならば、自身にて不遇の死である絞首刑者と戦死者、至高の存在者として自ら死を躊躇しない七生人、これを区別するものもなく、それらと生きて真如を得た者との区別も無い、そういう話をやってるのだと、そうも言えようか。そもそも諸君らは常々生き物を殺して飲み食いしてるではないか。それが人間、ひいては自分自身に及ばぬ理など本来ないぞ、と。


そして随所で出てくるこの話の切り返しのパターンを経由、
 ↓
(26) Whatever movement of his limbs, whatever pouring forth of words, these are as mantra and mudra for him who holds the place of sri Heruka.

彼の手足の動作は何でも、言葉の放出は何でも、それらは、スリ-ヘールカの場所を押さえた彼には、マントラとムドラーとしてある。


↑ダルマを区別する本体が無いのだから当然そうなる、と。


章の結論、というか、ここで包み隠さずタントラの最深部を全披露しているわけである。これには驚いた。完全に全てではないか。
 ↓
(27)
SRI implies monistic knowledge,
HE the voidness of causality,
RU the end of discriminating thought,
KA its indeterminability.

SRI は一元論的知恵を、
HE は因果律の空間性を、
RU は区別する思考の終りを、
KA はその決定不可能性を、意味する。


’一元論的知恵=般若波羅蜜多’ であり、これは「ゼロを中核とする世界構造(マトリクス)」の本質を述べている。’因果律の空間性’とは、当然のこと、このゼロは拡張する存在的空間に転ずるもので、ゼロがそれを統治し全域に渡り因果律を成すこと、その空間性を言っている。’区別する思考の終り’は、この章のここまでの話に一致する内容でもあり、それ以上に古層大乗空論理標準の話というべきところの、悟りにおける平等性(無分別)のことで、要するにゼロにおいて区別を可能とする現世の基準など無いということで、それゆえに現世の善悪、価値観根本、思念の全ては決定不可能性のもとにある、と、その旨がSRI-HERUKAの意味だということである。
 
要はこういうことである。
 ↓
悟りの本質を言うなら、それは一元論的な知恵に統治される空間の因果律であり、その一元論的知恵は本体ゼロであるから、諸君ら現世側での価値基準はその中枢で全てENDを迎えるものである。要するにその因果律そのものである諸君側の事象全ては、ことごとく決定不可能性が本質ということでもある。

そしてこう締め括られる。
 ↓
(28) Those beings, whose flesh is eaten by knowing yogins, are subdued to their power by the yoga of vajra and skull.

その肉が(事の本質を)理解しているヨガ者らによって食されるところのこれらの存在者(生き物)は、ヴァジュラと頭蓋骨のヨガによってそれらの力に向けて抑制される。


恐らく、ヴァジュラとセットになってることからしても、この場合の頭蓋骨は蓮華と同格メタファーで、要するに根幹のマトリクスの構造との一体化=ヨガを言ってるわけである。この世界構造総体にて、生き物がその中核にある覚者に殺され(死を与えられ)、しかもその活性において(死によっての)制御が成されているということで、まさに衆生の生死と上記解説のSRI-HERUKA構造(世界構造)が同値であろうというあたりの趣旨と見る。非の打ち所の無い合理性であると言う他なし。

posted by コマプ墨田 at 00:52| 仏教関係調査

2012年06月23日

英訳「ヘーヴァジュラタントラ」翻訳作業続行 第一儀軌 第5章 「真実」

この章だけの部分翻訳は、津田真一「反密教学」に既にあるので英訳入手以前からそのつど参照してきたのだが、英訳と同じ原本から翻訳されており根幹は一致しているのだが、具体詳細はそれなりに違っている。英訳の方は英語らしく過剰な含みが落ちていて分りやすいが、はたして原文の性格がよりどちらに近いのか気になるところだが、原文が読めない以上判断不能である。ただ、英文では、実にあっけらかんと話が加速し、テキスト根幹論旨が依拠する大乗根幹世界図式(マトリクス)から得た論理に乗って「存在域側での言葉の拡張手腕」を最大発揮しているという印象である。はっきり言えば、インスピレーションで話が繋がる以上はどこまでもやる、という徹底ぶりと思うほかない。個別の象徴的言い回しの先に何かしらの本体を描くような内容ではないというか、読めばそう読めるように作者は書いてるのである。もちろんマントラの第2章同様、'悪意'のもとで。

例えば

(10) These families correspond with the five elements and are identified with the five skandhas. It is because they can be reckoned (kul) or counted that they are therefore known as kula.

これらのファミリーは5つの要素(五大)と連絡し、五蘊と同一とされる。それらは計算し数えられるから、Kula(ファミリー)として知られるのである。


とか、

(13) He is called Brahma because he has gained nirvdra and enlightenment. Visnu because he is all-pervading, Siva because he is propitious, Sarva because he abides in all things, (14) Tattva because he experiences real bliss, and Vibuddha because he is aware of this happiness.

彼は涅槃と悟りを得たゆえにブラフマーと呼ばれる。彼は、全てに充満しているがゆえにビシュヌであり、吉祥であるがゆえにシバであり、万物に住するゆえにSarvaであり、真の至福を体験するがゆえにサットバであり、この幸いを知るがゆえにブッダと呼ばれる。


とか

(19) Our speech is called uttering (japa) because it is the enunciation (prajalpana) of ali and kali.
A mandala is a foot-mark, and it is called mandala because it arises from pressure (malanat).

ali(母音)とkali(子音)のprajalpana(言明)ゆえに、我々の語りは japa(uttering/言い表し/念踊)と呼ばれる。
マンダラは足跡であり、それはmalanat(圧力)から生じるゆえにmandala(マンダラ)と呼ばれる。


などの話法が延々続くわけだが、その記述の本質は語音の類似と意味の連鎖性の融合そのものにあるのであり、それらが示すであろうような深層の隠された本体にあるのではない。「実はそうした深層域がないのにダルマ総体の表層で意味はどんどん拡張するもの、それが諸君の思考というものですよ」という基本姿勢でやってるのである。「マンダラがmalanat(圧力)から生じるからmandalaである」とはよくぞ引っ張ってきたとあっけにとられたものの、そこには確実に深層領域はないのである。(補足1)

気になるのがここである。やはり大胆不敵というか、挑発的というか、単に基本こう読んでくれと言う真面目な指示であるのかよくわからないが、ここにもまたまた「play on words」という表明があるわけである。
 ↓
(8) He enters supreme reality, he the Blessed One, and comes just as he went, and so on account of this play on words, it's as Tathagata he's known.

神聖なる者たる彼は至上の真実に合入し、まさに行った者としてやって来るのであり、この言葉遊びの説明の類で、彼が(それとして)知られるところは如来なのである。


もちろんこの如来の語源は古層大乗からのものだから、その大枠に沿って「言葉遊び」あるいは「シャレ」で出来てると切り出しているのであるが、「もちろん本テキストもその伝統の内にあるのは当然ですから」というノリである。津田先生の翻訳では、この 「and so on account of this play on words 」に該当する個所が無いような感じなのであるが、津田先生が意図して削除したものか、あるいは英文側が過剰解釈しているのか(?)、基本的に不明としておくものの、ここまで英文翻訳作業で掌握できるテキストの姿勢からして、テキスト総体にて「play on words」 の手法に対峙して体力(警戒)を使わない限り対処できない内容だと考える。やってる師匠らの頭の内容、まともな基準ではないのである。

----------------------------
補足1:
津田先生訳で読んではいたものの、この個所のニュアンスは極めてドライな英訳で初めて発覚する。もちろん英訳が確実な変換をしているとの保障はないのだが、ここまで把握してきたテキスト総体の論旨(第二儀軌全部+第一儀軌第5章まで読了)からしてさもありなんなのである。にしても、冷静になってよく考えたら、足跡が圧力でマンダラだという意味連鎖は冴えてるとはいえ、mandalaとmalanat、マとラがあるというだけで大して語音は似てなさそうではないか。ここあたりはどっちかというと第2章の動物を手なづける文言ぐらいの脱線系でやってるのかも知れない。

posted by コマプ墨田 at 04:35| 仏教関係調査

2012年06月21日

英訳「ヘーヴァジュラタントラ」第一儀軌の翻訳作業中

部分的に多少解読していた第一儀軌だが、第二儀軌を全部訳し終えたので、第一儀軌第1章から順次きちっとやって第3章まで終えたところである。

第2章のマントラの章、漢訳と比較して基本大枠は同じだが、具体詳細は結構違っており、明らかに英訳の方が”悪意のスピード感”が過激である。漢訳では、雨乞いのマントラよりも前の領域は通常スタンスでの解説で、雨乞いから「自己逸脱的論旨基盤解体」(←言わば)を開始するのかという印象を持っていたが、前半から実に巧妙に一貫した段取りで論旨が推移していることを理解した。漢訳では意図がよく分らなかったこの章の最後は、単純明快にこうなっている。

(34) It is in association with Vajra, Gauri, Vari, Vajradakini, Nairatmika, Bhucari, and Khecari, that the yogin practises the rites of petrifying and so on.

ヨガ者が硬直させるなどの儀式を実践することは、ヴァジュラ、ガウリー、Vari、ヴァジュラダーキニー、ナイラトミヤ、Bhucari、 Khecari、と関連している。

(発音不明の尊格名はそのまま表記 発音記号省略)

ということは全体の論旨根幹は明らかである。
 ↓
さて、前半のスタンダードなマントラから導入しつつ、雨乞いあたりからいよいよ傍若無人の展開を始め、最後は四動物の制御法文言に大脱線して終えたところの、要はこの一貫する現世衆生の切なる欲求の列挙であるが、そのことごとくは、ヴァジュラ以下の象徴的存在者(女神)に連なるものである。要はこのテキストが一貫して説明するであろうところの「根幹の本性はゼロ」の派生ということなのである。言ってしまえば、象徴の語句は本性ゼロ。勿論のこと儀式の本性もゼロ。諸君らのしぶとい欲の塊も本性は唯一ゼロ。


ということの説明の章が第2章ということである。

しかし、ここまでの翻訳作業で最大の衝撃が第3章のこの個所である。第一儀軌ののっけ領域に大胆不敵にもこう書いてあるのだ。
 ↓
(16) This Lord plays in the cemetery surrounded by his eight yoginis. 'In the cemetery', we say, because here we have a play on words, for svasiti means 'he breathes' and savavasati means 'resting-place of corpses'.

この教主は彼の8人のヨギーニらによって取り囲こまれた墓場で遊ぶ。「墓場で」と我々が言うのは、ここで我々は、「彼が呼吸する」を意味するsvasiti(繁栄)に対してと、「死体が休む場所」を意味するsavavasatiに対して、言葉遊びをやっているからだ。
(savavasatiの意味不明 発音記号省略)


「まずはこのテキスト総体の言葉の使い方だが、読むに際して全部これで考えてくれるように」と言ってるも同じである。極悪にもほどがあるという印象であるが、ここで根幹も根幹の話、「墓場」というのは「8人のヨギーニらによって取り囲こまれた場所」のことだと言うのだから、これはマトリクスが形成するゼロを核とする拡張空間のこと以外の何ものでもない。「彼(ヘーヴァジュラ)が呼吸する」と「死体の休む場所」の相互性は、即ち「ゼロから存在域が展開すること」と「存在域がゼロに集握され停止消滅すること」の同値相互性のことを言ってるのである。まさに言葉遊びで、その相互性の連想から転じてこれを「墓場」と言うことにしたのだから、「死体」とか「殺す」とか一連のキーワードが如何なる並びかは、この後もノリを判断して読んで貰いたい、ということになってるわけである。要は「我らの基本(伝統)はこの’言葉遊び’であることを忘れないように」と。

第二儀軌に詳しくこの語法のことが出てくるわけだが、それについてはこちらに概要を先日書いたところである。
 ↓
英訳「ヘーヴァジュラタントラ」第二儀軌分の翻訳を終える。

posted by コマプ墨田 at 13:46| 仏教関係調査

2012年06月16日

英訳「ヘーヴァジュラタントラ」第二儀軌分の翻訳を終える。

テキスト入手後かなり一気に進んだものの途中中断があって遅れ、さきほど完了。確認事項は満載で、おりおり書くとして、第二儀軌分の総体印象としてのみまずここで書くと、内容は非常に合理的に一貫しており、従前当追跡調査が予測的に述べる筋どおりで、要するに古層「般若経」が空論理基盤の造形側マトリクスの分析から得た論法を基層に、古来からのマトリクスの隠喩的扱い(作法)をインスピレーション回路爆走の文学路線で拡張させたものということで、これに一切間違いはない。ただ、その手法と言うか、まさに手口と言いたいほどの巧妙さは途方も無いものだが、しかし根幹構造は古来伝統の空論理の手法を一切変えていない。先般既に書いたことの繰り返しだが、金剛女陰=ヨギーニの構造=マンダラは、大乗造形基層根幹のマトリクス自体が本体で、このマトリクスへの思想サイドのアプローチの結実が原初般若思想である次第だが、その大乗の本体を、正当に受け継ぎながら破断ギリギリまでの(実在論側への)表相上の変形を見せながら、その実的確に重心は本体に合わせてあると言う、これを何と言うべきかだが、そこには知的暴力の速度がある。なぜこのようなものが一貫して書かれてあるテキストの語句個別をそのまま実直に読んで実たる奥を理解したがるのか、このテキストの罠性の悪党ぶりはそれと分るように要所に露呈させてあり、それをも楽しむかのように書かれてあるのだ。恐るべき筆力である。

「ヘーヴァジュラタントラ」教主の極悪的命題文言の句ごとの内容は高位には大した問題ではない(補足1)。要するにダルマ総体の一部にそのような命題はあるというだけのことだ。ダルマに向かう読み取りだけが真理(悟り)との連続式を衆生側に生むのであり、その表出を説明上衆生に分る唯一の語法で成すならば、とりあえずこうだ、というだけのことである。もちろんそこには現実的なテキスト作者のユーモアと[悪意]がからんでいるからああなっているのだが。第二儀軌のこの個所には作者自身がその意を明記している。
 ↓

(69) The thumb of one's own right hand and the fourth finger of the other hand, with these the yogin should press the two waves at the sambhogacakra (the throat), (70) and from this what happens, you ask.
Then there arises knowledge blissful like that of union with a maiden or like the dream of a fool. This is the end of the Joy Perfect and the beginning of the Joy of Cessation, Void and non-Void, the state of Heruka.'

自分の右手の親指ともう一方の第4指、ヨガ者はこれらでsambhogacakra (のど)の二つの波を押すべきであり、そして起こったこのことから、あなたは尋ねる。すると、そこに、娘との融合のそれのような、あるいは愚者の夢のような、知識が生じる。これは'喜びの完全の終り'と'停止の喜びのはじまり'であり、虚空と非-虚空であり、ヘールカの状態である。


要するに、テキストが膨大に費やすエロス的儀軌も殺戮的命題も、その逆相と常に対で現世衆生の頭に出現している。批判的に命題を読むか受け入れるかにしろその逆相との関係からある行為が選択されるというのが命題であるのだから。別にそれはどちらでもかまわなく、あるいは真理側(テキストが所持するその仕組み)との整合がとれれば他の筋でもかまわないのである。それらは互いに象徴や比喩という意味上のメカニズムで無限にダルマと自身の認識能力の間に迷妄の連鎖網を形成してるのだから。しかもテキストは、悟りに達した者は、そのような対の語法を使えと記されてあり、象徴同士の実例が列挙されてある。多くは逆相であるがそうでないものもある。これも意味上の表層連鎖が起こるような用い方をすることが重要で一義的な法則が問題なのではないだろう(恐らく)。これは真理たるゼロ位置に到達した場合、(論理上実は)ダルマ側に対応する何ものも無いはずなので、それを示すダルマはない。そのような真理に到達した者がもし真理について語るとすれば、その弁は真理の本質に向けて語りながら完全に本質を欠如させたものであるはずで、現世実質的にはメタフォリカルな領域が100%になった状態、というようなそんな着眼ではないかと推測。

比喩関係等で示される対の語はダルマ総体の表層で対当であり、どちらかがどちらかの真を成すわけではない。双方、あるいは状況によって連鎖(横滑り)を可能とする筋が起こればどこまでも拡張を繰り広げる。それがダルマの手前にある衆生の認識の本質である。「ヘーヴァジュラタントラ」は、おおよそそのような着眼で書かれてあるだろう。

ただ、それがマトリクス本体のより強靭な大乗総体の隠喩と、現実の衆生の欲の主軸であるセックスを絶妙に連動させ表裏出入りさせて、その本体は古層空論理そのものでありながら、巧妙にある種実体論かの表層の装いを見せながら、古層「般若経」どおりの「教主立ち位置移動法」において、弁舌を変容的に引き伸ばす。その非論理性を独特の論理手法に強引極まりなく持ち上げてしまうというか、あっけにとられるような論法、これが大乗であるからしょうがないのだが、まさにこれを「我らの伝統」と匂わせてもいるところがこのテキスト強烈である。

こうしたすさまじいメカニックをドライブさせて、きっちりと大乗根幹のマトリクスから把握できる「ゼロを中核とする世界構造」の姿を浮き彫りにするというのが「ヘーヴァジュラ」も従順に踏襲するところの大乗思想である。全て基本同じである。

これも既に軽く書いているが、ヘーヴァジュラはゼロ自体であり、衆生側からこれに一致できたとしても、そこに実体的な「得るもの」は何もない、というのが理屈の本質(古層大乗空論理本質)である。その元も子もない本質に行く前にとことん上述の語法を用いて現世側に拡張しているヘーヴァジュラであるわけだが、それは現世の住人代表(女神や金剛蔵)が彼(ゼロ)に懇願して、真実やヘーヴァジュラの本質を聞くからである。実際だまってると彼はどんどん消失してしまうのだ。それをむりやり呼び戻す場面は腹を抱えて笑うとこであろう。まったくすごいイマジネーションと言う他なしである。

また、蓮華(女性器)と金剛(男性器)のunionとか、女神たちのcompanyとかcircleとか、随所にあるわけだが、勿論のこと、これは現実的な男女のセックスを現世側意味に当てつつ、彼らの依拠する世界モデルたるマトリクス自体の具体をそのまま記してもいるのであり、これがキモである。

補足1:
古層大乗論旨からして、この教主の命題自体が「教主立位置移動法」にのって高位で最終否定(消去)されるべきほどのものであろう。「秘密集会タントラ」で言えば「秘密」としたものの内側は何もないということでありそれが得る事が出来ない秘密なのである。「ヘーヴァジュラタントラ」の場合もこの要所はなんらかの記述で押さえてあるはずだが、それは第一儀軌にあるのかもしれない(英訳8割方未解読中)。漢訳にはそれに該当すると思われる個所はあった。しかし、加えて重要なのはテキスト外の灌頂メソッドで、諸研究からすると第四灌頂が上記要所に対応することはほぼ確実であろう。ピータ巡礼は、真理がそれへの到達によって「存在しない本質=ゼロ」を得ることであるなら、その後尚身体が現世に存在する以上、まさにテキスト内で示された語法と並走する身体のあり方として、示されているものではないかと推測している。

posted by コマプ墨田 at 04:12| 仏教関係調査

2012年06月01日

「大乗造仏理論マトリクス」の空間モデル化

大乗造仏理論マトリクス(単位図形4段階連鎖8放射状接続状態)にパースをつけて空間モデルとしての視覚効果を高めた図版を作成した。クリックで精度の高い拡大図版。

matrix4s8r0601b.jpg

「ヘーヴァジュラタントラ」の着眼はこの空間モデルに密着したものであり、金剛女陰、ヨギーニの構造、マンダラ、などの隠喩が示すものの本体である。放射構造の中心部ゼロ位置は悟りの究極位置たる「秘密」として規定され、それを核として周辺に組織され実像的に現われる構造を、存在側の背景に重なる「ゼロ側の反映拡張」と見つつ、双方は可逆同値と見るわけである。マトリクスへのこの着眼は「ヘーヴァジュラタントラ」に新規ではなく、基本概念は古層「般若経」以来の歴代伝授であり大乗思想の根幹である。

「ヘーヴァジュラタントラ」の場合、実在側存在者はまずこの実在側が連続しえる周辺(展開)構造に一体化し、それを成し遂げたならば周辺領域を消失させ(解体させ)ゼロに合一する、それが悟りであり、存在側から見たゼロの存在的側面、あるいはゼロ自体の存在者的側面(存在側への反映)をヘーヴァジュラとして彼らは表現しているのである。

posted by コマプ墨田 at 16:00| 仏教関係調査

2012年05月30日

「ヘーヴァジュラタントラ」英訳 集中翻訳中

「ヘーヴァジュラタントラ」第二儀軌領域の半分以上解読したところですが、当追跡調査が当初より提示してきた基本見解どおりの内容であることは疑いありません。テキストは極めて合理的で予想以上に論旨明瞭に構成されている印象です。ナイラトミヤを中核とするヨギーニあるいはダーキニの構成は、金剛女陰という暗喩と全く同じで、古層大乗から彼らが受け継ぐ現実的な世界モデル図像であるところ、「空(ゼロ)と実在の可逆同値構造たるマトリクス」を暗喩して記されております。このマトリクスのより抽象的な表記が、ヨガ行者が合流すべき真実の中核として現われるところのマンダラであるわけです。「ヘーヴァジュラタントラ」は、一方で人間具体(実在)の本質たる欲動の極にヨギーニとの性交合一をあて、双方を古層大乗空論理基本である「真実と実在の可逆同値」の論法にのせオーバーラップさせ拡張展開させる巧妙な話術を用いてるわけです。

「空(ゼロ)と実在の可逆同値構造たるマトリクス」とは、古層大乗が完成させていた仏像造形論理の基盤であり、空論理の根幹であるこの図形です。大乗はこれを、時に蓮華、時にガルバ、時に金剛女陰、と称し暗喩的に用い文学的にテキストを生み出しているわけです。

8con-無限空間-平面図075-up.jpg

また、このマトリクスに「へーヴァジュラタントラ」を作成した人々が精通していた現実証拠として、既に当追跡調査が提示しているところの「ヘーヴァジュラマンダラ」の構造解析が重要な意味を持っております。彼らが古層大乗の造形論理を最高水準の技能で研究継承していることはこの古いチベット後期密教遺品の解析から確実であるわけです。

Hevajra Mandala in Tibet 13th (4step 8radial matrix /Rubin Museum)

hevajra13th-rubin186-4step-8con-2-up.jpg
高画質jpg画像

解説↓

チベット13世紀 ヘーヴァジュラ マンダラ (Rubin Museum 所蔵) 解析図版 8放射状4段階連鎖縮小マトリクス

チベット13世紀 ヘーヴァジュラ マンダラ (Rubin Museum 所蔵) 解析図版 マトリクスによる細部規定
posted by コマプ墨田 at 14:27| 仏教関係調査

2012年05月22日

英訳「ヘーヴァジュラタントラ」チャプター1 にあるテキストの根幹論旨

驚くと言うか、あっけにとられた。なんてことはない話である。英訳「ヘーヴァジュラタントラ」冒頭チャプター1 を確認したところ、そこにいきなりテキスト着眼の大元が端的明瞭にまとめられてあるではないか。漢訳ではよく分らなかった。全テキストは、微に入り細に入り、ここにまず記された根幹論旨から一切逸脱することなく書かれてあるのであり、我々はそのようにのみ読まなければならないのである。

(8)
Its proficiency is known to be manifold;
it teaches the gazes,
how to conjure forth and the language of secret Signs,
how to petrify,
how to drive away,
how to bewitch an army into rigidity.

その熟練は多様であると知られる。
それは、
どのように隠されたサインの言語と力を使うか、
どのように硬直させるか、
どのように退却させるか、
どのように軍を堅固に意のままにするか、
といった注視を教える。

(9)
It is the means of producing and maintaining
the yoginis in accordance with right method;
it is proficient in knowledge,
both absolute and relative in the matter of the due order of appearance of the divinities.

それは、
正しい手立てでの調和にあるヨギーニ達を
作り出し維持する方法である。
それは、絶対性と、
諸尊天出現の妥当な規則の問題に関わる相対性、
その双方の認識にて熟練している。

(10)
But in the first place it is the one means of producing Heruka,
and it is by such production that men are released.
O Vajragarbha of great Compassion.

しかし最初の場所では、
それはヘールカを生み出すひとつの方法であり、
人間が解放されることはそうした生成によるのである。
おお大悲たるヴァジュラガルバよ。

( I I )
They are bound by the bonds of existence and released by knowledge of them.
O wise one,
you should conceive of existence in knowledge of its non-existence,
and likewise you should conceive of Heruka in knowledge of his non-existence.

それらは、存在の拘束物により拘束されており、
またそれらはそれら(自体の)認識により開放されるのである。
おお賢者よ、
あなたはその非存在の認識の内に存在を想像すべきであり、
同様にあなたは、彼の非存在の認識の内にヘールカを想像すべきである。


(↑補足: They は、衆生を指すのか、あるいは前述領域の仕組み全体を指すのか不明であるが、論理根本からしてどちらでも成り立つし双方は一致する。)


(12)
Great knowledge abides in the body,
free of all falsification,
but although it pervades all things and exists in the body,
it is not in the body that it arises.'

偉大な認識は全ての変造から開放された身体に宿る。
それは生じるところの身体の内にあるのではないが、
それは身体において全てのものと存在に浸透するのである。


要所考察

(9)は、当追跡調査が提示するところの古層大乗より一貫する仏像造形に関わる「基盤図形(マトリクス)」自体の説明と言ってよい内容である。「ヘーヴァジュラタントラ」のみならず大乗全体に共通する思想論旨が、仏像造形において造形の根幹として作図されるところの「マトリクス」と、それを取り込みその規定の内に生み出される様々な仏像や天尊像という具現相との関係への着眼が源であることが、この項目により裏付けられるとさえ言えよう。まさに「正しい手立てでの調和にあるヨギーニ達」とは「金剛女陰」と同じ意味で記されており、これを「作り出し維持する」ことが出来るとする論旨は、造形上の基盤図形作図の儀軌に対応して表されている。後半部の「絶対性」とは造形上の基盤図形の構造が示す「幾何学の完結性および無限連鎖性」に対応するものであり、また「諸尊天出現の妥当な規則の問題に関わる相対性」とは基盤図形を取り込み様々な具現相に置き換える過程に対応している。この対は大乗思想面一環における「真実(悟り)」「実在(現世具現相)」という対に相応する。

(8)は総じて、現世具体の衆生欲動が(おそらくマントラ等の呪術的操作を介して)、(9)で示されるところの深部根幹域に関係を結んでいる旨を表しているであろう。

(10)は、(8)が連続する(9)の初源本質に依拠して「人間の解放」が可能となる一つの方法がある旨、それをヘールカという具体相において述べている。これは(9)にある対図式におけるところ、「相対性」から「絶対性」へ逆変移することであるが、これは仏像造形上で像の具現相が根幹において唯一の「基盤図形(マトリクス)」に還元され、さらにその構造中枢がゼロであり、最終的にゼロに帰結収束するという認識から来ている。

恐るべき内容が(11)であろう。「ヘーヴァジュラタントラ」がこれから述べる内容の全てはまずここに単純明確に記されてあるのだ。

あなたはその非存在の認識の内に存在を想像すべきであり、
同様にあなたは、彼の非存在の認識の内にヘールカを想像すべきである。


これは彼らが歴代把握していた世界構造の本質から述べられるもので、あるいはそれ自体の根本定義と言うべき内容である。これは「ゼロ概念」から(のみ)見い出される見解である。要は(11)(12)にて、「この実在世界の側から自らの認識主体を経由して非存在たるゼロ側の極に認識を推移させよ、それは根幹の世界図式に則り可能である、そのゼロ側極(ゼロ自体)の身体(身体的表出たるゼロ)をヘールカという」という論旨である。

しかしこうした論旨は古層大乗からの空論理の順調な展開というべきで、源流からの大きな逸脱は無い。本体は古層「般若経」のバリエィションなのである。

posted by コマプ墨田 at 14:39| 仏教関係調査

2012年05月20日

「大悲空智金剛大教王儀軌経」の空智金剛とは、

「ヘーヴァジュラタントラ」英訳のチャプター1を確認して、初めて理解。
 ↓
空智金剛という漢訳の元テキスト語句は、「空智=HE」+「金剛=VAJRA」ということで” HEVAJRA”であったのか。空智は般若波羅蜜多の別訳扱いだとばかり思っていた。しかし実際漢訳テキストは、のっけからそれが大前提だと言ってるも同じということだ。意味的に→ Hevajra = Prajna-paramita-vajra = Sunya-vajra である。当追跡調査班的に言えば、まさに、Zero-vajra。"空/ゼロ"を(やむなく諸君のマインドに合わせて)実在側に尊格化してみたものであるぞと、第一章がまず表明している。即ちヘーヴァジュラとは身語心金剛の尊格的側面であるわけだが、その身語心金剛は既に「秘密集会タントラ」段階で「本体はゼロ」と規定済みである。話は最初で明確になっている。そもそもこのテキスト、ヘーヴァジュラ自体が何か語るわけでもなんでもない(補足訂正)

補足訂正
漢訳での「金剛王出現品」でヘーヴァジュラ自体が現われ自らが住す基盤のマンダラと真言について金剛蔵に答えている。漢訳での空智金剛がヘーヴァジュラの訳語だという認識が遅れた為に、眼を通していたにもかかわらずこの品の詳細が断線したままであった。この個所はマンダラと真言を介して「ゼロ的存在(者)の存在側への開示」および存在側からの合流過程を描いているであろう。英訳の方が状況提示がストレートなはずなので近く詳細をそちらで把握したい。

posted by コマプ墨田 at 18:31| 仏教関係調査

2012年05月19日

英訳「ヘーヴァジュラタントラ」チャプター2「MANTRAS」の驚くべきノリ

チャプター2「MANTRAS」(28) The ritual for seeking a thing which is lost: の個所、漢訳だと「金剛喩沙多成就法」にあたるところ。

英訳
 ↓
In order to gain success in this one should enchant at night time the eye of a maiden with this formula, repeating it 108 times:

OM NAGRA NAGRA,

honouring her with the five kinds of offerings, flowers, incense, lamps and so on.
Then at night on the eighth or fourteenth day having put ready jars containing sesame oil and lac, one should enchant them with this formula
repeated 108 times.
Next smearing his big toe with the enchanted lac, and washing it with the sesame oil, he should show it to the girl, saying:
Speak! Who has removed this thing of mine ?'
Then she will reply:
'Such or such a one. ' This is Vajra-astrology.


しかしこれ、英訳どおりに読んでも、普通にセックスの隠喩表現にしか読めないであろう。英文シフト後ですら「sesame oil and lac」は男女性液「 his big toe」が男性性器を思うほかなし。最期個所、英訳自体がこういうノリになっている。
 ↓
百八回の段取りの後、セックスしたら(smearing his big toe with the enchanted lac, washing it with the sesame oil)、自分のそいつを見せてこう聞け→「俺のコイツをたった今どっかやっちゃったのは誰だ?」。するとガールは答えるだろう→「それ 、か、それよ」。これぞ金剛占星術だ。(補足1)(補足2)

さらにその後の、漢訳だと象虎蛇を奔走させる各マントラの個所は、英訳だとこれにサイと犬が加わっている。象虎サイ蛇犬の順。漢訳だと蛇のマントラになってるものがそのままサイのものになってる。TELIYA TELIYA ならサイの方があってる。

英訳
 ↓
(29) OM VEDUYA VEDUYA
- pronounce this and an elephant flees.
(30) OM MARMMA MARMMA
- pronounce this and a tiger flees.
(31) OM TELIYA TELIYA
- pronounce this and a rhinoceros flees.
(32) ILI MILI PHUH PHUH
- pronounce this and a serpent flees.
(33) Show your hand with a gesture which indicates protection of wealth and power of subduing, and a dog will flee.

すごいのが最後の犬だ。マントラ無し。現代風に書けばこうしかならない。
 ↓
「富の保護と制圧のパワーを示すジェスチャーであんたの手を見せなよ。犬が走るだろうさ。」


(PS: 「flee」は、漢訳テキスト側では「奔走」と訳されてること、ブッダが象を手なずけたエピソードが付加されてあること、を考えると原文に「逃げる」というニュアンスは無いものと思う。)

----------------------------------------------------
補足1:
ガールの台詞「Such or such a one. 」は、原文で「or」にあたるのがどういう意味の語かによるだろうが、ノリとしては→「それってか、ずばりそれそのもの!」、みたいな感じ? 

というかノリとしては率直に思うところ、
 ↓
「おい俺のこれ、今こんななってるけど、元のは誰がどこやっちまったんだ?」
「それじゃん? あれがそうなってんの。」

補足2:
二回目に出てくる formula は段取りを示すのかマントラを示すのか不明。

posted by コマプ墨田 at 15:30| 仏教関係調査

やむなく生活費を削って購入→ 英訳テキスト「ヘーヴァジュラタントラ」

森雅秀先生の論考に紹介あったので粘着追跡の結果、灯台もと暗し、アマゾンで買えると言う現実に到達で、本は図書館が基本と心に誓ったにもかかわらず、さすがにこれは無理なので自腹購入である。全部読むのは能力的に無理。無駄と言えば無駄である。が、元テキスト英訳個所中心ならば、OCR取り込みの英訳アンドロイド作戦でなんとかやれると踏むところ、とりあえず第一章は作業完了で今のところ全くもって順調である。英文も無茶がないシンプルな文体の風情である。これならなんとかなるかも。ただ、この英文側整理状況だと、元テキストや古層大乗の変化球錯綜手法を吸入しては訳しきれなそうな予測充満だが、ただ逆にそのように荒削りになった場合、意味合い的にどうシフトするのか興味深かくもある。
 ↓

The Hevajra Tantra: A Critical Study [ペーパーバック]


ローソンから持ち帰って即行第二章をざっと解読したところ、やはり漢訳テキストとかなりディテールは違っていた。各々そこまで行くまでの経路が違ってるのだろう。

PS:
第二章の真言の領域、これは漢訳どころの話じゃない風情である(漢訳への調査)。徹底している。テキストごとにディテールが違ってるのは、要は表層域など違っても別にどうでもいいという扱いと見た。要するに総体で根幹論旨形成の役を果たしていればいいという事。まさに落語と一緒でそのようなレベルは拡散中に書き換わってしまったのだと推測。ところが漢訳もこの梵文英訳も根本着眼は一切変わりない模様。梵文テキストから翻訳したこちらの内容の方が文意暴力感がストレートだ。

posted by コマプ墨田 at 02:02| 仏教関係調査

2012年05月14日

後期密教「究竟次第」の最終過程について (←予測段階)

こちらの書籍も確認しとく必要ありの認識に至りましたが、とりあえずこちら様で引用されてる個所を再引用し、
 ↓
『生起次第とは、簡単にいえば、私たちの世界を構成する森羅万象が実は窮極の存在であるホトケ達の顕現に他ならないことを監督する修行である。もう少し具体的にいうならば、あらゆる物質世界は、ホトケたちが参集するマンダラであり、そこに輪廻する生きとし生けるものすべてがマンダラを形作る上で不可欠の聖な存在であることを、瞑想して心身に浸透させることだ。

こうすることで、日常性の固い殻を破砕し、日常性を絶対化し、執着しがちな私たちの意識構造を根底から揺るがし、ホトケの正しい教えを授かる準備が出来上がる。生起次第が生成のプロセスと呼ばれる理由は、この修行が修行者自身が主尊と一体化して、多数のホトケたちを次々に生起する次第、つまり生成するプロセスに他ならないからだ。

究竟次第とは、後期密教が窮極の修行法として開発した快楽と叡智の窮極の関係に基づく修行法すなわち「性的ヨーガ(性瑜伽)」に集中する修行法のことである。』
(性と呪殺の密教/正木晃/講談社から引用)


思うところ書きますと、
 ↓

ここで示されてる[究竟次第]が実際の性瑜伽か観想の延長かは結局は通過過程なので条件を満たせばどちらでも良いのではなかろうか? 実際現在のチベット仏教では観想で過程を十分完了させ得る前提であろう。「ヘーヴァジュラタントラ」で言えば、わざと教条的にテキストがとらえられないように巧妙な手立てを用いてるようである。

要するに[究竟次第]とは、[生起次第]にて、五蘊が捉える実在世界が実は”真理の拡張体 (マンダラ)"と同体である旨了知した後の、実際にそれに合一するプロセスである。これに関わり「ヘーヴァジュラタントラ」がもしこうした論旨を持つのであるならば(当追跡調査の解釈が正しければ)、
 ↓
「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳) の「清浄品」
「ヘーヴァジュラタントラ」真実品 (津田真一 梵文和訳) 第11偈 について


[究竟次第]の次のプロセス、あるいはその完全なる完了とは、「合一した"真理の実在側(実在的状態)"に未だ"在る"ところのダルマ総体を消失させるプロセス、これを経て、”真実の本来の実在性(真実の実在的なあり方)=空(ゼロ)" に最終完結すること、に他ならない。おそらくこれは大乗はもとより仏教総体の根幹「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」に完全に則って論旨妥当のはず。特異というなら涅槃寂静の解釈(把握経路)の問題のみである。「ヘーヴァジュラタントラ」で言えば→、「古層空論理」が論法に用いる「空(ゼロ位置)とダルマ総体の可逆同値性」に則って「空(ゼロ)」側(状態)を、実在側からたどり実在延長の(つまり現世実在内で到達可能の)「存在性を持つ真理(=ゼロ的に存在するもの)」と形式化する、との論旨ということかになろうか。これが「古層空論理」のあり方を前提とし(根幹を逸脱することなく)十分可能な展開(変容)であることは間違いない。

「ヘーヴァジュラ漢訳 清浄品」のこの個所、「この法を棄捨し眞實を成就し能うなくば、則ち蘊等の纒縛(てんばく)する所」が最大重要であると考える。
 ↓
是の如きは蘊等の清淨出生の次第なり。彼れこの法を棄捨し眞實を成就し能うなくば、則ち蘊等の纒縛(てんばく)する所となす。若し世間の礙闇・眞實を了知せば、即ち是の縛より解脱を得、是の故に非色・非聲・非香・非味・非觸・非法・亦非世間・心清淨の故に即ち一切清淨なり。


「このように五蘊のあり方に順じて"真実の相"を示したところであるが、それは一定のプロセス、方便である。諸君にとっては、認識能力自体が戯論/Papañca 故に一切諸法の本体は三毒なのだから、事の把握としてやむをえない過程なのである。だが次の過程で、いよいよこれの"ダルマ域"を消失させるということである。それができれば残った"真実"の核側に到達できる。その状態は空であり清浄である。」という論理であろう。(以上は予測段階)

参考サイト
「秘密集会タントラ」での内容だが、全くもって上記その通りの筋だと思う。ただ興味深いのは、このプロセスをもっても(実質的に)やはり実在領域にては空(ゼロ)の極には到達できないも同じ旨をちゃんと示している点である(→双入次第)。
 ↓
秘密集会 聖者流 究竟次第

はたして展開する「ヘーヴァジュラタントラ」他の母タントラ系では、このあたりの収め方はどうなってるのかまことに気になるところであるが、ここまでの追跡調査から基本同じ着眼で万事周到であるに違いないと予測する。諸研究書にある第四灌頂の内容が鍵であろう。

posted by コマプ墨田 at 15:11| 仏教関係調査

2012年05月13日

「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳) 「拏吉尼熾盛威儀眞言品」で、細かい疑問

例の降雨法の竜王像ですが「阿難陀竜王」と記されてあるわけです。原テキスト自体が難陀と阿難陀をわざと誤記してる可能性は? しかも降雨真言に行く前の所作で「空智金剛大明王」の絵を描く際に、明王は「阿難陀竜王」を踏むとまで。どうもこのあたりもかなり毒気が注入されてるような印象です。

posted by コマプ墨田 at 18:41| 仏教関係調査

2012年05月12日

「ヘーヴァジュラタントラ」真実品 (津田真一 梵文和訳) 第11偈 について

当追跡班はこの偈 に関わる前の考察にて→、「ヘーヴァジュラタントラ」はここで、"真実"の非実体性を示しつつ、その現世実体側での具現相としてあるところの真言と天尊の非実体性をも示めすものと前半部を解釈し、これを単に通常の空論理の図式踏襲とまず見つつ、論旨はさらにこの通常空論理図式を"戯論"と排した体をとり、真言天尊の実体性を認める言及を装いつつも、実は通常空論理どおりに「真実とダルマの可逆同値性」によるレトリックを用いてるのではないか?と、その印象までを書いた次第である。その後「戯論」なる語の重大な意味を遅ればせながら理解し、また別の品での考察も連動し、あらたな着眼をこの偈に対して持った次第である。

まずその問題の個所。
 ↓
(真実それ自体に関しては、それを何らかの有相なるものとして)能く観想するものもなく、また観想さるべき(特定の相)もない。(それと同置されるべき)真言もなく、(その顕現としての)天尊もない。(しかしながら、この様な)戯論を離れた(その真実)それ自体(の自ずからなる現われとして)真言と天尊とは(現実に)存在しているのである。
(「反密教学」津田真一著 密教から反密教へ 227P )


梵文和訳のこのセンテンスの括弧内は、津田先生が補ったものであろう。あえて今その個所を除外してみる。
 ↓
能く観想するものもなく、また観想さるべきもない。真言もなく天尊もない。戯論を離れたそれ自体 真言と天尊とは存在しているのである。


となる。

最重要なのは「戯論を離れたそれ自体」の義である。ここで問題となるのが「戯論」の意味であるが、これは現代語の印象で軽く判断してはならない超重要な仏教用語であった。それを知らずにここまで書いていたのである。

さきほど「理趣経」との関連調査で、スマナサーラ長老の解説に到着したのであるが、読後眼から鱗である。
 ↓
パパンチャのからくり
ダンマパダ 第14 ブッダの章

戯論とは実在を捉える精神作用に必然するところの虚妄性であろう。要は通常、人の精神はダルマをこのフィルター抜きで捉えることは出来ないということである。上記リンク先でのスマナサーラ長老指摘に寄ればこうである。
 ↓
>パパンチャとは、仏教の真理をすべてひと言で表現する単語です。仏教においては、とても大事なキーワードです。「世界はパパンチャであって、解脱・涅槃はニッパパンチャ(nippapañca)である」と説かれているから、どれほど大事な用語かが理解できると思います。

>このようにすべての生命は自分の眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法のデータをありのままに認識しないで捏造して認識するのです。生命は実際の世界を知らないのです。私たちはありのままの世界ではなく、「あって欲しい世界」を捏造するのです。わざと組み合わせて合成する知識なので、「現象」という単語が使えるのです。それで認識そのものが、捏造した結果になるのです。認識は知ることですが、正知ではなく、誤知(ごち)になっているのです。


津田先生の補足個所をとりさった原文対応語句を軸として「真実品」該当個所にてこの意を強く踏まえつつ読むと、非常に単純にこういう趣旨として読めるのではないかとの思いに至る。(補足: 解脱に相応する語であるとの[nippapañca](パーリ語)のサンスクリット形態(と思われる)[niḥprapañca]を含む一単語たる[niḥprapañcasvabhāvataḥ]が「ヘーヴァジュラタントラ」サンスクリット文側に見受けられる。)
 ↓
通常の空論理に基づき言えば、観想するものもなく、観想さるべきもない。真言もなく天尊もない。だが 空論理の「真実とダルマの可逆同値性」を踏まえ述べるなら、主観が成す観念作用領域を排除して(残り)得られようところの「空(ゼロ)」側それ自体において(として)、真言と天尊とは(ゼロ的に)存在しているのである。


これは津田先生の補足内容と基本さほど変わらない気もするのだが、違うとすれば、戯論を排し残る領域は本来の空論理から言えば何もないのであるが、それを「存在」と言いえる筋書きの強調であろう。上記後半部論旨はこうも言い換えれるかもしれない。
 ↓
主観が成す観念作用を取り去った視点が得られるならば、真実は(ゼロ的とはいえ形式的には)存在として認知できるはずで、真言と天尊もまたそのように”在る”。


この図式は、「秘密集会タントラ」が身語心金剛を(悟りを得たはずの如来ですら)得ることが出来ないものと規定しながら、悟りの根幹としてダルマ側に向けて純然とした機能を発揮するところの(のみの)「秘密」と定義するのと同じ論旨である。つまるところこれらはゼロの概念そのものなのである。

posted by コマプ墨田 at 21:56| 仏教関係調査

「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」と「理趣経」の直通経路

「秘密集会タントラ和訳」を最初に読んだ時に、ちらとこの印象を書いたのだが、やはり「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」は「理趣経」が直接の基層という話に普通なるのではなかろうか。相当にあからさまだと思う次第である。「十七清浄句」もそうであるが、最も事をはっきり示しているのは「第三 降伏の法門」である。

まず、現世具現域三毒がダルマ総体の本体でありつつ、現世主体の判断基準が存在しない般若波羅蜜多(ゼロ域)との同値対応状態(拮抗図式)にあることを述べている。この図式の延長で「秘密集会タントラ」は貧瞋痴(三毒)各々に金剛を付して身語心金剛と同値させる形式化(松長本 第十三分「十種の念誦法」 /第十八分「秘密灌頂」)に至ったと推測できよう。
 ↓
いわゆる欲無戯論性の故に、瞋無戯論性なり。瞋無戯論性の故に、癡無戯論性なり。癡無戯論性の故に、一切法無戯論性なり。一切法無戯論性の故に、まさに知るべし。般若波羅蜜多無戯論性なり。
(「密教経典」理趣経 129P 宮坂宥勝訳 講談社学術文庫)


その前提にのせて、通常社会基準の大逆相が述べられる。
 ↓
金剛手よ、もしこの理趣を聞いて受持し読誦することあらば、設(たと)い三界の一切の有情を害すとも、悪趣に堕せず、調伏をもっての故に、疾(と)く無上正等菩提を証すべし。(同訳書 130P)


三毒(現世具現相)と般若波羅蜜多(空=真実)との可逆同値的論理を前提とするところ、「三界の一切の有情を害すとも、悪趣に堕せず」とは、要は→、事の善悪を判断する基準は空(ゼロ位置)において存在しない(=できない=平等)のであり、それと現世諸事象(ダルマ)との可逆同値性を認める観点からして、現世側全諸事象(ダルマ)間も遍く同値(=平等)であるから、諸事象ごと縁起の帰結が特定の分化を成すなども(実は)在り得ない。こういった論旨のはずである。また「十七清浄句」等での「清浄」という語の論理メカニズム上の役割は「秘密集会タントラ」のそれと全く同じである。もちろんこれは「古層般若経空論理」からの歴代受け渡しに過ぎない(「七百頌般若経」の重要性)。「理趣経」の論法をさらに拡張すれば、そのまま地続きで「秘密集会タントラ」「ヘーヴァジュラタントラ」の論旨へと展開する。「古層般若経」由来の「理趣経」のこうしたドライな論理は、どうしても現代日本では特に一般倫理からのバイアスで読まれてしまう(ざるを得ない)ので、本質的な部分に過剰な解釈が重なり、単純な経路が見えにくくなっているように思われる。

補足1
なぜ一切有情を害して調伏になるかというと、一切有情の生存個別に善悪の基準など本来的に無いので(=平等=空との同値)、悪人を害することが調伏であるなら一切有情にそれは対応する。という論理とも推測できる。

補足2
戯論(Papañca)という語の意味の本質ついて、実に参考になるサイトを発見。
 ↓
パパンチャのからくり
ヴィタッカの次に、とんでもないことが始まります。「パパンチャ・papañca」ということ。ヴィタッカは「花」とか「人」とか「建物」などと瞬間的に考えることですが、その後に、欲や怒り、憎しみ、悲しみ、後悔、嫉妬などのさまざまな感情が湧き起こってきて、頭の中でごちゃごちゃ考え始めるのです。これをパーリ語で「パパンチャ」と言います。パパンチャは訳しにくい言葉ですが、「現象」とか「妄想」という言葉が一番適切で、理解しやすいでしょう。実際には無いものを有ると考えて、実体化、固定化することです。


ダンマパダ 第14 ブッダの章
スマナサーラ長老著書からの引用個所
 ↓
>パパンチャとは、仏教の真理をすべてひと言で表現する単語です。仏教においては、とても大事なキーワードです。「世界はパパンチャであって、解脱・涅槃はニッパパンチャ(nippapañca)である」と説かれているから、どれほど大事な用語かが理解できると思います。

>このようにすべての生命は自分の眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法のデータをありのままに認識しないで捏造して認識するのです。生命は実際の世界を知らないのです。私たちはありのままの世界ではなく、「あって欲しい世界」を捏造するのです。わざと組み合わせて合成する知識なので、「現象」という単語が使えるのです。それで認識そのものが、捏造した結果になるのです。認識は知ることですが、正知ではなく、誤知(ごち)になっているのです。

posted by コマプ墨田 at 03:48| 仏教関係調査

2012年05月04日

「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳) 「拏吉尼熾盛威儀眞言品」をよく読むと

「仏説大悲空智金剛大教王儀軌経」(ヘーヴァジュラタントラ漢訳)の「拏吉尼熾盛威儀眞言品」という章は、降雨法や敵軍撃退法などの諸々真言と呪術法の解説になっているのだが、細かく読むとさすが「ヘーヴァジュラタントラ」と思うしかない構成になっていた。以下考察。(正直参りました。)

この章前半は、空智金剛心真言は何々といった形式でその真言を示すのみが続き、中ほどから現世対応の降雨法等解説に切り替わる。敵軍の撃退法、底羅紺法(具体内容解読及ばず)、瘧病法(他者を病気にする方法?)、魔黏を開き成就する法(具体内容解読及ばず)、信愛法、日月を制止する法、金剛喩沙多成就法などと続く。各々の項にて用いる真言とその際の事細かな儀軌が示されてある。

まず降雨法であるが、まず曼荼羅を描き、さらに香泥というもので竜王像を作って曼荼羅の所定の位置に池を作ってそこに安置する等、具体的な段取りが書かれてある。これら段取りを終えていよいよこの真言を唱えよとなり、その真言が示されてある。ところがこの後即座に、「これをしても雨が降らない場合の対処法」がわざわざ書いてあるのだ。すなわち、その場合は真言を逆に唱えろ、しからば大雨が降るだろう、と。さらにそれでも降らなかったらまで書いてある。その場合は「彼の竜王の頭をして、七分に破し蘭香梢のごとくにせよ」だそうである。それでも降らない場合は書かれておらず、最後に雨を止める時の所作と真言が書かれてある。不謹慎ながら落語かと思ってしまった次第である。(追記補足1: 最下段参照)

次に「他軍を降伏し速やかに破壊せしむる謂なり」という内容の成就法。五甘露や晝石や断鐡草なるものから丸薬を作り、さらにそれを十万回あるいは百万回真言で加持し終えて缾器(へいき)なるものの頂を描いて周匝し続ければ「他軍速やかに皆破壊するを得」とある。真言百万回はできなくは無いだろうが戦う間を惜しんで回転し続けなければならない。自力で戦った方が確実性が高くはないのかという疑念が浮かぶ。

次に目的内容不明の底羅紺法。指示された各種素材を日食の時に和合し、鉞斧形にして両足で踏み真言を百万回唱えれば「一切の聖賢を成就するを得、尚ほ違越せず」。これまた真言百万回は可能としてもそれに日食がかぶる必要有りとなれば、条件を満たす時は生涯でほとんどないに等しい。この項の末尾が気になるが的確な論旨把握できず。→「何に況やえん魔羅界を破壊するをや」(えんの活字発見できず)

次に瘧病法。怨む相手の名を毒薬で書き稲糠の火中に投じて真言、なのだが、ここで回数が一気に一阿庾多回に増大である。阿庾多とは→こういうことなので、要するに現実的には一生やっても間に合わないけどやるならやれという話。

次に、魔黏を開き成就する法。これは元テキストではセックスがらみの印象があり、漢訳ははぐらかして書いてる予測がある。この項に真言は無く、こうある→。「自らの臍輪に於いて是の観想を作し、或いは腹上に於いて観想成辧す、然る後乃ち魔黏を見れば自ら開く。」(追記補足2: 最下段参照)

次に信愛法。赤色の衣を着てなにやら汁を額に塗って真言一阿庾多回。

次に日月を制止する法。「阿闍利飯を用つて日月状と作し、金剛水中に置き」真言を唱える。今度は回数が生涯実現可能とも思える回数に戻って七百万回である。この数字、もし人の生涯分をイメージしての回数であるなら、要はその者は延々一生真言唱えるのだから晝夜(昼夜)の分別など無関係になるだろう、との意か?(←補足訂正: 計算してみたところ、一日六千回として百万回達成が約半年、七百万回だと三年半ほど。)

次に金剛喩沙多成就法。「一具相童女をして諸の香華供養を以って」真言百八回。最期は回数が激減(笑 たぶんここで言う供養は元テキストはセックスがらみであろう。百八回という数字も駄目押しである。加持された童女に三世の事を問うと「時に彼の童女、問いに隨ふて説を爲す」という。

加えて単に成就法とする三種の真言がある。回数が書かれてないので恐らく一回言えばよい。その成果
 ↓
「この眞言を誦すれば、時に象即ち犇走す」
「この眞言を誦すれば、時に虎即ち犇走す」
「この眞言を誦すれば、時に蛇即ち犇走す」

まぁ一方で一阿庾多回が要求されてるのだから、せいぜいほんの百八回とか一回でよしの真言では、得られるのはこのぐらいだということになろうか。要は一阿庾多という仏の領域の時間に比べれば、三世に関わり凡夫の意になることなどほんのこのぐらいのものだがね、という風の意であろうか?

象虎蛇の犇走法真言を漢訳と注釈にあるサンスクリット語で表記すると、
 ↓
尾廬野 尾廬野 (vetuya vetuya)
曼摩 曼摩 (marma marma)
底梨野 底梨野 (tilliya tilliya)
(サンスクリット文字にある点と線は略)

この三種真言には頭にオームの字もなし。

そして
 ↓
「佛、金剛藏菩薩に告げたまわく、我往昔もまた是の法を以て、護藏醉象を調伏し犇走せしむ」だそうである。
(追記補足3: 最下段参照)

最期が重要そうである。
 ↓
此の遨哩明妃・設嚩哩明妃・金剛拏吉尼は即ち無我の義なり、彼の地行・空行・鉤召・發遺悉く相應する故なり。

(途中)
今日は極度に精神が披露したので考察中断。

PS: 考察再開
象虎蛇の真言から最期の三明妃言及までが一括りとすれば、象虎蛇は三明妃の象徴として記されたものとの判断も生じ、要は「降雨法以下云々述べたごとく、三世の衆生意願などは大元これに帰し、またその大元は我(アートマン)無きものと知るべし」、あたりの通常仏教本流どおりの論旨か? ただ、降雨法儀軌より前の主要真言(解説によれば西蔵本では前半部真言は第十八品に相応する章に繰り返されているらしく、漢訳はこれを省略したと見られている)と降雨法以降との大枠での関係が重要であるところだが、より論旨詳細なサンスクリット本の内容が分からなければ深く検証することは困難と思える。

------------------------------------------------------------------------------------------------
追記補足1
蘭香梢で検索したところこのようなサイトを発見。→ こちら
竜王の頭云々の件は他の大乗仏典の言及から取り込んでいる模様。
 ↓
蘭香梢
又作蘭香蕱,舊譯作阿梨樹枝。蘭香花開時,梢頭之花子分為七分,以此比喻鬼神碎罪人之頭為七分。慧琳音義卷三十五(大五四‧五四一下):「蘭香蕱,此即如來譬喻說也。凡蘭香花出時,梢頭花子分為七分,罪人善神破其頭,破作七分,如彼蘭香頭。古譯云阿梨樹枝者,訛也,本無阿梨樹。」

この引用個所だけでは文意総体は不明だが、少なくとも「ヘーヴァジュラ漢訳」側にある「竜王の頭をして七分に破し」とは「鬼神碎罪人之頭為七分」の転倒である。慧琳とは西域出身の八世紀頃の中国僧だそうです。「慧琳音義」は「一切経」への注釈書の模様。さらに追跡したところ、こちらに→ 「佛說穰麌梨童女經」到着してしまいました。「頭破作七分猶如蘭香梢。其有受持此真言法。・・」 かなり錯綜してきた空気です。前半部に「頭破作七分猶如蘭香梢」とあり。

七頭の尊様を持つとの穰麌梨童女とは?と追跡続行したところ、なんと国内の仏像に存在しました →こちら様調査。経典どおり顔が七面(とのこと)。蛇をまとう尊様からナーガ(竜王)の筋を明確にしております。& こちら様のショットを見ると、慶派の流れをくむ感じのなかなかよく出来た像である(こちら様で七頭の状態がよく分る)。法起寺が歓喜天をまつってるというのも興味深い。そして、ほどなく本家側の確実な画像群に到達 →佛說穰麌梨(Janguli) 童女經 Janguli Janguli Arya Janguli 穰麌梨童女(Janguli)

これにより「ヘーヴァジュラ漢訳」側の「竜王の頭をして七分に破し」とは、七頭ナーガ系尊格に関連付けて記していることは確かです。「雨が降らないなら、とうとう役を果たさなかった竜王像に罰を与えて頭を破すればいい」と「それでも雨が降らないならば竜王像をより強い七頭の尊様に変えろ」というダブルミーニングなのか?、という漠然とした印象が脳内を廻っておりますが、「慧琳音義」側の正確な文意が把握できていないので明確な見解がつかめておりません。ただ「ヘーヴァジュラタントラ」はここでも非常に巧妙なことをやってることは確実と言えます。

さらにしぶとく追跡した結果ついにこちらに到着。↓
若悩乱者頭破七分
>羅刹女が釈尊に言います。
若し我が呪(しゅ)に順ぜずして説法者を悩乱せば、頭破(わ)れて七分に作(な)ること阿梨樹の枝の如くならん。父母を殺(しい)する罪の如く、また油を壓(お)す殃(つみ)、斗秤(としょう)をもって人を欺誑(ごおう)し、調達が破僧罪の如く、此の法師を犯さん者は当に是の如き殃(つみ)を獲へべし、


陀羅尼品 第二十六

追記補足2
魔黏を開き成就する法の「魔黏」とは何かが気になるところである。「漢訳→国訳」の訳者注釈に、サンスクリット表記で「madya」とあり、その意味は「酒」とある。だがこの項目の文脈から「酒」は納得行かないわけである。「酒を開く」というのは何だとなる。追跡調査の結果、こちら様ケルン大学サイトにてサンスクリット辞書を発見。これで「madya」を引くと確かに酒である。だが、グーグル検索を再三やると「madhya」という語が常に引っ掛かってくるので、これも引いてみると、この語は多義の意を持つようだが、その中に「女性の腰」「若い女性」などの意がある模様。それなら「ヘーヴァジュラタントラ」の論旨としては実にすっきりする。はたしてサンスクリット本がどうなってるか。翻訳過程の誤訳や意図的はぐらかしというより、元テキストが掛詞的レトリックを用いてる?

追記補足3
護藏醉象の藏はガルバだろうから「ガルバを守護する醉象」という意味で、ならば醉象とは?と検索してみたら、やはり由緒正しく古層大乗に起源がある語の可能性大。→醉象

なるほどこれでした。
 ↓
仏陀の生涯ー3
「酔象調伏」とは仏陀を快く思わない従弟のテーヴァダッタが発情して狂暴となった象(酔象)を放し仏陀を襲わせ殺そうとしましたが酔象は仏陀の前までくると仏陀に怖れおののき頭を垂れておとなしくなったというお話です。


醉象の調査中に偶然いいサイトにぶち当たりました。本経の漢文(全)確保。
 ↓
中国電子佛典協会サイト

posted by コマプ墨田 at 21:58| 仏教関係調査